幕間①「心電図みたいな在庫」【一】
五反田のコワーキングスペースは、創業四日目の株式会社シグマにとって世界のすべてだった。
月額会員の一区画。机が三つ、観葉植物が一鉢、無料のコーヒーサーバーが一台。氷室澪の前職、国内最大のSNS「コトバ」とは面積も予算も桁が違う。それでも澪は不満を覚えない。机の上のノートパソコンさえ動けば、世界はどこにいても同じ広さで開く。
「――だから、彩。何度も言わせないでくれ」
その朝、澪が出社すると、御子柴律が見知らぬ女性を相手に、めずらしく熱を込めて何かを訴えていた。いつもは隙のない王子然とした男が、その人の前でだけ少し余裕を失っている。
女性のほうは、澪が思わず処理速度を落とすほどの美人だった。すらりと背が高く、整った顔立ち。なのに着ているのは色褪せた男物のスウェットで、片手にはエナジードリンクの缶。視覚情報のパラメータが互いに矛盾していて、澪の脳内分類器が一瞬だけ固まった。
「あれは、合理的な判断なんだ。経営上の、最適な配慮であって、それ以上の意味なんて――」
「はいはい」
女性はエナジードリンクを一口あおって、心底どうでもよさそうに、御子柴の言葉を遮った。
「出ましたね、社長の『経営判断』。便利な言葉だなぁ。それ、今週で何回目です?」
「事実を言っているだけだ」
「真面目に聞いた結果が『顔が良いだけの、骨抜きの社長』なんですよ。……で。その『経営判断』はもういいんで、次の案件の仕様、いつ固まるんですか。私、ワイヤーフレーム引きたくて手がうずいてるんですけど」
コトバで「歩く成約率」と呼ばれたエース営業が、目の前で完璧にあしらわれている。澪は、御子柴のこういう顔を初めて見た。
「あ、澪ちゃん」
女性が澪に気づいて、ぱっと顔を輝かせた。御子柴に向けていた塩対応が嘘のように、声が三度ほど甘くなる。
「はじめまして。新海彩、シグマのデザイナーやらせてもらいます。私もコトバにいたんだよ――デザインのほうで部署が遠くて、会えずじまいだったけど。『氷のベイズ』の澪ちゃんでしょ。あの会社じゃ伝説だったもんね。しかも社長ったら、ここ来てからもずーっとあなたの話ばっかりで。ようやく会えた」
ぐいと両手を握られて、澪はやや後ずさった。距離の詰め方が、想定の二倍速い。
「……氷室澪です。よろしく」
「もー、その塩対応も込みで可愛い! 私ね、澪ちゃんの書くコードを、世界一美しく画面に乗せるのが仕事だから。よろしくね」
新海彩、と澪は記憶のフォルダに新しい項目を作った。デザイナー。御子柴の知人。そして――あの隙のない男が、めずらしく余裕を失って懸命に訴え、手もなくあしらわれていた相手。
おおかた、御子柴が心を寄せているのは、この華やかな女性のほうなのだろう。「経営判断」だの「配慮」だのは、照れ隠しの類。そう見当をつけ、当たっていようが外れていようが関心の埒外だと判断した。御子柴が誰に熱を上げていようが、解くべき問題とは関係がない。澪はその項目を、あっさり閉じた。
***
「ところで氷室。少し、付き合わないか」
昼前、御子柴が机の上に平たい木箱をことりと置いた。蓋を開けると、緑のフェルトと白黒の円い駒。オセロだった。
「気分転換だ。創業手続きで、ずっと書類とにらめっこだっただろう。脳の血流がどうとか、君が前に言ってたじゃないか」
「言ったわ。事実だもの」
澪は椅子を引き、盤を挟んで御子柴と向き合った。
「ただ、これは有酸素運動じゃない。集中力の維持訓練。脳のウォーミングアップとしては、まあ、合理的ね」
勝負は、あっけなかった。
序盤、御子柴の黒は盤の真ん中で気持ちよく広がり、白はじりじり隅へ追いやられていく。御子柴が小さく笑った。
「お。これは僕が優勢だな」
「想定どおりよ」
澪は、自分の白をわざと盤の端へ逃がした。
「いま石が多い側が勝つわけじゃないの、オセロは。むしろ序盤に多すぎる側のほうが、終盤でひっくり返される」
中盤を過ぎたあたりで、潮目が変わった。
澪の白が隅の一マスを取った瞬間、対角線がごっそり裏返る。それを足がかりに、辺が、面が、雪崩を打って白へ転じていく。盤を支配していたはずの黒が、見る間に削られていった。
「……あれ。おかしいな」
「おかしくないわ。最初から、こうなる盤だった」
最後の一マスを置き終えたとき、盤はほとんど白で埋まっていた。御子柴の完敗だった。
「強いな。オセロのAIみたいだ」
「そのAIの話をすると」
澪は、裏返ったままの駒を、ひとつ指先で立てた。
「オセロや囲碁の強いAIはね、過去の膨大な対局の“盤面と、その勝敗の結果”をひたすら学習してるの。いまの局面から、『この形なら最終的にどれくらいの確率で勝てるか』を読む。見てるのは、今の石の数――絶対値じゃないのよ」
「絶対値じゃない?」
「ええ。いま黒が多くても意味がない。効くのは、“局面の特徴”と“形勢の差”。隅を取れているか、辺の形がどうか、相手の打てる場所がどれだけ狭まっているか。数えただけじゃ見えない差を学んでる。だから、石数で勝ってるあなたが、最後にひっくり返る」
御子柴は、負けたばかりだというのに嬉しそうに頬杖をついた。澪の早口を一言も聞き逃すまいという顔で。
「なるほどな。目に見えてる量より、形勢の差を読め、と」
「飲み込みが早いわね。集中力の維持訓練として、悪くない相手だわ」
「社長、また負けたんですか」
いつの間にか背後に立っていた彩が、エナジードリンク片手にニヤニヤしていた。「言っときますけど、澪ちゃんにボードゲームで勝とうなんて、太陽に素手で触るより無謀ですよ」
「わかってる」
御子柴は駒を箱に戻しながら、やけに満足げに言った。「わかってて、もう一回やりたくなるんだ」
澪には、その表情の意味がまるでわからなかった。負けて喜ぶのは、効用関数として明らかに破綻している。人間の非合理な娯楽行動の一例として、ぼんやり眺めた。
机三つ、創業四日目の株式会社シグマ。オセロで完敗して「もう一回やりたくなる」と笑う御子柴の“非合理”に澪が本気で首をかしげる――受託ミステリの幕開けにクスッときたら、【笑える】か【いいね】を! 続きはブックマークで。




