第30話 未完成の物語
まだ、玉婷が8歳だったころ。
煌めく星空の下に、燃え盛る火山が佇んでいた。
庭に置かれた灯籠は、灯された火を小池に映していた。
机に並んだふたりの少女は、鉛筆を手にしていた。
星のない夜空のような髪が、風に靡いた。
まるで本物の姉妹のように育った、玉婷の親友。
乳母の娘である、春莉雅だ。
机の上に散らばった紙には、文字が書き込まれていた。
隅には龍や剣のイラストが、所狭しと描かれていた。
真紅の髪を持つ少女、玉婷は顔を上げた。
「莉雅、お城の絵も描きましょう?」
「それはいいですね、玉婷さま!」
ふたりは隅っこに小さく、お城の絵を描き足した。
鉛筆を走らせるたび、登場人物や景観が描き足された。
ふたりはよくこうして、物語を作っていた。
星がすぐ近くにあったり。
雨が宝石になって降っていたり。
龍が全部燃やして、解決したことになったり。
筋も通っていない、おかしな物語。
それでもふたりにとっては、宝物だった。
莉雅は“炎の力”を持っていた。
雨の降る夜には、炎で暖めてくれた。
怖いことがあったときには、わたしが龍みたいに全部燃やしてあげるから、と笑っていた。
玉婷が何かを最初に話す相手は、決まって莉雅だった。
だからこれからも、ずっと隣にいるのだと思っていた。
離れる日が来るなんて、想像もできなかった。
ある日のこと。
莉雅は、俯いたまま玉婷に告げた。
“炎の力”の訓練をするため、隣国へ留学すると。
「わたし、絶対に玉婷さまを護れるようになるから」
小さな手を、胸の前で握っていた。
莉雅の声は、微かに震えていた。
緋色の瞳には、涙を流したような跡があった。
それでも、奥には輝く炎を宿していた。
ーー行かないで。
言葉にしようとして、喉元で止まっていた。
もっと一緒に遊んでいたい。
護らなくても、強くならなくてもいい。
ずっと隣で、物語を書き続けたい。
でも、言ってしまったら莉雅を困らせる。
優しい莉雅なら、留学を辞めてしまうかもしれない。
莉雅は、玉婷を護るために強くなると決めているのに。
玉婷が願ったら、大人たちは予定を変えるだろう。
主席令嬢の言葉は、子どものわがままでは終わらない。
玉婷の寂しさで、莉雅の選んだ道が変わってしまう。
玉婷はそれを、幼いながらに知っていた。
だから、なんとか微笑みを浮かべた。
莉雅が迷いなく、選んだ道を進めるように。
「・・・莉雅、応援していますわ」
莉雅は、ほんの少し目を見開いた。
「・・・ありがとうございます、玉婷さま」
ほんの少し、寂しそうに微笑む莉雅。
空港へ向かう車に乗り込み、遠く離れて行った。
玉婷は車が見えなくなると、手を下ろす。
しばらく道の先を見つめ、そして部屋へ戻った。
机の上には、まだ未完成の物語が置かれていた。
玉婷はそれを机の引き出しにしまい、空を見上げた。
(・・・雨が降り始めたわ)
星空を雲が覆い隠してしまった。
冷たい風が、部屋にも流れ込んでくる。
それでも、暖めてくれる炎はそこになかった。
小池に映る、仄かな灯火は揺らいでいた。
灯籠は雨風から、火を守ろうとしているように見えた。
それからしばらく、ふたりは手紙を送り合っていた。
未完成の物語を、交互に書き進めたり。
勉強や訓練で、どれほど上手くできたか自慢し合った。
悲しいことがあっても、伝える相手がいた。
けれど、月を追うごとに回数は減っていった。
手紙を書く日も、悩みを伝え合う機会も少なくなった。
玉婷は主席令嬢として、勉強や稽古が増えた。
『今日は、少し悲しいことがありました』
そこまで書いて、玉婷は鉛筆を止めた。
知らない国で訓練に励む彼女に、こんなことを伝えてもよいのだろうか。
聞いた限りでも、訓練が思うように進まず、留学自体も長引いてしまっているというのに。
自分の悲しみまで、背負わせてしまうなんて。
玉婷は文字を消し、代わりに書き直した。
『今日も、とても楽しい1日でしたわ。莉雅も頑張ってくださいませ』
莉雅もきっと、同じように文字を消していただろう。
次第に、手紙には明るい出来事が並ぶようになった。
