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第1話「研究室をあげる」

氷室(ひむろ)さん」


(みお)が振り返ると、男が一人、ビルから出てきたところだった。

御子柴(みこしば)(りつ)。コトバのエース営業で、社内では「歩く成約率」と呼ばれている。誰もが振り返る顔立ちと、隙のない物腰。経営学部卒の、肩書を持つ側の人間。澪とは部署も世界も違い、顔と渾名(あだな)だけは知っていたが、言葉を交わしたことは一度もない。


その御子柴が、なぜか、上着のポケットに片手を入れて、薄く笑っていた。


「コトバで営業をやっている、御子柴律です。こうして口をきくのは、初めてだね」

一拍おいて、彼は続けた。

「いい啖呵(たんか)だったよ。『その数字は、放っておけば戻るわ』。クビを言い渡された人間が、社長に向かってそれを言うのか、とね。あれ、僕は会議室の外で全部聞いてた」


「盗み聞きは、非効率な情報収集だわ」


「同感だ。でも、今日に限っては、聞いておいて正解だった」

御子柴は、澪の前まで歩いてくると、ふいに表情を変えた。怒りだった。それも、ぞっとするほど静かな種類の。


「君ほどの才能を、ああもあっさり切り捨てるとはね。……聞いているこっちが、腹が立ったよ」


「……あなたが?」


澪は、その反応を解釈しようとして、失敗した。彼が怒る理由が、確率モデルに合わない。クビになったのも、損をしたのも澪自身で、部署も違うこの男には、何の不利益もないはずだった。

御子柴は答えず、ジャケットの内ポケットから、白い封筒を一通取り出した。それを、澪ではなく、ビルの上――役員フロアのある方向へ、軽く掲げてみせる。


「退職届。さっき出してきた」

「……あなたも?」

「こんな会社、こっちから願い下げだ。泣きついてきた役員が二人いたけど、ぜんぶ冷たく断ってきたよ」


澪は、目の前の男の行動をデータとして処理しようとした。

トップ営業。会社の稼ぎ頭。失うものがいちばん多いはずの人間が、いちばん身軽に辞めた。論理が繋がらない。手元のモデルでは、この行動の確率が低すぎる。


――ただ、澪は気づいていなかった。

御子柴が、ほんの一瞬だけ、口の端を上げたことに。それは怒りの表情の裏に、まったく別の感情が滲んだ瞬間だった。〈計画が、前倒しになった〉――そういう顔だった。けれど澪からは、見えなかった。彼女に見えるのは、いつも数字とコードの側だけだ。


「氷室さん」

御子柴の声が、また柔らかいトーンに戻った。今度は、営業の声だった。極上の。

「僕と、会社を作ろう」


「……起業?」澪は眉をひそめた。「資本金の回収効率が、悪そうだわ。失敗率を考えれば、再就職のほうが期待値が高い」


「資本金は、僕が全額出す。君は一円も入れなくていい」

御子柴は、澪の期待値計算を、先回りで潰しにきた。

「その上で、株は君にも持たせる。創業メンバーとして、相応の割合をね。会社が転んだところで、君が背負う金銭リスクはゼロだ。――数字の話は、これで片がついたはずだ」


澪は、すぐには反論できなかった。たしかに、その条件なら、期待値は引っくり返る。

けれど、それでも心は動かなかった。資本金も持ち株も、要するに待遇の話だ。澪の評価関数に、その項目は無い。むしろ、ここまで口当たりよく整えて差し出されると警戒した。これだけ綺麗に整った話は、たいてい(あお)り文句と同じ構造をしている。職業上、澪は誰よりよく知っていた。


「悪くない条件ね。でも、私が会社に属する基準は、給料でも、肩書でもないの」

「知ってる」

「……知ってる?」

「君が前職を選んだ理由も、知ってるよ。国内最大のデータがあったからだ。違うか?」


澪は、わずかに、言葉に詰まった。

なぜ、この男が、それを知っている。言葉を交わしたことすら、一度もないのに。

その問いに、御子柴は答えなかった。代わりに、とどめのカードを切った。彼は最初から、これを切るために、ここに立っていた。


「うちで作るのは、自前のSNSだ」


御子柴は、まっすぐに澪を見た。


「君の好きなだけ、誰にも邪魔されずにシステムを組んでいい――そういう研究室を、あげるよ。誰のロジックも、誰の許可も要らない。生まれたばかりの生データが、毎日、無限に流れ込んでくる盤だ。君だけの」

「理不尽な仕様書も、頭を下げる金勘定も、君に群がってくる有象無象も――ぜんぶ、僕が片付ける」


御子柴は、澪の沈黙を聞いていないわけではなかった。ただ、聞いた上で、その全部を引き取るつもりだった。


「君は、コードだけを書いていればいい。ただ、問題を解いていればいい。それだけでいい」


澪の中で、何かが、音もなく着地した。

無限の盤。自前のデータ。誰にも止められない実験環境。

――さっき、一割の嘘を(あぶ)り出したエンジン。あれを、もっと先まで、好きなだけ試せる場所。


「……つまり、私はそこで、何を解いてもいいの?」


「ああ」御子柴は頷いた。「何でも。ただし、最初に解いてほしいのは、これだ」

彼は、夕方の街を見渡すように、ゆっくりと言った。

「詐欺の、ないSNSを作る。さっき君が一割落とした、あの『嘘』が、最初から一件も流れてこない場所を。――君の技術が、本当に人のために使われる場所を、僕が用意する」


「名前も、決めてある」御子柴は、暮れていく街へ目をやったまま言った。「『マコト』だ。――嘘の入り込まない場所にしたいんだ」


澪は、その夢には特に心を動かされなかった。正直、「詐欺のないSNS」という旗それ自体は、優先度の高い問題ではない。けれど、その旗を立てるために必要な「無限のデータと、誰にも邪魔されない環境」のほうは、抗いがたかった。

動機は、不純なほどに利己的だ。それでいい、と澪は思った。利己と利他がたまたま同じ方向を向いているなら、効率がいいということだ。


「……いいわ。やる」

「決まりだな」

「ただし、条件がある。データは、私の好きなように解析させて。経営判断で技術を歪めるなら、私は降りる」


御子柴は、ほんの少し、嬉しそうな顔をした。

「君がそう言うと思ってたよ、さすが、氷のベイズ」


「……その渾名、知ってるの」

「コトバじゃ、ちょっとした伝説だ。冷静で、口を開けば『事前確率』。誰も近づけない天才がいるって。僕は前から――」

御子柴は、そこで一度、言葉を切った。何か言いかけて、飲み込んだような間だった。

「……いや。とにかく、君を放っておく手はなかった、ってことさ」


澪は、その不自然な間を、特に気に留めなかった。気に留めるだけの理由が、彼女の中の確率モデルには、まだなかった。


「才能が惜しい」――ただそれだけの顔で、この男が天才を口説き落とす創業前夜。まっすぐな“才能フレーム”のくどき文句にニヤッとしたら、【にこにこ】か【いいね】を! 二人の始まりを見届けたい方はブックマークを。

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