幕間①「心電図みたいな在庫」【二】
「さて。本題だ」
オセロをしまうと、御子柴は薄い封筒を机に置いた。「最初の食いぶち、取ってきたよ」
封筒の中身は、相談書だった。差出人の名を見て、澪は彩のほうを見た。
「私の伝手なの」と彩が言った。さっきまでの軽さが少し引っ込んでいる。「うちの父の昔からの知り合いでね。蒲田の――『大畑豆腐店』さん。七十手前のおじいちゃんが、三十年以上、自分の手で守ってきた店。すごく頑固で、すごく良い人。それが最近、首が回らなくなってきてるんだって。藁にもすがる思いで、うちに」
御子柴が、相談書の要点を読み上げた。
「『日持ちのしない豆腐なのに、同じ日に、作りすぎて廃棄になるものと、品切れして売り逃すものが両方出る。何十年ぶんの出荷帳簿のとおりにやっているのに、どうしても合わない』――だそうだ」
澪は、相談書に添えられた出荷ログと在庫の時系列に目を落とした。
数字の羅列が、頭の中で勝手に折れ線へ組み変わっていく。仕込んだ量。売れた量。余った量。欠いた量。それらが日付の軸に沿って並び、上下する。
その波形を見た瞬間、澪の指が止まった。
作りすぎと品切れ。本来なら同じ日に両立しないはずの二つが、脈を打つように規則的に現れている。日持ちのしない豆腐だ。余ればその日に捨てるしかなく、足りなければ取り返せない。矛盾している。けれど、その矛盾には奇妙な規則性があった。心電図のように、一定のリズムで上下する波形。
「……不可解ね」
澪の声が、いつもよりわずかに低くなった。
「曜日のとおりにやって合わない。なのに、外れ方には規則がある。データが嘘をついていないなら、嘘をついているのは――別の何かだわ」
「お」御子柴が片眉を上げた。「氷室の、面白がってる顔だ」
「ところでね、社長」
彩が、声のトーンを落とした。
「ひとつ、聞いてあげてほしいの。大畑のおじいちゃん、相談に来たとき、ずっと言ってたんだって。――発注も仕込みも、ぜんぶ一手に引き受けてた右腕がいたって。田所さんっていう職人さん。それが少し前に、病気であっけなく亡くなって」
彩は、缶を握る手にわずかに力を込めた。
「『あいつが居た頃は、こんなことは一度も無かった』――って、涙ぐんでたって。その田所さんの“勘”がいなくなったとたん、店がこのありさまで」
澪は、何も言わなかった。
亡くなった人の勘。もう本人には聞けない情報。データの欠損――いや、もともとデータになっていなかったもの。
――ああ、口伝ね。
前職でも、いちばん大事なシステムほど、書いた本人の頭の中にしかなかった。『大丈夫、彼が全部わかってますから』。その彼が一人辞めるたび、会社はまるごと記憶喪失を起こす。
澪の中で、その項目だけが、ほかの数字とは違う色で点滅した。
「とにかく、明日いちど、現場を見せてもらおう」
御子柴が立ち上がった。「金のない創業四日目に、初仕事だ。氷室、頼めるか」
「断る理由がないわ。波形が、こんなに綺麗に脈打っているんだもの」
澪は、すでにノートパソコンへ相談書のログを取り込み始めていた。「規則のあるものは、必ず説明がつく。あとは、その説明を見つけるだけ」
***
翌日、蒲田。
大畑豆腐店は、商店街の裏手のこぢんまりとした豆腐屋だった。タイル張りの作業場に、寄せ桶とステンレスの型箱が並ぶ。立ち込める豆乳の甘い湯気のなか、社長の大畑が太い腕を組んで仁王立ちしていた。日に灼けた頑固そうな横顔。七十手前とは思えない、しっかりした背中だ。
「あんたらが、機械で何とかしてくれるっていう、若いのか」
大畑は、澪と御子柴を値踏みするように見た。
「言っておくが、豆腐ってのは生き物だ。その日の水加減、にがりの打ち方、ぜんぶ手が憶えてる。コンピューターに、そういうのがわかるもんかね」
「わかりません」
澪が即答すると、大畑が目を剥いた。御子柴が横で穏やかに引き取る。
「うちのが言いたいのは、こうです。社長の手が憶えていることは、機械には真似できない。でも――社長や田所さんが毎日どう判断していたか、その“あとに残った結果”からなら、機械にも読める。それを、お返ししたいんです」
大畑は、しばらく黙ってから、ふんと鼻を鳴らした。けれど追い返しはしなかった。
奥の事務所で帳簿を出してもらい、澪がログとの突き合わせを始めると、作業場の隅で豆を洗っていた古参の工員が手を止めた。白髪の、人の好さそうな老人だった。
「田所さんはなあ。あの人は、毎朝かならず外に出て、空を見上げてたんだよ。その日の天気と冷え込み具合を、こう、肌で確かめてな。それで、仕込みの量を、ほんの少しずつ、さじ加減してた。『今日は冷えるから、寄せをちょっと多めにな』とか。――誰にも教えずに、自分の頭ん中だけでやってたもんで。あの人が逝っちまったら、その加減が、まるごと消えちまった」
澪の指が、帳簿のページの上でふと止まった。
毎朝、空を見上げて。天気と冷え込みで、さじ加減を。――それは出荷ログのどこにも書かれていない。型番にも、日付にも、数量にも。ただ亡くなった一人の職人の頭の中だけにあって、いまはもうどこにも残っていない。
澪は、その一言を、ほかの数字とは違う場所にそっと格納した。
それが波形のどこに繋がるのかは、まだ見えない。けれど――何かが合いそうな気配だけが、指の先でわずかにうずいた。
亡くなった職人が「毎朝、空を見上げて、天気と冷え込みでさじ加減を」決めていた――出荷ログのどこにも残らない一言に澪の指が止まる。その“うずき”が気になったら、【びっくり】を! ブックマークで見届けてください。