会えない日が続いているのに、手紙の中だけは楽しそうだった。
ーー物語は、机にしまわれたままだった。
莉雅が帰国できると、知らせてくれた日もあった。
けれど、玉婷の公務となかなか噛み合わない。
玉婷が空いた日には、莉雅の訓練があった。
今回は会えない、でも次なら。
あと少しだけ待てば、会えるから。
玉婷は、自分にそう言い聞かせていた。
けれど、望んだ日は訪れなかった。
互いに確定しない予定は、伝えなくなった。
期待して、落胆することに疲れ始めていた。
「寂しい」とは誰にも言えなかった。
朝起きたら、侍女が着替えを手伝ってくれた。
食事の席には、家族がいてくれた。
廊下を歩けば護衛がつき、政務の場には官僚が並んだ。
玉婷の周りには、いつもたくさんの人がいた。
だからこそ、寂しいと言葉にすることは贅沢に思えた。
どれだけ多くの人に支えられれば、満足するのだろう。
玉婷は何度も、莉雅の名前を呼べない夜を過ごした。
記憶の中で降り続いていた雨音が、少しずつ遠ざかる。
気づけば玉婷は、宴会場の静寂に立っていた。
「本当は、諦めかけていたの」
小さな言葉に、玉婷の胸で数年分の時が駆け巡った。
1枚の手紙を、待ち続けていた夜。
予定が合わないと知り、うまく笑えなかった日。
次こそはと書きかけた鉛筆を、止めてしまったとき。
莉雅は、俯いたままだった。
夜空は、星が煙に隠れて見えない。
燃える火山は、雨風をものともせず炎を噴いていた。
「・・・長かった、ですものね」
ようやく、それだけを口にした。
他にもたくさん、言いたいことはあったはずなのに。
莉雅から聞きたいことも、たくさんあったはずなのに。
莉雅の指先が、微かに動いた。
「はい」
短い返事だった。
玉婷は、肩から力が抜ける気がした。
すべてを聞いたわけではない。
何度手紙を書きかけ、文字を消したのかも知らない。
けれど俯いた横顔も、握りしめかけて力を抜いた手も、玉婷には見覚えがあった。
言いたいことを飲み込んでいた、自分の姿と重なった。
「叶う日のわからない希望を持ち続けることは・・・」
サフィールは一度、煙の向こうの夜空を見つめた。
先ほどまでの喧騒が消えた宴会場に、サフィールの澄んだ声は、より広く響いた。
「・・・ときに、疲れてしまいますよね」
玉婷は少し目を見開き、莉雅に向き直った。
莉雅もまた、ゆっくりと視線を上げた。
目が合った瞬間、どちらからともなく目を逸らした。
幼いころのように、すぐ笑うことはできない。
それでも、ふたりとも離れようとはしなかった。
護衛の足音が沈黙を破るまで、何も話さなかった。
けれど不思議と、心に重たいものはなかった。
火山が鎮まり、煙が晴れた深夜。
玉婷と莉雅は、幼いころのように机に向き合っていた。
玉婷は引き出しにそっと手をかけ、紙束を取り出した。
辿々しい文字と絵が、そこには残り続けていた。
「龍と城、そしてお姫様・・・」
「魔王はなんの意味も持ちませんでしたわ」
「玉婷さまが、お菓子で仲間にするからです」
ふふっ、と小さな笑いが零れた。
玉婷は、細い指先で文字をなぞる。
何を書きたかったのか、今でもわかる気がした。
「・・・過去の文字を見つめ直すと、そこに込められた想いが浮かぶかのようですわ」
立派になりたいという願いを託した、龍の絵。
かつて知らなかった街への憧れを込めた、城の絵。
そして物語の結末に残されていた、もう一度会いたいという願い。
莉雅もきっと、同じことを思ったのだろう。
「題名、まだでしたよね」
ふと、小さな声が響いた。
玉婷は1枚目の紙を、見つめた。
題名を書くために空けておいた、小さな余白。
幼いふたりが、未来に託したところ。
玉婷は静かに、鉛筆を手に取る。
莉雅はそっと、紙に手を添えた。
窓からまた、風が吹き込む。
雨のない空には、ひとつだけ星が煌めいていた。
小池に映る灯火も、揺られながら燃えている。
ふたりは、同じ場所を見つめた。
そして、空白だった場所に書き足す。
あのころのような辿々しい文字ではなく、それでも、あのころと同じ願いを込めながら。
ーー“願いの狭間”。




