第32話 飾らない夜
笑顔と、歓声が遠ざかっていく。
最後にサフィールが、クレシェンテ公爵邸を離れた。
つい先ほどまで、祝いの言葉とプレゼントに満ち溢れていたダンスホールでは、使用人たちが手際よく皿を片付けていた。
柔らかい紫色の花からは、まだ香りが漂っていた。
飾り付けられたリボンも、水晶のシャンデリアも。
何ひとつ変わらず、徹底された“完璧”な美しさだった。
けれど、誕生日パーティは終わってしまった。
「本日は、誠にありがとうございました」
花の意匠が施された扉が、完全に閉じる。
それまでソフィは、笑顔で挨拶をし続けていた。
相手の名前を呼び、感謝を述べ伝え、微笑む。
背筋を伸ばし、指先を整えて。同じようで、ほんの少し違う言葉で公爵令嬢として答えていた。
その度に、淡い紫色のドレスの裾が静かに揺れた。
挨拶を終え、ソフィが小さく息をつく。
張り詰めていた糸が、僅かに緩むように。
それは、聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
「……ソフィ、お疲れさま」
マナが声をかけると、ソフィはすぐに振り返った。
「マナ、お待たせ!」
いつもの明るい笑顔。
弾んだ声だけど、昼間より柔らかい。
アメジストのような瞳が、月光を受けて煌めいた。
マナはふと、階段上を見上げる。
ステンドグラス越しに見る夜空はいつもよりずっと色彩豊かで、星も鮮やかな輝きだった。
そのとき、公爵と公爵婦人が来た。
愛情こもった優しい手で、ソフィの髪を撫でる。
飾りなどない、心からの想いだった。
「今日はとても立派だったわ、ソフィ」
「ありがとうございます、お母様」
「笑顔も、所作も完璧だと家庭教師も褒めていたわよ」
「それはよかったです」
ソフィも、柔らかい微笑みで返す。
家庭教師。
公爵令嬢としては、当たり前なのだろう。
けれど、マナには少し苦しそうに思えてしまった。
公爵は、マナに笑顔を向ける。
娘の友人を大切にする視線に、偽りはない。
「マナさん、来てくれてありがとう」
「い、いえっ!こちらこそ……!」
「今夜は、ソフィの部屋でゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
マナが頭を下げると、ふたりは笑顔でそこを離れた。
使用人たちは、まだ片付けをしている。
微かに皿の触れ合う音だけが、伝わって来た。
マナたちは部屋に行くことに。
ゆったりと、階段を登って廊下を歩く。
窓の外には、まだ美しいままの噴水と花壇。
水面には月明かりが、優しく揺れていた。
ソフィは、マナの手を引きながら軽やかに歩く。
「ここが、私の部屋だよ!」
ソフィが扉を開けた。
奥にあったのは、薄紫を基調とした部屋。
大きくて柔らかそうな、薄紫色のベッド。
本棚には、数えきれないほどの本。
ローテーブルの前には、ソファがひとつ。
花瓶には、ラベンダーの花束が生けられている。
「ちょっと待っててね、着替えてくる!」
「うん」
隣の部屋に入るソフィを見送った。
マナは、なんとなく部屋を見回してみる。
マナの部屋とは、比べものにならないほど広い部屋。
誰もいないと、まるで──
ひとりでいることが、強調されるかのように感じた。
隣の部屋には、ソフィがいるはずなのに。
ふと、ソフィの勉強机らしきものを見つけた。
部屋と同じ色合いで、木製の可愛い机。
椅子も座り心地が良さそうで、勉強するための最適化された環境が整っていた。
机の上には、いつくもの参考書とノート。
そして。
いつものカメラと、小さな紙束が端にあった。
何度もめくられたような跡が、たくさんついている。
きっと、ソフィにとって大切なものなのだろう。
「お待たせ、マナ」
振り返ると、パジャマ姿のソフィがいた。
花模様の可愛らしいパジャマ。
ラベンダー色のまとめられていた髪は、ゴムが解かれ、肩からゆるやかに流れている。
いつものソフィとは、また違った姿だった。
侍女に案内され、マナも風呂を借りる。
風呂場もまた綺麗に整った、大きな風呂だった。
髪飾りを外した姿を見られないか、とても緊張しながら風呂に浸かっていた。
一度侍女に声をかけられたときは、大焦りだった。
風呂から上がると、持ってきたパジャマを着る。
「お待たせ、ソフィ」
「……マナ、かっわいいぃ〜〜!!」
いつもと変わらないテンション。
カメラを両手に握りしめ、激写ポーズ。
けれど、マナは紙束が気になった。
「……ソフィ、あれ見てみたい」
ソフィは、紙束へ視線を向ける。
「えっと、おもしろいものじゃないよ?」
「うん、いいの」
「じゃあ、ちょっとだけね」
紙束のうち、数枚を手に取った。
貼り付けられた写真。
書かれた短い文章。
どこか未完成な物語のよう。
まるで、楽しい時間だけを──
ぎゅっと閉じ込めたような小さな世界。
“マナと出逢った日”
そこには、制服姿のマナの写真。
最も大切な出逢い、と添えられていた。
“星祭りで殿下と踊るマナ”
そこには、当日撮られた写真があった。
照れてて可愛い、と添えられていた。
ソフィは、そっと1枚を眺める。
「マナたちとの、思い出だよ」
「……すごく、いいね」
「えへへ、ありがとう!」
少しだけ、沈黙の時間が流れた。
夜風が木々を揺らし、噴水の音だけが響く。
昼間の賑やかさが、嘘のような静けさだった。
これが、普段のクレシェンテ邸の姿なのか。
それとも、“特別”な日の姿か。
少なくとも、公爵家のあるべき姿という気がした。
ソフィが、ぽつりとつぶやく。
「……写真だけに、収められない想いもあるでしょ?」
指先で文字をなぞり、写真をめくる。
「そんなものも、物語にできたらいいなって」
ソフィは、視線を落とした。
何かを言おうとするように、口を開いて。
けれど小さく息をつき、また閉じた。
やがて、ソフィが言葉を零した。
「……お父様も、お母様も優しいの」
脆くて、崩れてしまいそうな声だった。
「だから──」
言おうとして、飲み込んだように見えた。
代わりに、年相応の少女らしい声が落ちた。
「……“いい子”であれば、夢も諦められるのかな」
マナは、すぐに答えることはできなかった。
自分に問いかけるかのような言葉だった。
答えを求めた問いではない。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、今は違う。
あのときの、ルティアナと同じだ。
だから。
今度は、間違えない。
正しいものはわからないけど。
「……ソフィが、それを好きなのは……」
言葉をひとつ、ひとつと選んで。
「願いを込めてるから、じゃないかな……」
願いが何かはわからない。
けど、“いい子”になることに関係のない、確かな願いがそこにはあったはずだから。
そんな想いを込めて、なんとか言葉を紡いだ。
ソフィは目を見開いて、少し沈黙していた。
何かを思い出すように、じっと紙束を見つめて。
しばらくして、顔を上げた。
「……うん、そうなのかも」
ソフィは、微かに笑った。
「マナ、そろそろ寝よっか」
マナは小さく頷き、移動した。
予想通りの柔らかいベッド。
毛布に包まれると、とても暖かい。
隣に、ソフィも潜り込んだ。
窓の向こうには、幾つかの星が煌めく。
カラフルな夜空も悪くないけど、やっぱり暗くて静かな方が、ずっと心が落ち着くような気がした。




