幕間①「心電図みたいな在庫」【五】
翌日の午後。
大畑豆腐店の作業場には、相変わらず豆乳の甘い湯気が立ち込めていた。徹夜明けの澪は、奥の事務所の机にノートパソコンを開き、社長の大畑と、白髪の古参の工員に、画面を見せた。
「結論から言います」
澪の声は、もう迷っていなかった。
「作った豆腐が余って廃棄が出るのに、同じ日に欠品も起きる――これは、帳簿の付け間違いでも、誰かの怠けでもありません。亡くなった田所さんが、毎朝、空を見ていたからです」
大畑が、太い眉を寄せた。
「空を……?」
「ええ」澪は、画面の二本の折れ線をゆっくりなぞった。「田所さんは、毎朝外に出て、前の日からの冷え込み具合と、その日の天気を、肌で測っていた。『ゆうべより、ぐっと暑くなったな。寄せを多めにしとくか』――そうやって、寄せ豆腐の仕込みを、ほんの少しずつ加減していた。誰にも教えず、自分の頭の中だけで」
澪は、寄せ豆腐の品切れの山と、前日比で冷え込んだ日の山が重なる箇所をなぞった。
「その“さじ加減”が、ある日ぷつりと消えました。田所さんがいなくなったから。曜日どおり、帳簿どおりに仕込んでも、肝心の補正をする人がもういない。だから――前日との寒暖差が大きく振れた日にだけ、寄せ豆腐の波形が心電図みたいに乱れた。冷奴を食べたい日と、湯豆腐にしたい日。その境目を、田所さんの体が毎朝測っていたんです」
白髪の工員が、はっと息を呑んだ。
「データは、ずっと正しかった。曜日も、出荷の数字も、何ひとつ嘘をついていない。足りなかったのは――データになっていなかった、あの人の朝です。三十年と少し、一度も帳簿に書かれなかった、田所さんの勘」
澪は、画面を切り替えた。寄せ豆腐だけを切り出した、新しい予測の折れ線。
「絹も、木綿も、空の機嫌には知らん顔をしていました。煮物や鍋の豆腐は、暑い寒いに、左右されないから。空に正直だったのは、冷奴の寄せ豆腐だけ。だから、全部をまとめて読もうとすると、外れる。豆腐の種類ごとに、見るべきものが違ったんです」
「……じゃあ、田所の勘は」大畑が、かすれた声で言った。「あいつが三十年、勘でやってきたことは、もう、機械に取って代わられるって、ことか」
「いいえ」
澪は、即座に否定した。けれど、その先がうまく言葉にならない。こういう人の心の絡む言い回しが、昔から苦手だった。視線がわずかに泳ぐ。
その隙間に、御子柴が波風を立てずに割って入った。柔らかく、しかし的確に。
「社長の勘も、田所さんの勘も――僕らは、それを、ちゃんと大事にしたいんですよ」
御子柴は、まるで世間話のように続けた。
「三十年、この店を潰さずに守ってきた。それ自体が、お二人の勘が本物だった、何よりの証拠だ。うちのが組んだのは、その勘を置き換える機械じゃない。――田所さんが毎朝やっていた“空読み”を、肩代わりして思い出させる、それだけの仕組みなんです。店ごとの癖もある。その日の巡り合わせもある。何もかもを、ぴたりと言い当てられる代物じゃありません。機械が出せるのは、ほんの“目安”だけ。それを横目に、職人さんが手を動かす――その手助けができれば、いいんです」
澪は、御子柴の翻訳を受け取って、もう一度、口を開いた。今度は、まっすぐに。
「……田所さんの勘を、置き換えるためじゃありません。手助けするために、データを使います」
澪は、大畑と目を合わせた。少しだけ逸らしかけて、それでも、今度は逃げなかった。
「毎朝、前日との気温差、気温、曜日と天気といった情報を、システムが見ます。田所さんがやっていたとおりに。『今日は暑くなります。寄せを、いつもより二割ほど多めに』――それくらいの、ざっくりした目安を、画面が出す。田所さんみたいに、何丁仕込めとまでは、言いません。一丁単位まで機械に弾かせるのは、大げさだし、作り込むほど手間もかかる。出すのは、田所さんの勘と同じ“さじ加減の目安”だけ。最終的に何丁仕込むかを決めるのは、あくまで社長や従業員の手です。機械は、亡くなった人の朝を、毎日、思い出させるだけ」
白髪の工員が、目元を、節くれだった手の甲で拭った。
「……田所のやつが、毎朝やってたことが。これで、残るのか」
「残ります」澪は、短く答えた。「あの人の三十年が、消えたままにならないように」
大畑は、しばらく黙っていた。それから、ふんと鼻を鳴らして――けれど、その目は、真っ赤だった。
「……あいつの朝を、よう見つけてくれた。ありがとうな。あんたら、本物だ」
