第十二章:俺の身体が再コーディングされた件
1
朝、冷たい香水の香りが鼻先に押し寄せ、俺はむせて目を覚ました。神崎詩織の身にまとうこの香りには、まだ慣れない。
十畳にも満たない狭い部屋の中で、空気清浄機が低い音を立てて稼働している。詩織は窓際に逆光で立ち、すらりとした体つきが、元々淡い朝の光を遮ってしまっていた。
「七時半だわ」
彼女は冷たい指先を伸ばし、乱れた前髪をそっとかきあげる。
「起きなさい。朝ご飯を用意したわ」
掌が俺の頬をなでた。
ひんやりと冷たい感触だ。
俺は勢いよく起き上がり、枕元に手を伸ばす。いつもくたびれた古いTシャツは見当たらず、代わりに整然と畳まれた服一式が置かれていた。またこの服装だ。
古びた賃貸部屋にこんな格好でいると、安物の商品を無理やり高級な箱に詰め込まれたような気分になる。
朝食は新しい木製のテーブルに並んでいた。ベーグルに得体の知れないソース、湯気を立てるブラックコーヒーが添えられている。
コーヒーを口元に運び、一口啜る。激しい苦みが広がる。口の中に含んだまま、飲み込むことも吐き出すこともできない。焦げ臭い膜のような味が舌に張り付き、ベーグルの僅かな小麦の香りを完全に覆い隠してしまった。
詩織がじっと俺の様子を見つめている。仕方なく意を決して飲み込むと、熱さに食道が痙攣した。
俺の表情を見て、詩織は穏やかに笑う。
「無理して飲まなくても大丈夫。食道を火傷したら大変だもの」
彼女は俺の手からカップを取り上げ、そのまま飲み干す。俺が使ったばかりの容器だ。
詩織は食事に手をつけず、カップを持ったまま俺を見守る。
「しっかり食べなさい。今日は覚えることがたくさんあるから、疲れたなんて言わず、頑張りなさい、悠真」
俺は無気力に咀嚼を続けるが、味覚は完全に鈍っている。熱さのせいか、コーヒーの苦さのせいか、それともこれから始まるレッスンへの戸惑いからなのか。
「どこへ行くの」
俯いたまま問いかけ、声は掠れていた。
「レッスンよ」
カップの底が木製テーブルに触れ、澄んだ音が響く。
「この立場に相応しい人間になるための勉強をするの」
2
午前十時、車は厳かな雰囲気のオフィスビルの前に停まった。
普通の学校でも、一般的なスクールでもない。最上階にひっそりと佇む個人向けイメージコンサルティングスタジオだ。
厚いガラス扉を開けると、騒音は一切なく、穏やかな香りが漂っている。不快に感じることはなかった。
五十歳前後の女性が既に待ち構えていた。髪はきっちり整えられ、端正なスーツを着こなし、まるで定規のように背筋を伸ばしている。
「こちらが佐藤悠真です」
詩織はまるで磨き上げる原石を紹介するかのような口調で、女性に俺を引き合わせる。
「今日から毎日、一週間休まず連れて参ります。基本的な所作、社交の言い回し、食事のマナーなどを学ばせます」
拒絶する気持ちは湧かない。それどころか、一週間後の自分の姿に僅かな期待さえ抱いてしまう。歪んだ葛藤が心を占める。
レッスンは唐突に始まった。
講師は長々と道理を説くことなく、大きな姿見の前に俺を立たせる。
「肩に力が入りすぎている。常に何かを担いでいるようだ」
冷めた声が響き、細い教鞭が俺の肩甲骨を軽く叩く。
「力を抜きなさい。逃げ出そうと身構える必要はない」
その瞬間、全身の筋肉がぴくりと痙攣した。
奥のソファには詩織が端正な姿勢で腰を下ろし、書類を手に時折鏡の中の俺を眺めている。その瞳には、手元の品物が丹念に仕上げられていく喜びが宿っていた。
3
「歩いてみなさい」
一歩踏み出した途端、講師の制止がかかる。
「かかとから着地しなさい。歩幅が狭く、こそこそ歩いているように見える。膝を上げ、だらけた歩き方はやめること」
歩き直す。汗がこめかみから伝い落ちる。
背後から詩織の微かなため息が漏れ、叱責よりも心苦しく響く。講師はその気配を察し、教鞭で床を突く。
「重心が後ろに偏っている。目の前がレッドカーペットだと想像しなさい」
続いて食事の所作指導。
重厚な銀食器一式が用意され、実際には存在しない料理を切り分ける動作を模範で見せる。
「手首を安定させ、肩を上げない」
「肘を外に張り出さない。君のような少年は、将来パーティー会場に足を運ぶ身だ。満員電車でつり革につかまる姿とは違う」
度重なる矯正は、目に見えない平手打ちのように心に突き刺さる。
勉強しているという感覚ではない。自分自身が初期化され、新たなプログラムを埋め込まれていくような感触だ。
4
休憩時間、詩織が水を持って近づいてくる。
彼女は指を伸ばし、シャツの襟元をそっと整える。慣れた香水の香りが漂ってくるが、先ほどの不快感は薄れていた。
ハンカチを取り出し、額に滲んだ汗を優しく拭き取る。
「上出来だわ」
柔らかな声に、揺るぎない肯定の響きが込められている。
「三度目に姿勢を正した時、背筋を伸ばした様子は、名家の子弟の雰囲気が出てきたわ」
耳元まで顔を寄せ、吐息が耳殻に触れる。
「昔の無邪気な姿も可愛かったけれど、今の姿こそ、私の隣に立つに相応しいのよ」
5
初日のレッスンが終わり、建物を出る頃には夕陽が空を染め、俺の影を長く引き伸ばしていた。
車の窓ガラスに映る、上質なアウターを着た自分の姿を眺め、歩行練習で痛みを覚えた足元を見下ろす。
詩織が車のドアを開け、振り返ってここ数日で一番明るい笑顔を見せた。
「お疲れ様。明日は一日休みにして、筋肉の疲れを癒すためエステに連れて行くわ。ついでにピアスの穴も開けに行きましょう」
車内に乗り込むと、体は自然と今日習得した名家風の座り姿勢をとっていた。
狭い車内で、俺は突然戦慄に襲われる。
本当の佐藤悠真はどちらなのか。
本当の自分自身が、もう分からなくなってしまった。




