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第十四章:ハイヒールと、身体が測り直されること

1


昨夜はよく眠れなかった。

ピアスホールがずっとじんじんと熱を帯びている。横向きになっても、右側を下にしても痛いし、左側でも同じだ。寝返りを繰り返し、布団は丸めてしまった。


詩織は今日もレッスンを続けると言った。


またあのスタジオだ。細い竹の物差しを持つあの女の人のところへ。


昨日ピアスを開ける前までは、あれが限界だと思っていた。


今日は一体何をさせられるのだろう。


枕に顔を埋める。


まあ、どうにもならない。

考えたところで仕方がない。


2


「今日は何を習うの?」

車の中で俺が問いかける。


詩織はスマホを眺めたまま、顔も上げない。


「着けば分かるわ」


俺は車窓の景色を見つめる。

銀座。またこのビルだ。


エレベーターが最上階に止まり、ガラスの扉を開けると、冷たい香りが鼻をつく。


中年の女が既に部屋の中に立っていた。髪はきっちりと整えられ、スーツにはしわ一つない。


「神崎様、佐藤くん」

彼女は軽く頷く。


詩織は壁際のソファに座り、足を組む。


「始めましょう」


俺はその場に立ったままだ。女は俺を一瞥すると、壁際へ歩いて靴棚を引き出す。


扉を開ける。

棚には十数足の靴が整然と並んでいた。

すべてハイヒールだ。


3


「本日は女性の社交マナーを学びます」

女の声は淡々としており、まるで今日の天気を話すような口調だ。


「まず、足に合うものを一足選んでください」


俺は並ぶ靴を眺める。

細いヒールに尖ったつま先。黒、ベージュ、赤。

ヒールは箸のように細い。


「……これ、女の人が履く靴だよ?」


「佐藤くん」女は隅に立てかけてあった細い竹の物差しを取り、靴棚の縁をそっと叩く。

「姿勢に男女の区別はありません。ただ、場によっては女性の身体の所作を理解しなければ、上手く対応できないのです」


「なぜ俺が――」


「私が命じたのよ」

背後から詩織の声が漂ってくる。


振り返ると、彼女はコップの水を持ち、表情に変化は一切ない。


「習得できなければ、帰れないわ」


部屋の中が二秒ほど静まり返る。


女は靴棚から黒のハイヒールを一足取り出す。


「まずこちらを試してください。38サイズ、あなたの足に合うはずです」

彼女は屈んで靴を俺の足元に置く。


「履き替えてください」


4


俺は目の前の靴を見つめる。

ヒールの高さは約7センチ。

光沢のあるエナメル素材だ。


「履けない」


「履いてみなければ分からない」


俺は自身のローファーを脱ぐ。素足で床に立つと、冷たさが足裏に伝わる。


右足を靴に滑り込ませる。

つま先は入ったが、かかとが引っ掛かって外に出たままだ。


女がしゃがみ、俺の足首を押さえる。


「力を込めて」


俺は歯を食いしばり、かかとを押し込む。

足全体が靴に包み込まれた。きつい、とてもきつい。

もう片方の足も同じように履く。


立ち上がった瞬間――

足首がくにゃりと傾ぐ。

慌てて壁に手をつく。


背後で詩織がくすりと笑う。


「生まれたばかりの子馬みたいね」


俺は彼女の言葉を無視する。


「重心が高すぎる……」


「高いのではなく、慣れていないだけです」女は立ち上がり、一歩下がる。

「まっすぐ立ちなさい。両足を揃え、膝を曲げてはいけません」


俺は壁に手をついたまま、ゆっくりと体を起こす。

ふくらはぎが震えている。


「手を離しなさい」


「倒れる」


「離しなさい」


俺は手を離す。

体が二、三回揺れた。

なんとか体勢を立て直す。

だが足首はずっと震え続けている。


詩織が首を傾げて俺を眺める。


「膝をきつく閉じすぎ。小便を我慢しているわけでもないでしょ」


顔が熱くなる。

膝を少し開く。


「それでいい」女が言う。


5


「こちらへ歩いてきなさい」

距離は約五メートルだ。


俺は女を見つめる。


「一直線に歩き、かかとから着地しなさい。歩幅は普段の半分に抑えるのです」


大きく息を吸い込む。

右足を踏み出す。

ヒールが床を叩く――カツ。


足首が右へ傾ぐ。

急いで足裏全体をつけて体を支える。

続いて左足――カツ。

今度は左へ傾いた。


まるで立ち方を覚えたばかりの小鹿、いや、それ以下だ。


詩織はコップを置き、顎に手を添える。


「歩き方が、まるで釘を踏んだみたいじゃない」


俺は歯を食いしばり、足を進め続ける。


「腰を張りなさい。猫背になっています」


無意識に腰を伸ばす。

重心が後ろへ流れ、また体がぐらつく。


「手を使ってはいけません」女の竹の物差しが、そっと俺の手の甲に触れる。


手を引っ込める。


「目線を前に向け、足元を見てはいけません」


顔を上げる。

目の前には鏡があった。


