第29話 消えかけた炎
宴会場を満たしていた静寂が、砕け散った。
吊るされた龍飾りが大きく揺れ、細かな塵が降る。
円卓に並べられた白磁の皿が、カタカタと音を立てた。
注がれた茶が波紋を広げ、次にはグラスが倒れていた。
「炎神龍の咆哮だ・・・!」
誰かが、そう叫んだ。
それを合図にするように、あちこちで悲鳴が上がる。
舞姫たちは、壇上で身を寄せ合った。
楽師たちは楽器を抱えたまま、凍りついていた。
賓客たちは逃げ出し、護衛が護ろうとする。
華やかな宴の空気が、恐怖に塗り潰された。
「まさか、火山が噴火するのか!?」
「なんでこんな日に・・・!」
ざわめきが、波のように広がっていく。
星焰連邦国において、炎神龍はただの伝説ではない。
紅き神龍が吠えるとき、山が火を吹き、空は燃え盛る。
それは星焰に住まう者なら、誰もが知る災厄の前兆だ。
サフィールは、咄嗟に壇上を見上げた。
揺れるスポットライトの下に、美しい少女がいる。
玉婷は、舞台の上で膝をついたままだった。
黄金色の瞳が、窓の外を見つめている。
そこに映るのは、驚きでも、恐怖でもない。
ただどこか、寂しそうに震える瞳。
次の瞬間、足元から突き上げるような揺れ。
建物全体が軋む音が鳴り、灯りがぶつかり合う。
「落ち着いて行動してください!」
「主席とラニアケア王をお護りしろ!」
護衛たちの声が、会場内を飛び交う。
混乱した会場を、なんとかまとめようとしていた。
けれど恐怖に呑まれた人々は、簡単には止まらない。
誰かが出口へ駆け出すと、一斉に周りも集まる。
椅子が倒れ、肩と肩がぶつかり合い、怒声が飛ぶ。
ドレスの裾を踏まれた女性や、転んだ高齢者もいた。
このままでは、噴火より先に人の波で怪我人が出る。
せめて、噴火の脅威を抑えられればーー。
サフィールは、口を引き結ぶ。
そして短く告げた。
「ノエル、陛下をよろしく」
「殿下・・・!?」
扉とは反対側の奥にある、大きな窓へ。
星空の下に聳えるのは、赤黒い山影。
先ほどまで眠っていた、星焰山が紅い炎を宿していた。
山頂付近から、細い煙が立ち上っている。
その瞬間。
爆音が大地を叩き割るように、轟いた。
建物丸ごと振り回されるような、揺れが襲った。
星焰山の頂から、紅蓮の火柱が噴き上がる。
夜空を焼き尽くすかのように、紅く染まっていく。
星の煌めきが、炎の輝きに呑まれて消えた。
遅れて、熱を含んだ風が窓を叩いた。
「あ、あれはなんだ・・・?」
恐怖からか、震える声で誰かが問う。
火柱に伴うように、黒い影が飛び出す。
夜空に散った煤、もしくは逃げ出した鳥だと思った。
けれど、違う。
それは燃えながら弧を描き、重さを伴って風を裂く。
炎に照らされたのは、ひとつだけではない。幾つもの岩塊が、天焰宮へと向かってきた。
「火山弾だ・・・!」
ひとりの言葉に、会場が凍りつく。
直後、悲鳴が重なった。
先ほどより強い混乱が包んだ。
さらなる人が、扉へ駆ける。
サフィールは、手をぎゅっと握った。
避難はもう、間に合わない。
城に直撃すれば、ただでは済まない。
それでも、彼らを助けられるのは。
「・・・僕が、止めます」
誰にも聞こえない声で、つぶやいた。
両手を空に向けて、掲げる。
指先に淡い輝きが灯された。
“天の力”ーー
サフィールが、星から与えられた祝福。
同時に、彼が皇太子として求められた理由でもある。
(・・・王になんて、なってやるつもりはない)
それでも。
彼らが自分のことを、皇太子と呼ぶから。
恐怖に怯える人々が、そこにいるのだから。
ーーそれに、きっと彼女もこうするはず。
次の瞬間、空へ向かって光が伸びる。
柔らかい金色の線が、弧を描いていく。
一筋の光が、幾重にも重なる。
やがて巨大な膜となって、天焰宮を覆った。
透き通るような、光の結界。
星光を閉じ込めたような、暖かな輝き。
直後、最初の火山弾が衝突した。
轟音と共に、光の膜に波紋が広がる。
衝撃から床が震え、人々が頭を抱える。
けれど、火山弾は届かなかった。
燃える岩は、結界の表面で砕け散った。
火花を散らし、燃え尽きた星のようだった。
「・・・い、生きてる?」
「殿下が、護ってくださった!」
「うおぉぉっ!」
恐れるままに顔を上げた人々の間に、安堵が駆け巡る。
涙ぐむ者や、胸を押さえる者、手を組む者もいた。
一部の人たちは、歓声を上げていた。
けれど、サフィールは笑えなかった。
まだ、ひとつ防いだだけだ。
火山弾はいくつも、夜空に残っている。
