幕間①「心電図みたいな在庫」【四】
「もう何時間、画面にかじりついてるんですか。澪ちゃん」
夜になって、新海彩が、デザインの作業の手を止めて、こちらを見ていた。男物のスウェットの袖を引っ張りながら、心配そうな顔をしている。
「触らないで。いま、考えてるから」
「その根の詰めかた、干からびますよ」彩は、額を押さえて呆れた。「社長、澪ちゃん、放っといたら倒れますよ」
御子柴は、それには答えず、缶コーヒーを二本、澪の机の端にそっと置いた。一本は、いつものブラック。もう一本は、澪が好む、砂糖の多い甘いやつ。
それから、何の気なしに、昼間の現場の話を始めた。澪の集中を切らさないように、独り言のように、軽く。
「今日、もう一度、あの古参の工員さんと話してきた。といっても――正直、たいした話は聞けなかったよ」
澪は、答えなかった。聞いているのかどうかも、わからなかった。
「田所さんの朝の癖を、もう少し詳しく、ってだけだ。なんでも、ただ空を見てたんじゃなくて、前の日と比べてたらしくてな」御子柴は、コーヒーを一口含んだ。「『今日は、ゆうべより、ぐっと冷えたな。寄せを、多めにしとくか』――そうやって、昨日との差を、肌で測ってたとさ。当日が寒いか暑いか、じゃない。前の日から、どれだけ振れたか。……まあ、今回の問題とは関係ない、ただの世間話だがな」
――その瞬間。
コーヒーへ伸びかけた澪の指が、宙で止まった。
前の日と、比べてた。御子柴の運んだその一言の、どこかが、澪の頭の奥で小さく火花を散らした。
よみがえったのは、いつかのオフィスで、自分が御子柴に語った言葉だ。オセロや囲碁の強いAIは、過去の膨大な対局の“盤面と勝敗”を学習して、いまの局面から先を読む。そこで効いているのは、盤上にある石の数ではない。数えただけでは見えない、局面の特徴と、形勢の差。
ずっと、量を見ていた。だから、滑ったのかもしれない。
確証は、まだ何もない。けれど、別々の箱にしまっていた点が、ある一語のまわりに、ひとつ、またひとつ、手探りで引き寄せられはじめる。それがどんな像を結ぶのか、まだ澪自身にも見えない。ただ、いままで掴めずにいたものの輪郭に、指の先がふっと触れた感触だけがあった。
世界の音が、すっと遠のいた。
澪の瞳から温度が引いていく。あとに残ったのは、ひどく静かで、ひどく鋭い光だけ。机も、缶コーヒーも、隣の二人の声も、もう視界に入っていない。ほかの誰にも見えない無数の点の連なりを、澪の目だけが追いはじめていた。
「……繋がったわ」
澪は、ほとんど吐息で呟いた。それから、コーヒーから手を離し、椅子をくるりと回して、ノートパソコンへ向き直った。
「澪ちゃん?」
彩が、思わず半歩、身を引いた。ついさっきまで「触らないで」と素っ気なかった同じ女が、まるで別人に見える。憑かれたような――それでいて少し怖くて、少し綺麗な横顔。たったいま何が起きたのか、彼女にはまるで掴めていなかった。
「……氷室?」
今度は御子柴が呼んだ。けれど、澪は答えない。
椅子の上で背を丸めたその指は、もうキーボードの上を高速にうちはじめていた。
御子柴も彩も、もう声をかけられなかった。傍目には、ただ一人の女が猛然とキーボードを叩いているだけ。それだけのことだ。
けれど、澪の中では違う。何年ぶんも積み上がった過去のデータ――その集積のずっと奥に、ほかの誰の目にも届かない遠くのものが、ふいに像を結ぶ。膨大な蓄積の果てから、まだ来ない明日や、ずっと隠れていた理由を、まっすぐ見通してしまう。澪には昔から、そういう瞬間があった。遠くを、広く、一息に見渡す。千里眼と呼ぶよりほかにない一瞬だ。
澪は、もうこちら側の世界にいなかった。
はるか遠くに捉えたそれを、この手で掴まえるために――とうに駆け出していた。
***
その夜、五反田のオフィスから、世界が消えた。
ばらばらだった点を、いまから一本の糸に通していく。誰に言うでもなく、口からは、言葉が断片だけ零れ落ちた。
「……これじゃ、ない。もっと、別の置き方……」
数字の並べ方を、少しずつ変えながら、当てては、確かめる。当てては、消す。
「絶対値を見てるあいだは、どうやっても滑る……効くのは、量じゃない。たぶん、もっと――」
「澪ちゃん、ほんとに何も口にしてないでしょ、それ」
いつの間にか作業の手を止めた彩が、机の向こうから声をかけた。澪は、振り向かない。聞こえているのかどうかも、わからない。
御子柴が、彩を目で制した。澪の机の端に、甘い缶コーヒーを一本だけ、音もなく置く。澪の指は止まらない。
折れ線をそのまま並べるのをやめ、ひとつ前の値との振れ幅に作り替える。画面の上で、二本の波がふいに足並みを揃えた。
「……効いてる」
けれど、澪はそこで止めなかった。組んだモデルを、別のものにも当ててみる。波形は、ぴくりとも動かない。
「……これだけが、違う。まとめて呑もうとすると、滑る。切る」
時間が溶けていった。
書いては消し、消しては書く。甘い缶コーヒーは、一度も口をつけられないまま冷めていた。
窓の外が、藍色から白っぽい灰色へ変わっていく。始発の音が、遠くで鳴った。
最後の検証項目に、緑のランプが、ひとつずつ灯っていく。
「……オールグリーンね」
澪は、椅子の背に、ぐったりと身体を預けた。徹夜で、芯まで干上がっていた。それでも、目だけは、まだ光っていた。
武器は、できた。あとは、それを現場で、ひらいてみせるだけだ。
澪は、のろのろと立ち上がり、上着を掴んだ。
「……行くわよ、御子柴」
夜通しソファで起きていた御子柴が、ふっと笑って、車のキーを取った。
徹夜の果て、何かが噛み合う。答えは伏せたまま「……行くわよ、御子柴」と現場へ発つ――この“引き”の続きが気になったら、【びっくり】を! 答え合わせはブックマークで次話。