鏡に映る少年は、上質な濃いグレーのセットアップを着て、黒いハイヒールを履き、顔を真っ赤にし、額には汗が滲んでいる。

まるで道化師のようだ。


「歩き続けなさい」


三歩目。カツ。

四歩目。カツ。

五歩目。


ヒールが滑り、体が右へ傾いで――

隣の椅子に手をついて支える。


詩織が声を上げて笑う。


「さっきの転びっぷりは八点。芸術的な転び方だったわ」


俺は荒い息をつき、反論する余裕もない。


「やり直し」女の声には起伏がない。


6


「問題は足首にあります」

女が近づき、しゃがんで俺の右足首を掴む。


「硬く固まりすぎている。足首は関節であって、一本の棒ではないのです」


彼女は俺の足首を掴んで、円を描くように動かす。


「歩く時は、重心をかかとから足裏へ、そして前へと移しなさい。力任せに踏みつけるのではありません」


言われた通りに歩いてみる。


「まだ違います」


女は立ち上がり、俺の背後へ回る。

竹の物差しが俺の腰のくびれに軽く当たる。


「ここから力を入れなさい」


「臀部を締める」


「お腹を引っ込める」


「肩を落としなさい。後ろへ反らすのではなく、下へ沈めるのです」


一つ一つの指示に、物差しの軽いタッチが伴う。

俺はまるで糸で操られる人形のように、次々と体を動かす。


「もう一度歩きなさい」


足を踏み出す。カツ。


「少し良くなりました」


カツ。


「足首の力を抜きなさい」


カツ。


「歩幅をもっと狭く」


カツ、カツ、カツ――


十歩歩いた。

転ばずに済んだ。


立ち止まると、すねの骨がうずくように痛む。


詩織が二回ほど手を叩く。


「進歩したわ。ペンギンからアヒルに進化したってところかしら」


俺は彼女を睨む。


詩織は眉を上げる。


「悠真も度胸がついたわね。私を睨むようになるなんて。続けなさい」


7


「次はターンの練習です」

女は鏡の前に立ち、手本を見せる。


右足を前、左足を後ろに置き、重心を右足へ移す。左足のつま先で床を蹴って体を回し、右足を引き寄せる。


動作は流れるように滑らかで、ヒールの音は二回だけ響く。


カツ――カツ。


「やってみなさい」


俺は彼女の真似をする。

重心を右足に移し、体を回す。


ヒールが滑る――

左足が右足に引っ掛かる。


体が前へ突っ込み、両手を床につく。


「……大丈夫?」詩織の声に、わずかな心配が滲む。


「大丈夫だ」


起き上がる。

膝を床にぶつけたが、ズボンを履いているので傷はついていないだろう。


詩織は首を傾げて俺を眺め、からかうように言う。


「さっきの転び方、誰かに拝んでいるみたいだったわ」


「拝んでない」


「じゃあ、なぜ顔を下に向けていたの?」


俺は返答しない。


詩織が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。

屈んで俺の足元を覗き込む。


「皮が赤く擦り切れているわ」


自分の足を見下ろす。

靴の縁が触れる部分、足首の両側が確かに赤くなっていた。


「新しい靴はこういうものです。何度か履けば慣れます」女が言う。


詩織は言葉を返さず、しゃがんだまま俺の足首外側に指を伸ばす。

指先は冷たい。


「ここ、痛む?」


「……別に」


「悠真、体中で一番強がりなのは口だけね」


彼女は立ち上がり、カバンから小さな箱を取り出す。

絆創膏だ。


包装を破り、再びしゃがむ。


「足を上げて」


俺は壁に手をつく。

彼女は足首の赤くなった箇所に絆創膏を貼る。


貼られた絆創膏を眺める。

真っ白な地に、小さなキャラクターの模様が描かれている。詩織にもこんな可愛い一面があるなんて思いもしなかった。

冷たい雰囲気のこのスタジオの中で、二枚の絆創膏だけがほんのりと柔らかな雰囲気を作っている。


「何をぼんやり見ているの。歩きなさい」詩織が言う。


「レッスンを再開しましょう」女が隣に立つ。


「重心が後ろに偏りすぎています。ターンの時は重心を両足の真ん中に置くのであり、片方の足に乗せてはいけません」


「私の動きをよく見なさい。スローモーションで」


女はゆっくりと動作を見せる。


「やってみなさい。支えてあげます」


彼女は俺の背後に立ち、両手で俺の腰を支える。


「回りなさい」


体を回す。

今度は転ばなかった。


詩織が低く頷く。


「今度は人間らしい動きになったわ」


女は手を離す。


「一人でやってみなさい」


鏡の前に一人立ち、体を回す。


カツ――カツ。

転ばずに済んだ。


8


「次は座り方の練習です」

女は壁際の椅子を指す。

肘掛けはなく、背もたれはまっすぐで、座面は硬い。


「座りなさい」


椅子へ歩いていき、どさりと腰を下ろす。


「立ちなさい」


立ち上がる。


「誰がこんな座り方を教えたのです?」