結界越しに伝わる衝撃も、かなり重いもの。
「くっ・・・」
指先が震えてしまう。
魔族の攻撃を、受け止めたときを思い出す。
今よりずっと、重い衝撃があった。
暗闇の中で、恐怖との戦いでもあった。
それでも、絶対に護りたい人が隣にいた。
サフィールは、歯を食いしばる。
ふたつ目の火山弾が、結界を叩きつける。
光の膜と、サフィールの表情が同時に歪んだ。
みっつ、よっつ。
宴会場の人々は、ただ見つめていた。
誰もが、サフィールの背を見ていた。
まだ小さな、少年の背中。
そんな背を、玉婷は舞台上から見ていた。
金色の膜が、夜空を隠すように覆っていた。
炎を纏った火山弾が、何度も結界にぶつかる。
そのたびに、衝撃が波紋となり赤い火花が散る。
まるで、隕石をひとりで受け止めているかのよう。
「・・・すごい」
舞姫のひとりが、そうつぶやいた。
頬をほんの少し赤らめて、見つめていた。
ただ、玉婷にはわかる。
サフィールの肩が、少しずつ震えていること。
衝撃を受け止めるたび、結界が薄く揺らいでいくこと。
何よりも、彼が一歩も退こうとしないこと。
玉婷は、膝をついたままだった足に力を込める。
衣装の裾を持ち上げ、立ち上がった。
先ほどまで、星に祈っていた舞台に静けさはない。
「・・・全員、地下避難所へ」
小さく告げた声は、誰にも届かない。
だから玉婷は、大きく息を吸い込んだ。
「全員、地下避難所へ移動してください!」
凛とした、高い声が響いた。
怒声を上げていた人が、声を鎮める。
出口へ向かっていた賓客たちが、足を止める。
舞姫たちが、震えながら玉婷を見上げた。
玉婷は舞台を降り、会場の中央に立った。
腕を振り、声を張り上げる。
「あちらの回廊から、地下へ降りてください!怪我人を最優先にしてください!」
賓客たちは、呆然と固まっていた。
「殿下がお護りくださっている今しか、避難することはできませんわ!」
その言葉に、空気が変わった。
怯えていた者たちが、次第に列を取り始める。
侍女たちがすぐに回廊奥の、扉を開いた。
護衛たちは、怪我人を背負って歩き始める。
舞姫たちは、鮮やかな色彩の布で誘導を始める。
「慌てないで、落ち着いてください!」
「誰か、肩を貸してください!」
「皿を踏まないように、気をつけて!」
玉婷は、人の流れの中を走った。
衣装の裾が、足に絡まる。
美しい羽衣が、今となっては行動を阻んだ。
それでも玉婷は、迷いなく裾をたくし上げる。
直後、また轟音が響いた。
天井から、装飾のかけらが落ちてくる。
玉婷は反射的に、窓の外を見た。
サフィールの結界は、まだ城を覆っている。
けれど、膜は明らかに薄くなっていた。
衝撃を受け止めるたび、金色の線が細かく乱れる。
サフィールは窓際に立ったまま、両手を下ろさない。
けれど、顔色はだんだん悪くなる。
額には汗が滲んで、腕が震えていた。
それでも彼は、諦めようとしない。
「・・・どうして」
微かに震える声だった。
どうして、そこまでできるのだろう。
見ず知らずの人のために、身を削るようなことを。
自分だけ、逃げてしまえば苦しまないのに。
だけど、なんとなくわかる。
きっと理由なんて、簡単なものなのだろうと。
胸の奥底で、消えかけていた炎が揺れる気がした。
そのとき。
光の膜の奥に、一際大きな岩塊が見えた。
紅く焼けたそれは、勢いよく向かってくる。
「殿下!」
玉婷とノエルは、同時に飛び出していた。
けれど、サフィールの指先が震える。
膝が揺れて、掲げていた腕が僅かに下がる。
金色の結界に、亀裂が走った。
「・・・っ!」
パキン、と澄んだ音が鳴る。
それでも彼は、もう一度手を伸ばそうとした。
けれど、光は集まらない。
“天の力”は、淡く瞬いて消えるだけだった。
玉婷の心臓が、強く跳ねる。
ダメだ、間に合わない。
ーーその瞬間。
サフィールの眼前を、紅い炎が迸った。
紅蓮の輝きが、龍のようにうねる。
熱気を含んだ風が、強く吹き付けた。
夜空へと伸びていき、迫る火山弾へ喰らいつく。
衝撃のない、轟音が響いた。
燃える岩と、純粋な炎が絡み合って弾けた。
火山弾は押し返され、燃え盛りながら山影に消えた。
玉婷は、声を出せなかった。
まだ小さな炎を宿した手が下がる。
ゆっくりと振り返る、夜空色の髪。
そして、何度も思い返していた紅い瞳。
何か言おうとして、開いた口が結ばれる。
今にも崩れそうなほど、脆い表情に見えた。
彼女は、玉婷から目を逸らした。
「・・・本当は、諦めかけていたの」




