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第1話「酔うと素が出る、という嘘」

「記念すべき初入金だ。祝わない手はないだろう」


御子柴(みこしば)がそう言い出したのは、大畑(おおはた)豆腐店の請求書が振り込まれた、その日の夜だった。コワーキングのフロアにはまだ三人分の荷物が散らばっている。それでも、口座の残高が初めて増える側に転んだという事実は、彼には祝うに足る出来事らしかった。


「賛成。私、ずっと行きたかった店があるの」


(あや)が即座に手を挙げた。


「ちょうどいい。明日からは、しばらく落ち着いて飲めなくなる」御子柴が、どこか楽しげに付け加えた。「マコトのβ公開だ。利用者が増えれば、そのぶん、変なものも混じり込んでくる。――嵐の前の静けさ、というやつだな」


(みお)だけが、画面から顔を上げずに言った。


「祝う必然性が、見当たらないわ。マコトの利用者が増えるかどうかは、酒の有無で変わらない」


「変わらないよ。変わらないが」御子柴はノートパソコンをそっと閉じさせた。「人間は、区切りを置かないと走り続けて壊れる。これは、福利厚生の一環だ。来い」


福利厚生、と澪は内心で復唱した。それなら断る理由はない。脳の連続稼働は、確かにパフォーマンスを劣化させる。彼女はおとなしく立ち上がった。


「店、どこ?」


「五反田の、ちょっといい和食。私がずっと狙ってた店なの」彩が即答した。


「念のため言っておくが、経費では落とさない。これは僕の奢りだ」御子柴が付け足した。


「経営判断ね」


「いや、ただの奢りだ」


***


集合は、店の前。御子柴が先に着いて待っていた。


角を曲がってきた澪の姿を見つけて、御子柴は一瞬、目を疑った。


そこにいたのは、スーツの澪でも、徹夜明けのパーカーの澪でもなかった。淡い色のワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、どこにでもいそうな――けれど目を引くほど清楚な女が、暮れかけた路地をこちらへ歩いてきた。


「お待たせした?」


澪が、いつもより半音やわらかい声で言った。物腰まで、どこかおしとやかだった。


御子柴は何か言いかけて、結局、いつものクールな営業の顔に戻すまで、たっぷり二秒を要した。


「……いや。時間ぴったりだ」


澪本人にとって、これは難しいことではない。私服そのものは着心地で選んだだけだが、振る舞いのほうは計算の産物だった。最も無害に見える出力を選んでおけば、周囲は余計な詮索をしない。詮索という非効率を最小化する、最も安いコスト。清楚という擬態は、要するに省エネだった。


遅れてきた彩が、澪を見て、目を丸くした。


「えっ、澪ちゃん、そういう服も持ってたんだ!? てか何、その清楚オーラ。詐欺じゃん」


「詐欺ではないわ」澪は真顔で言った。「最適化よ」


***


座敷に通されて、御子柴が「とりあえず生三つ」と頼んだ。


澪は、注がれたビールを淀みなく半分ほど干した。顔色は、一ミリも変わらない。


「いい飲みっぷりだな」御子柴が感心した。


「アルコールの代謝は得意なの。これも一種の処理よ。肝臓の酵素活性が高いだけ」


「処理って」彩が笑った。


そこから、澪はよく飲んだ。御子柴が事業拡大の見通しを語り――「来月には百人、半年で千人。人が増えれば、金の流れも見えてくる」――彩がマコトの公開準備を話す傍らで、澪は淡々と杯を重ねた。それでいて話の精度はまるで落ちず、むしろ冴えていくようにすら見えた。「金の流れ、ね」と澪は猪口を傾けながら、誰にともなく呟いた。人が集まる盤には、必ず金の匂いを嗅ぎつける者が寄ってくる。だが、それはまだ、酔いに紛れて消える程度の小さな独り言だった。


「澪ちゃん、ビールが完全に水じゃん」彩が呆れたように言った。「これじゃ酔えないでしょ。度数上げよ、度数。日本酒いこ」


「おいおい、あんまり飲ませるなよ」御子柴が彩を止めようとしたが、彩はもう徳利を頼んでいた。


それは、ちょうど三杯目の徳利(とっくり)が空になった頃だった。


澪が、ことん、と猪口(ちょこ)を置いた。


何かの閾値(しきいち)を越えた音みたいに、空気が変わった。


「……なァ、御子柴」


御子柴が顔を上げた。澪の目つきが、さっきまでと違っていた。とろん、としているのに、妙に据わっている。清楚の擬態が、音もなく剥がれ落ちていた。


「お前なァ」


澪が、片肘をついた。声まで一段低く、伝法(でんぽう)に崩れていた。


「いいか。よく聞けよ。お前、自分のこと後回しにしすぎなんだよ」


「……氷室?」


「氷室じゃねえ。話聞けっつってんの」澪は猪口を彩のほうへ突き出し、(しゃく)を要求した。彩が、面白すぎる、という顔で注いだ。「お前さあ、初収益だなんだって人のことばっか祝ってよォ。自分が何日寝てねえか、数えたことあんのか」


御子柴が、たじろいだ。普段、人を懐柔する側の男が、明確にたじろいでいた。


「いや、僕は、別に……」


「『別に』じゃねえんだよ」澪がぴしゃりと遮った。「お前ら経営側ってのは、すーぐ気合で走らせようとするんだ。納期がやばい? 気合。人が足りねえ? 根性。──ああ、前のとこと同じだ」


