第十五章:突然目の前に現れた男のこと
1
世田谷の新居に引っ越して、もう五日が過ぎた。
ホルムアルデヒドの数値が基準を満たした日、詩織が引っ越し業者を手配した。俺の荷物は少ない——いや、持ち物なんてほとんどなかった。着替えが数着と、古いリュック一つ。それ以外はすべて詩織が買い揃えてくれたものだ。
新居の客室は、埼玉にいた頃のアパートの三倍は広い。ベッドは大きく、カーテンは濃い灰色。クローゼットには、俺のために用意された服がぎっしりと掛けられている。
詩織の部屋は隣だ。
廊下は静まり返っている。厚いカーペットの上を歩けば、足音一つ響かない。
夜中に目を覚まし、自分がどこにいるのか分からず戸惑う日々に、三日かけてやっと慣れた。
2
一週間。
七日間が過ぎた。
毎日が同じ繰り返し。あのレッスンスタジオ、細い竹の定規を持つ女性、そしてソファに座り、こちらを見つめる詩織の視線。
俺は歩き方を覚えた。
以前とはまったく違う歩き方だ。
かかとから着地し、歩幅を一定に保ち、背筋を伸ばし、肩の力を抜く。だらだら歩かず、つま先で踏ん張らず、体を揺らさない。
女性はこれを「基本歩容」だと言った。
詩織は「やっと見られるようになった」と吐いた。
それ以外にも、振り返り方、座り方、立ち上がり方。物を受け取る時はどちらの手を使うか、コップを渡す時は取っ手をどちらに向けるか。
車に乗り込む際は、まず衣紋を整えてからシートベルトを締める。
階段を下りる時は、手すりに手をついてはいけない。
食事の際、ナイフとフォークを置く時は皿の縁に乗せ、直接テーブルに置いてはならない。
覚えることがあまりに多い。
まるでプログラムを組み込まれた機械になったような気がした。
毎晩新居に戻り、寝室の鏡の前に立つと、無意識に決められた座り姿になってしまう。
膝を揃え、背筋を伸ばし、手を膝の上に置く。
我に返ると、わざと猫背になり、足を組む。
だがしばらくすると、また元の姿勢に戻ってしまう。
体の記憶は、頭よりもずっと速い。
それが少し腹立たしかった。
3
八日目の朝。
いつものように服を持ってベッド脇に立つ詩織の姿はなかった。
寝室を出ると、彼女はリビングのソファに座り、スマートフォンを眺めていた。表情は冴えない。
「おはよう」
「うん」彼女は顔を上げずに答えた。
俺は向かいに座る。
数秒、沈黙が流れた。
「朝食は後で届くわ」彼女は画面から目を離さないまま言った。
そこへ電話の着信音が鳴った。
詩織が電話に出る。
「もしもし」
しばらく耳を澄まし、
「いつのこと?」
さらに話を聞き、
「……分かった。今晩、向かうわ」
通話を切る。
「家の事業にトラブルが生じた。処理に行ってくる。一週間ほど留守にする」
俺は彼女の顔を見つめる。
「今から?」
「そう」彼女は立ち上がり、寝室の方へ向かう。「タクシーを呼んで」
俺は一瞬戸惑った。
「俺が?」
「他に誰がいるの?」
俺は固定電話を取り、執事の番号をダイヤルした。
4
二十分後。
着替えを済ませ、小さなスーツケースを引いた詩織が玄関に立っていた。
彼女は振り返り、俺を見る。
「私がいない間、誰かが面倒を見てくれる」
「誰だ?」
「宗一郎よ」
俺は冗談だと思った。
「……神崎さんが?」
「うん」彼女はパスポートを探そうとカバンを漁る。「もう話をつけた。こちらに泊まるか、あるいは君が彼のアパートへ行くか、どちらでもいい」
「だけど……」
「だけど、なんてないわ」スーツケースのファスナーを閉める。「一週間だけ。ケガなどしないで。礼儀レッスンは一旦休止、戻ってから再開する」
彼女は玄関で靴を履く。
最後にちらりと俺を見やる。
「いい子にしてなさい」
扉が閉まった。
俺は玄関に立ち、廊下を転がるスーツケースの車輪の音を聞いていた。
やがてエレベーターの稼働音が響き、そしてすべてが静けさに包まれた。
広い家が、急にひんやりと空っぽになったように感じた。
5
午後三時。
インターホンが鳴った。
扉を開けると、宗一郎が立っていた。
紺色のポロシャツにカーキ色のパンツ。髪はあまり整えていない。以前より少し痩せたように見える。
「……久しぶりだな」
「久しぶり」
二人は玄関で立ったまま言葉を交わす。
「入ってもいいか?」
「あ、うん」
俺は脇を開け、彼を中へ通す。
宗一郎はリビングに足を踏み入れ、部屋中をざっと見渡した。壁の絵、コーヒーテーブルの花、空気に漂う淡いアロマの香り。
何も言わない。
彼は大きな窓際に立ち、外に見える東京タワーを眺めている。
「ここでの生活は慣れたか?」
「……まあまあだ」
「それなら良かった」
再び沈黙。
俺はソファの脇に立ち、手の置き場に困る。気づけば、いつもの座り姿をとっていた。
宗一郎が振り返り、俺を一目見る。
「変わったな」
「……別に変わってない」
「いや、変わってる」彼は歩み寄り、俺の向かいに座る。「悪い変化じゃないけど」
返す言葉が見つからない。
すると彼がふっと笑った。
「出かけないか? 知ってるゲーセンがあるんだ。渋谷だ。クレーンゲームがあるところだ」
俺は顔を上げる。
「IT企業の社長なのに?」
「社長だからって、クレーンゲームをしちゃいけないわけじゃないだろ」
彼の表情を眺める。その笑顔は、以前の張り詰めた雰囲気とは違っていた。
「……行く」
6
エレベーターの中。
彼が一階のボタンを押す。
「詩織から言いつけられてるんだ。日差しで火照らせるな、転んでケガをするな、ジャンクフードを食べさせるな、って」
「……それなのに、ゲーセンに連れて行くのか?」
「だから、彼女には内緒だ」
宗一郎がこちらを見る。
「告げ口したりしないよな?」
俺は少し考えてから答える。
「取れた景品次第だ」
宗一郎は一瞬きょとんとし、すぐに心から笑い出した。
エレベーターの扉が開く。
夕暮れの渋谷は人でにぎわっている。
彼が先を歩き、俺が後ろからついていく。
ハイヒールも、竹の定規も、強いられた背筋も、ここにはない。
二、三歩進んだところで、また無意識に覚えた歩容になっている自分に気づいた。
かかとから着地し、歩幅を一定に保つ。
わざと地面を強く踏みしめる。
宗一郎が振り返る。
「どうした?」
「別に。靴の中に何か入っただけだ」
彼は足を止め、俺を待つ。
俺は隣に並んで歩き出す。
二人は、騒がしい光の渦の中へと足を踏み入れた。




