第2話「外れ値を見る」
社名は、御子柴がその場で決めた。株式会社シグマ。
「Σ――総和の記号だ」と彼は言った。「ばらばらの点を、足し合わせて、意味にする。君がやってることそのものだろう」
「シグマには、もう一つ意味があるわ」澪が初めて、自分から口を挟んだ。「標準偏差のσ。平均から、どれだけ外れているかを測る記号。……外れ値を見る、ということ。普通の中に紛れた、おかしなものを、見つける」
「いいね」御子柴は笑った。「それも、いただこう」
合意は成立した。ならばこの場の用件は終わりで、続きは後日、書類とメールで詰めればいい。そう結論づけて、澪は小脇のノートパソコンを抱え直し、帰路の駅へと歩き出そうとした。電車の時刻表が、すでに頭の中で最適化されていた。
その腕を、御子柴がふいに掴んだ。
「こっちだ」
「……?」
「タクシーを呼んである。今日はもう帰らない。これから物件を見に行く。五反田に、安いコワーキングの空きがあるんだ。創業手続きの書類も、車で説明する。だから、帰りの時刻表は計算しなくていい」
澪は、掴まれた腕を、見下ろした。
移動の最適化を、相手が肩代わりした。タクシーの手配、ルートの選定、私の思考リソースの節約。――合理的だ、と澪は結論づけた。共同経営者としての、効率的な役割分担。とても理にかなっている。
彼女は、その手のひらの温度を、移動コストの削減としか分類しなかった。
その分類が、これから先、何百回も繰り返される最初の一回だということを、まだ知らずに。
タクシーの後部座席で、御子柴はもう次の話をしていた。
「会社は今日から動く。でも、理想だけじゃ食えない。明日からは、稼がないとな」
「稼ぐ?」
「受託だよ。他社が匙を投げた、解けない課題。それを拾って、君が解いて、僕が売る。そうやって、研究室の家賃を稼ぐ」
御子柴は、窓の外を流れる街を見ながら、軽く言った。
「ちょうど、一件、心当たりがある。原因のわからない在庫で潰れかけてる豆腐屋だ。――最初の食いぶち、取ってくるよ」
澪は、窓ガラスに映る自分の顔を、ぼんやりと見ていた。
無職になってから、まだ一時間も経っていない。なのに、もう次に解くべき問題が、目の前にぶら下がっている。
肩書も資本もない。あるのは、膝の上のノートパソコンと、隣で勝手に未来の話をしている男だけだ。
なのに、不思議と、心細さはなかった。
向けられた好意を、澪が「労務管理」「血糖値」「バグ=体調不良」へ淡々と技術誤変換していく致命的な鈍さに噴き出したら、【笑える】を! この壊滅的すれ違い、追いかけたくなったらブックマークで次話へ。