***
大畑豆腐店からは、後日、初めての受託料が振り込まれた。
創業以来、初めての売上だった。金額は決して大きくない。けれど、澪が解き、御子柴が売り、現場の声を拾った――二人の役割分担が初めて形になった証だった。
「これで、当面の家賃は払える」と御子柴は笑った。「次は、いよいよ本命だ。あの『マコト』を、本気で立ち上げるぞ」
その夜、五反田のオフィス。
澪は、机に突っ伏すような姿勢で、ぼんやり窓の外の街灯を眺めていた。徹夜と現場で、身体の芯まで消耗していた。
御子柴が、紙袋から小さな焼き菓子を取り出して、澪の手元に並べた。バターの匂いがする、こんがりした菓子がいくつか。
「ほら。ひと晩じゅう、あれにかじりついて、何も口にしてないだろう。彩が、このままじゃ澪ちゃんが餓死するって、怒ってたぞ」
澪は、のろのろと一つつまんで、口に運んだ。甘さが、空っぽの脳に、じんわりと染みていく。
「で。どうやって、そこに辿り着いたの?」御子柴は、椅子を引き寄せて、頬杖をついた。「曜日で一度外して、煮詰まってた君が。最後はどうして、空にたどり着いた」
「……あなたよ」
「僕?」
「あなたが運んできた、田所さんの言葉。『前の日と比べてた』っていう、あの一言」澪は、二つめの菓子に手を伸ばしながら言った。「当日の気温の絶対値じゃ、説明できなかった。人が冷奴を食べたくなるのは、前の日からどれだけ振れたか――寒暖差。それを、田所さんは毎朝、体で測っていた。オセロと同じよ。今の石の数じゃない。効くのは、差」
「なるほどな」御子柴は、感心したように頷いた。「で、寄せ豆腐だけが、空に正直だった、と」
「ええ。欠けていたのは、田所さんが勘で測っていた、たった一本の変数。それだけ」
御子柴が、ふっと笑った。そして――ふいに、すぐ近くに身を寄せた。
澪の処理能力では、推奨されない至近距離。
「……ようやく、第一歩だな」
漏れたのは、それだけだった。いつものクールな王子の声ではない。澪の前でだけ崩れる、素の声。その低さに滲んだものを翻訳できる装置は、この場に一つもなかった。
「……近いわ、御子柴。非効率よ」
澪は、わずかに身を引いた。御子柴が近いのは、単に演算リソースを余計に食うというだけのことで、それ以上の値を、彼女の中で持たなかった。声に滲んだ熱は、受け取られないまま、夜のオフィスに音もなく溶けていく。
「……違いない」御子柴は、素直に身を引いた。崩れかけた声を、いつものクールな王子のそれへ巻き戻すように。「ま、いい。――記念すべき、わが社の初案件だ。見事な完遂だったな」
「焼き菓子、まだある?」澪は、もう一つ菓子をつまんだ。「糖分補給にちょうどいいわ」
「……ぷっ」
給湯室の影から、押し殺した笑いが漏れた。
帰ったはずの新海彩が、こっそり戻ってきて、壁際でスマホを握りしめ、限界の表情でこちらを覗いていた。笑いの矛先は、澪ではない。何年越しの想いをようやく隣に座らせて、なお相手の検出ログに一文字も残らない、この憐れな王子のほうだった。
彩は口元を両手で押さえ、声だけは必死に殺したまま、胸の内で深々と一礼した。
――御子柴さま。記念すべき初仕事、まことにお見事な完敗でございます。受け取った側のログに残ったのは、ただ一行、「近い/非効率」。
――この最前列、わたくし、生涯辞する所存はございません。
御子柴が、影に向かって苦笑した。澪には、彩が何をそんなに喜んでいるのか、相変わらずまるでわからない。わかろうとも思わなかった。
無職になって、まだ五日。会社には初めての売上が入り、解くべき問題は、まだ山のように残っている。
悪くない、と澪は思った。――もっとも、それは初仕事をやり遂げた手応えに対してであって、隣の男に対して、ではない。
澪は三つめの焼き菓子をつまんだ。最初の皿はとうに空で、それは御子柴が、こうなることを見越して予備に買い足しておいた一箱だった。澪はそれを当然のように口へ運び、もう次の案件のことを考えはじめている。糖分が切れる前に在庫が補充されていたという事実を、補給の最適化くらいにしか思わないまま――隣の男がまだこちらをじっと見ていることにも、気づきもしないまま。
「……次の課題は、何?」
御子柴の片想いだけが、夜のオフィスに、誰にも検知されないまま、静かに灯っていた。
現場での鮮やかな答え合わせ。そして予備まで買い足された焼き菓子のご褒美を、澪は「補給の最適化」としか思わない――この温度差にやられたら、【にこにこ】か【笑える】を! 次の課題もブックマークで一緒に。