俺は言葉を失う。


背後から詩織の声が響く。


「彼はいつもこんな座り方よ。埼玉のアパートでも、床にごろんと座っていたもの」


女は詩織を一瞥し、言葉を返さない。


「座る際は、スカートを整える動作を入れなさい。ズボンを履いていても、所作としてその動きは必要です」


「椅子の前まで歩き、体を回し、すねが座面に触れたところで腰を下ろすのです」


「腰を曲げてはいけません」


「座ったら膝を揃えなさい。足は揃えても、前後にずらしても構いません」


女は実際に座って手本を見せる。

背筋はまっすぐに伸び、膝は揃え、足首を組む。

雑誌から切り抜いたような、優雅な姿だ。


「座ってみなさい」


言われた通りに行動する。

椅子の前まで歩き、体を回し、すねを座面に触れさせてから座る。

膝を揃える。


「足元を直しなさい」


足をきっちり揃える。


「硬く固まりすぎ。足首の力を抜きなさい。すねを少し斜めにし、足を引くようにしてもいい」


体勢を調整する。


「よろしい。次に手です」


「手はどう置けばいい?」


「膝の上に置くか、片方の手にもう片方の手を重ねなさい」


手を膝の上に置く。


「力を込めすぎです。軽く乗せるだけでいい」


「肩を緩めなさい」


肩の力を抜く。


「顎です」


「顎は?」


「顎を引きなさい。鏡を見上げるような姿勢になっています」


顎を引く。


鏡に映る少年は、きちんと姿勢を正して座っている。

まるで人形のようだ。


詩織は雑誌を置き、しばらく真剣に眺める。


「うん。この姿勢なら、黙っていれば見破られないわね」


女が言う。


「この姿勢を十分間保ちなさい」


「……十分間?」


「短いとでも?」


詩織が口を挟む。


「この子はじっと座っていられないわ。五分も持たないでしょ」


俺は歯を食いしばって言う。


「座っていられる」


詩織は微笑む。


「なら、楽しみにしているわ、悠真」


9


最初の二分はまだ大丈夫だった。

三分目になると、足がしびれ始める。

四分目、腰がだるく痛む。

五分目、足を動かしたくなる。


「動いてはいけません」女はこちらを見ていないが、俺の動きを察している。


六分目、再びすねの骨が疼きだす。

わずかに重心を左へずらす。


竹の物差しが俺の右肩をそっと叩く。


「体を真っ直ぐに戻しなさい」


七分目。

八分目。


詩織が数秒間俺の顔を眺める。


「顔が引きつっているの?」


「違う」


「じゃあ、なぜそんな辛そうな表情をしているの?」


無表情のまま答える。


「別に」


彼女は笑う。


九分目。

心の中で数を数え続ける。


三百二十を数えたところで、詩織が雑誌を閉じて立ち上がる。


「もういいわ」


体の力を抜き、背もたれにもたれかかる。


「背もたれに寄りかかるな」女の声が響く。


慌てて体を起こす。


詩織が近づき、屈んで俺の足元を見る。


「腫れているわ」


自分の足を見下ろす。

足首が確かに一回り腫れ上がり、絆創膏も膨らんでいる。


「靴を脱ぎなさい。今日のレッスンはここまでにしましょう」


女がしゃがみ、靴の留め具を外してくれる。

靴が脱げた瞬間、足が水中から引き上げられたように軽くなる。


だが床の冷たさが足裏に突き刺さる。


詩織はハイヒールを靴棚に戻す。


「次回はヒールの低いものにしましょう。まずは安定させることから」


「承知いたしました、神崎様」女は頷く。


俺は素足のまま椅子に座る。

十本の指をフローリングの床の上で丸める。


詩織が足元を一瞥する。


「指先も悪くない足をしているわ」


「……ありがとう」


「褒めているわけじゃないわ。この足を無駄にしているのが勿体無いだけよ」


10


車に乗り込む。


詩織がペットボトルの水を差し出す。


「飲みなさい」


キャップを開け、二口ほど飲む。


「足を出しなさい」


「え?」


「足を出して」


言われるまま足を前に出す。


彼女は俺の足を自分の膝の上に乗せ、足首を確かめる。


「帰ったら冷やしなさい」


「……うん」


彼女が俺の足の指をそっとつまむ。


「まだ動く?」


「動くよ」


「なら大丈夫」


手を離し、俺の足を元の位置に戻す。


「次のレッスンは緩い靴下を履いてきなさい。皮がめくれたら、練習がもっと辛くなるわ」


「まだレッスンがあるの?」


詩織がこちらを見る。


「そう思わない?」


車が走り出す。


座席にもたれ、車窓の空を眺める。

ふくらはぎはまだ震えている。

足首は腫れたままだ。


イヤリングがシートベルトに擦れ、耳たぶが再び熱を帯びる。

耳たぶに触れ、次に腫れた足首に手を伸ばす。


今日の俺は、昨日の俺とは、どこか違っている気がした。

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