来た、と彩が思った。御子柴のグラスが、止まっている。


「徹夜した奴が一番偉い。睡眠削れば生産性が下がるって論文は山ほどあんのに、誰も読まねえ」澪の口調が、酔いの底でいっそう乾いた。ふっ、と鼻で笑う。恨みではない。ただ馬鹿馬鹿しい、という顔だ。「で、その非科学を、よりにもよってお前が繰り返してどうすんだ。お前は、ああいうのが嫌で会社作ったんだろうが」


御子柴が、言葉に詰まった。社長が、酔った技術者に正論で殴られて、完全に守勢に回っている。


もっとも――と、彩は内心で付け足す。睡眠を削るなというその正論、そっくりそのまま澪ちゃんに刺さるんだけどね。ゾーンに入れば平気で朝を迎える徹夜常習犯が、誰に生産性を説いてるんだか。だが言わなかった。この最高の見世物(みせもの)を、自分から止めるほど野暮ではない。


「……君の言う通りだ」御子柴が、ようやく絞り出した。「気をつけるよ」


「『気をつける』で済ますな。具体的に言え」澪は容赦しなかった。「いいか、人間ってのはな、寝てる間に記憶を定着させてんの。それを削るってことは、その日働いた分を、自分でドブに捨ててんのと同じだ。お前は経営者だろ。リソースを溝に捨てる経営者がどこにいんだよ。バカか」


「バ……」


「バカだ」澪が言い切った。「口だけは一流のくせに、そこだけ詰めが甘い」


彩は、もう限界だった。声を殺し、心の中だけで、執事のように実況した。


――恐れながら申し上げます。御子柴さま、ただいま完全に言い負かされておられます。普段あれほど隙のないお方が、酔ったCTOに正論で押し切られ、防戦一方でございます。なんと愉快な夜でございましょう。わたくし、この光景を一生、忘れません。


口元だけが、こらえきれずに、ぷっ、と漏れた。


「彩、笑うな」御子柴が、助けを求めるように言った。


「無理。ごめん。無理」


そして御子柴は、ここで決定的な間違いを犯した。


酔った澪を、なだめようとしたのだ。


「氷室。わかった。わかったから。……ほら、水を飲んで。君も、少し休んだほうがいい。心配なんだ」


心配、という言葉に、澪の据わった目が、すっと細くなった。


「心配?」


澪は、その言葉を酩酊の底で一度だけ転がした。そして――何の感慨も、ときめきも、躊躇いもなく、ただ論点として処理した。


「いいか、御子柴。私の心配は要らねえ。それより自分の睡眠時間を心配しろ。話を逸らすな」


御子柴の、澪限定で崩れかけた何かは、宛先に届く前に説教へと弾き返された。殊勝(しゅしょう)なひと言が、論点逸らしと判定され、却下された格好だった。


「……これは」御子柴が、額を押さえて、小さく笑った。降参の笑いだった。「新しい一面だな。氷室澪という人の」


「あ?」


「いや。勉強になった、という意味だ」


澪は、ふん、と鼻を鳴らして、また猪口を干した。


***


その夜、澪の説教は閉店まで続いた。経営の話、睡眠の話、また経営の話。御子柴は最後まで主導権を取り返せず、ただ「ああ」「その通りだ」「気をつける」と相槌を打ち続けた。彩はそれを(さかな)に、人生でいちばん美味い酒を飲んだ。


潰れはしなかった。澪は最後まで伝法な口調のまま、ぴしゃりと背筋を伸ばして座敷を支配していた。運ばれる側でも運ぶ側でもなく、ただ、場の王だった。


***


翌朝。


コワーキングのフロアに、いつも通りの時刻に、いつも通りのスーツの澪が現れた。背筋はまっすぐ、声は半音低く硬く、昨夜の伝法な気配など欠片もない。


「おはよう」


御子柴が、警戒を含んだ目で彼女を見た。彩が、こらえきれずに肩を震わせた。


澪は、その二人の様子に、わずかな違和感を覚えた。観測値が、いつもの分布から外れている。


「……何かしら。二人とも、変よ」


「いや」御子柴が言った。「氷室、昨夜のこと、覚えてるか?」


澪は少し考えた。記憶の最後の地点を探る。三杯目の徳利――そこから先が、綺麗に欠落していた。


「……三杯目までは覚えてる。そのあとは、ログが残っていない」澪は眉を寄せた。「私、何かしたかしら」


御子柴と彩が、顔を見合わせた。


「別に」「何も」


声がぴたりと揃った。あまりに揃いすぎていた。


澪は、その不審な相関に小さく引っかかったが、追及する材料がない。ログのないものは検証できない。彼女は保留し、ノートパソコンを開いた。


「マコトのβ公開、今日の準備に入るわ」


「ああ」御子柴が、心底ほっとした声で言った。「そうしよう」


彩だけが、澪に見えない角度で、もう一度だけ、ぷっと噴き出した。


――恐れながら。氷室澪さま。あなたさまは、ご自分が昨夜この会社の頂点に立たれたことを、永遠にご存じないままでございます。それでこそ、わが社の氷のベイズ。本日も、ご無事を心よりお祈り申し上げます。


澪は、その視線にも気づかず、もう次の課題のことを考えはじめていた。


創業祝いの席。氷のように合理的なはずの天才が、酔うと途端に“素”がこぼれ出す――そのギャップに笑ったら、【笑える】か【にこにこ】を! この会社のゆるくて濃い空気、覗きに来た方はブックマークを。

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