第十三章:ピアスと、境界が溶けていくこと
1
朝。目覚まし時計が鳴る前に、俺はもう起きていた。
窓の外はどんよりと曇り、セミの鳴き声もまだ聞こえない。
昨日、詩織が今日ピアスを開けに連れて行く、それからエステに行くと言った。
その時俺は「嫌だ」と答えた。
彼女は「怖いなら怖いって言えばいい」と返した。
俺はそれ以上反論しなかった。
言い返せなかったからじゃない。ただ……言ったところで無駄だからだ。
この「言っても無駄」という感覚が、最近ますます強くなってきた。
服から始まり、家具、布団、食事の仕方、歩き方。
そして今、耳の番が回ってきた。
俺の耳だ。
昔、耳に穴を開けるなんて考えたこともなかった。
だがよく考えてみれば——着る服も、部屋のレイアウトも、使う歯ブラシさえ、全部彼女が決めている。
耳くらい、大したことないのか。
……いや。
耳だって、俺の体の一部だ。
やっぱり開けたくない。
けれど明日彼女が来たら、俺は言われるままついていくだろう。
痛いだろう。
彼女は俺が痛がる姿を眺め、悪戯っぽく笑う。
それから俺はこのピアスをつける。
鏡を見た時、確かに以前より似合っているような気がするかもしれない。
そこまで思い巡らすと、俺は布団を頭までかぶった。
煩わしい。
止めるべきだと思う気持ちと、案外悪くないかもしれないという気持ちが、半々に入り混じっていた。
2
「起きなさい」
カーテンも開けていないのに、詩織の声が先に届いた。
目を開けると、彼女がベッドの脇に立っていた。アイボリーのリネンコートを着て、見慣れた紙袋を手にしている。
「今日は礼儀作法の授業がないわ」彼女は紙袋を枕元に置く。「リラックスさせてあげる」
「……どこへ行くの?」俺は知らないふりをして逃れようとした。
「忘れたの?今日はまずピアスを開けて、それからエステよ」
俺は思わず自分の耳たぶに手を添えた。
「開けたくない」
詩織はすでに向きを変え、水を汲みに行っていた。まるで俺の言葉を聞き流したかのように。
「着替えなさい」コップを机に置くと、「朝食は車の中で食べるわ」
3
車がレインボーブリッジを渡っていく。
手に持つおにぎりはまだ温かい。
隣で詩織がスマートフォンを操作し、画面の光が彼女の顔を淡く照らす。
「神崎さん」俺が声をかける。
「うん?」
「ピアス……やめてもいい?」
彼女がこちらを一瞥した。
「どうして?」
「ただ、嫌だから」
「痛いのが怖いの?」
「……違う」
詩織はスマホを置き、体を向けて真正面から俺を見つめる。この角度では、目を逸らすこともできない。
「佐藤悠真、こっちを見て、もう一度言ってみなさい」
俺は口を開いたが、声は出なかった。
彼女はくすりと笑い、再びスマホに目を落とす。
「怖いなら素直に怖いと言えばいい。強がっても仕方ないわ。それとも、他の場所にも穴を開けてみたいの?」
からかうような口調に、俺はため息をついた。
「いや、それは絶対に嫌だ。……じゃあ、耳の穴だけにする」
仕方なく受け入れるしかなかった。
4
車は白と灰色の二階建ての建物の前に停まった。
看板はなく、表札には英単語が一つだけ刻まれている。
詩織が扉を開け、俺も後に続いて店内に入る。
白い壁に灰色のソファ、ガラスケースには無数のピアスが並んでいる。空気にはアルコールと消毒液のにおいが混ざって漂っていた。
黒い服を着たショートカットの女性が現れ、ゴム手袋をはめている。
「神崎様、お待たせいたしました」
「うん」詩織は俺を指し示す。「こちらの方、両耳に開けてください」
女性が俺を見る。「こちらにお座りください」
革張りのリクライニングチェアが置かれている。俺は足を動かさなかった。
詩織が背中からそっと俺を押す。
「座りなさい」
5
「耳たぶの厚さはちょうどいいです。この位置ならピアスもつけやすくなりますよ」
女性はマスクをつけ、こもった声で話す。アルコール綿が耳たぶをなぞり、冷たい感触が広がる。
俺は思わず肩を竦めた。
「動かないでください」
唇を噛みしめる。詩織は隣のソファに脚を組んで座り、コップを手に、瞬きもせず俺の様子を見守っていた。
ペン先で耳たぶに目印をつける。
「位置はよろしいですか?」
「大丈夫です」詩織が俺の代わりに答える。「もし怖かったら、私の手を握ってもいいわ」
「待っ——」
言い終わる間もなく、金属のクリップが耳たぶを挟み込んだ。
「息を吸ってください」
大きく息を吸い込む。
カチッ。
鋭い痛みが走り、針で刺されたような感触の後、鈍い熱さに変わった。
「片方終わりました。次は反対の耳です」
また?
カチッ。
俺は無意識に詩織の腕を強く握りしめた。
女性がクリップを外し、綿球で耳たぶを押さえる。
「少し赤くなっています。絶対に手で触らないでください」
彼女は棚から小さな箱を取り出して開ける。銀色のピアスが二つ並んでいた。
詩織が立ち上がり、覗き込む。
「これに換えて」
カバンから布袋を取り出し、中身を出す。
小ぶりなプラチナ製で、細やかなブラックダイヤがあしらわれたピアスだ。
女性が受け取る。「消毒は必要ですか?」
「済ませてあるわ」
詩織は振り返り、俺の前髪をかきあげる。
「せっかく穴を開けたのだから、良いものをつけなさい」指先が耳殻をそっとなぞる。「じゃないと炎症を起こすわ」
女性がピアスを通し始める。
針が穴を抜ける感触は、痛みはほとんどない。だが奇妙な違和感が残る。
「完成です」
耳たぶに手を添える。冷たい感触がする。
詩織は一歩下がり、首を傾げてしばらく眺める。
「悪くないわ」
スマホを取り出して一枚撮影し、しまい込む。
「さあ、次はエステへ行きましょう」
6
二軒目。
ガラス張りのビルの中だ。
受付のスタッフが浴衣風の着衣を着て、深くお辞儀する。「お部屋の準備が整っております」
竹の床に、精油と木の香りが混ざり合っている。部屋の隅にはアロマキャンドルが灯され、弱い炎が揺れている。
白いバスローブを着たスタッフが二人、部屋の中で待っていた。
詩織はすぐに着替えず、一人のセラピストに言う。
「この方、先ほどピアスを開けたばかりなので、今日は水を使う施術は一切なしで、完全なドライマッサージにしてください」
セラピストが頷く。「承知いたしました」
「それから——」詩織は自分の耳を指す。「マッサージの際は耳周りを避けて。耳たぶに触れたり、圧をかけたりしないでください」
「かしこまりました。十分気をつけます」
詩織はようやくコートのボタンを外し始める。
「着替えなさい」
俺はその場に立ち尽くす。
「俺は……外で待っているから」
詩織が振り返る。
「一人で服を脱げないの?」
「そういう意味じゃなくて——」
「ではどういう意味なの?」
二人のセラピストはうつむき、聞こえないふりをしている。
詩織が歩み寄り、俺のシャツの一番上のボタンを外す。
冷たい指先。
一つ、また一つとボタンが解かれていく。
俺は体を硬くし、動くことも、彼女の顔を見ることもできない。
シャツが脱げる。俺は思わず腕を胸に抱える。
「前を向きなさい」
言われるまま背を向ける。
「腕を下ろしなさい」
腕を離さない。
詩織はため息をつき、俺の正面に回り込み、胸元で組んだ腕を引き離す。
「何を怯えているの?」
「怯えてなんかいない」
「じゃあ、どうして震えているの?」
自分の指先を見下ろす。
確かに、震えていた。
7
セラピストが使い捨てシーツの上に白いタオルを敷く。
詩織はコートを脱ぎ、キャミソール一枚になってベッドに横たわる。
「うつ伏せになりなさい」
俺は覚悟を決め、ベッドにうつ伏せになり、顔をタオルに埋める。
セラピストが再び確認する。「耳周りには一切触れませんので、ご安心ください」
「うん」
精油が背中に注がれ、じんわりとした温もりが広がる。
両手が肩甲骨から下へと揉みほぐしていく。首や耳の周りはきっちり避けられている。
「筋肉がとても凝っていますね」セラピストが小声でつぶやく。
「普段から運動なんてしないから」詩織の声が隣から響く。「肩を重点的にほぐして」
「かしこまりました」
手が肩甲骨を強めに揉む。想像していたより力強い。
タオルを噛みしめ、声を上げないように堪える。
「痛かったら言いなさい」
「……痛くない」
隣からくすりと笑う声が聞こえる。
「脚の方もお願い」
手が腰元へ移る。
俺は思わず体を弾ませた。
「くすぐったいですか?」
「違う——」
「この子は単純にくすぐったがりなのよ」詩織が俺の言葉を遮る。
彼女が寝返りを打つ音がする。
「仰向けになって、上半身もマッサージするわ」
俺は慌てて顔を上げる。「上半身はいい——」
「じっとしていなさい」
セラピストは既に準備を整えて待っている。
仕方なく仰向けになり、天井を見つめる。
手が腕から掌へ移り、指一本一本を揉みほぐしていく。終始、耳に触れることはなかった。
詩織の方は静かで、肌と精油が擦れる微かな音だけが響いている。
「気に入った?」彼女が突然問いかける。
「まあまあだ」
「まあまあ、ってどういう意味?」
「ただ……まあまあだって」
「じゃあ、次も来る?」
俺は答えを濁す。
手が鎖骨辺りに差し掛かる。思わず体を逸らす。
「逃げないで」
詩織の声がすぐそばに響く。
横を向くと、彼女は肘をついて頬杖をつき、じっとこちらを見つめていた。
「怖くないって言ったくせに、どうして逃げるの?」
「条件反射だ」
「強がりね」
彼女は笑い、再び仰向けになって横たわる。
8
施術が終わる。全身に精油の香りがまとわりつく。
温かいタオルが背中に乗せられ、凝り固まった筋肉を優しく包む。
詩織は先に起き上がり、鏡を見ながら髪を整えている。
「肌が随分すべすべになったわ」独り言のようにつぶやく。
俺はそのままうつ伏せになっていた。起き上がる気になれない。
「今後は毎週一度、こちらに通わせます」詩織がセラピストに告げる。
「承知いたしました」
俺はようやく座り上がる。タオルが肩から滑り落ちる。
詩織がちらりと視線を投げ、隣からバスローブを差し出す。
「着なさい。風邪をひくわ」
バスローブを羽織り、紐を結ぶ。
照明に照らされ、耳たぶのピアスがきらりと光った。
詩織が近づき、俺の髪をかきあげてピアスを確認する。
「腫れもないわ」満足げに頷く。「明日には別のデザインに換えられるわ」
「また換えるの?」
「当然よ。ピアスは服に合わせるものなの。今日の服装にはこれがぴったりだけど、明日濃い色の服を着るなら、シルバーのものに換えないと」
俺は耳たぶに手を添える。
「さあ、着替えて昼ご飯を食べに行きましょう」
彼女は既にコートを着直していた。
9
エステの店を出る。
夏の夕陽は相変わらず眩しい。
詩織が先を歩き、ハイヒールが地面を叩く音が、リズミカルに響いている。
俺が後ろからついていく。
太陽の熱を受け、耳のピアスがじんわりと熱を帯びる。
「悠真くん」
彼女が足を止め、振り返る。
今日一日、自分らしくないような感覚に囚われ、言葉が出てこない。俺はただ小さく「疲れた」とつぶやいた。
俺の沈黙を見て、彼女が笑う。
からかいではなく、心から面白がっているような笑みだ。
「ずっと横になっていただけなのに、何が疲れるの?」
「マッサージを受けるのも、疲れるんだ」
「そう」彼女は振り返り、歩き出す。「すぐ慣れるわ」
彼女の背中を眺めながら、再び耳に手をやる。
痛みは大したことない。だが、まだ違和感が残っている。
10
車が走り出す。
詩織が突然指を伸ばし、指腹で俺の耳たぶをそっとなぞる。
「とても似合っているわ」
そう言った。
俺は窓の外に目を向ける。
バックミラーに映る自分の姿。
耳に二つ、黒い輝きが宿っていた。
……まあ、いいか。
これはこれで、悪くないのかもしれない。




