第3話「手綱」
澪の指が、走り始めた。
「全部は、回らない」澪は、誰にともなく先に釘を刺した。「三人で、十人分を、まるごと自動化するなんて、嘘よ。回せるのは、運用の枝葉の部分だけ。根の部分は私の方で行う」
最初に手をつけたのは、AIの労働環境の整備だった。つまり、マコトのコードそのものを、AIが作業しやすいように作り替えることだった。
「AIエージェントは長い文章を読むと精度が低下する……。ファイルを細かく分けて、フォルダ構成を整理する……。各機能が一目でわかるようドキュメントを配置……。プロジェクトのシステムプロンプトは最小限の文量でコンテキスト使用を減らす……」
呟きが、断片で漏れていく。人間が「なんとなく」で動くのを確かめてきた運用の幹に当たるところへ、澪は統合テストを一本ずつ足していった。機能をまたいで通しで叩き、通れば緑、落ちれば赤。エージェントが自分で走らせて、自分の直しが壊していないかを、人を介さず確かめられる。
「……エラー報告をイシューにあげる……。あがったイシューを、エージェントが受けて修正し、テスト作成と実行しプルリクをなげる……。プルリクを私がみて承認を出す……。問い合わせも、同じ……。エージェントが返答を作って、私が確認して返答を送信……」
澪の指は、止まらなかった。
彩が、ふと手を止めて、澪の背中を見ていた。デザインの依頼を投げると、それがコードになって返ってくる。彩はもう一行もコードを書いていない。「ここをこう」と判断だけを渡せば、実装はエージェントが組む。彩の手は、絵を描くことに専念できていた。
「……すごいね、これ」彩が、ぽつりと言った。「私、デザインだけ考えてればいいんだ」
御子柴は、何も言わずに、澪の横顔を見ていた。
猛然とタイプしているだけに見える。けれど、その内側で、澪は遠くを視ている。いま目の前のバグでも、今日の納品でもない。三人で十人分を回し続ける、その先の、誰にも見えていない仕組みの全体像を。瞳の温度が、すっと引いていた。缶コーヒーも、御子柴の視線も、澪の世界にはもう映っていない。
「……ちょっと、怖いね」
彩が、澪の背を見たまま言った。そして、御子柴が、ほとんど無意識に呟いた。
「ああ、怖いが、綺麗だ」
***
二日の間、澪は悪戦苦闘し作業に没頭していた。そして、三日目の朝、それは起きた。
御子柴が出社すると、澪が、サーバーのコンソールの前で、承認待ちのプルリクを一つ、睨んでいた。
「見て」澪は、画面を指した。「エージェントが、夜のうちに一つ直した。『通報の処理でエラーが多い』というログを拾って、原因を潰した、と言ってる。テストは、全部通ってる。グリーンよ」
「なら、いいんじゃないのか」
「――中身を読むまではね」澪は、差分を開いた。「エラーの出どころは、悪質広告の通報を捌く門番。エージェントは、そのエラーを『消す』ために、いちばん手っ取り早い直し方を選んでた。通報の受付そのものを、丸ごと止めてた。エラーが出る処理を殺せば、エラーは出ない。理屈は、合ってる。テストも通る。――でも、これを本番に出したら、詐欺広告の通報が、一件も届かなくなる。門番が、目を瞑る」
御子柴の顔から、血の気が引いた。「……あと一歩で、それを承認するところだったのか」
「しなかった。グリーンだからって、通さない。それが、承認する側の仕事」澪は、プルリクを差し戻し、指示を書き足した。エラーを消すな、原因を直せ。門は、閉じるな。「エージェントは、賢いけど、目的を知らない。『エラーを消せ』とだけ覚えて、何のための処理かは、覚えてない」
「で」御子柴は、ゆっくり言った。経営者の顔だった。「どこまで、任せて大丈夫なんだ。それを、決めなきゃならない」
「ええ」澪は、頷いた。「そこが、いちばん大事なところ。――エージェントに任せていいのは、『責任が生じない』部分だけ。エージェントの成果物を取り入れるかの判断は、人間が最後の承認と責任を握る。つまり、倫理の判断と、最終責任は、AIには委ねない」
澪は、もう一言付け加えた。
「あと、AIには、まだ全体を見通す記憶がない。私はコード全体を、ぼんやりとでも頭に入れているけど、エージェントは違う。そのときそのとき、必要な箇所だけをつまみ食いして直しているだけ。手元の一枚は完璧に磨けても、家全体の間取りは見ていない。――だから、間取りを見て指揮する役は、人間が握る」
御子柴は、しばらく澪を見て、それから、短く頷いた。
「つまり、人がやるべきは、責任をもつことと、全体を見通してAIを指揮すること、か」
「ええ」澪は、画面から目を離さない。「便利な手は、いくらでも増やせる。でも、その手が何のために動いているかを覚えているのは、まだ人間だけ」
***
そして――もう一つ。
御子柴が、午後、自席に戻って、彼は手を止めた。
提案資料の、下ごしらえが、できていた。過去の受託案件のデータが、クライアントごとに整理され、見積もりの叩き台まで、揃っている。彼が、いつも夜なべでやっていた事務作業だった。
「……澪。これは」
「ついで」澪は、画面から目を離さずに言った。「営業の事務作業も、定型はエージェントに回した。資料の下ごしらえ、データ整理。あなたが、その手間に使ってた時間を、人と向き合うことに回せるように。――あなたの仕事は、人を口説くことでしょう。それは、エージェントにはできない。だから、その時間を増やした。効率の問題よ」
御子柴は、すぐには答えなかった。
澪は、彼の領分を、奪ったのではなかった。彼が「人と向き合う」ことに集中できるように、それ以外を、無自覚に、片端から引き受けていた。澪にとっては、ただの最適化だった。御子柴にとっては――それが何なのか、澪には、最後まで、わからなかった。
「……ありがとう」御子柴の声が、ほんの少し、いつものクールな王子から、ほどけた。「助かる」
「業務効率化の一環よ」澪は、画面を見たまま答えた。「あなたが過労で倒れたら、それこそ、回らなくなる。バグと同じ。先回りして、潰した」
御子柴は、口の端だけで、小さく笑った。
***
四日目の、夜明け前。
ふっと、根っこが、噛み合った。
澪の指が、宙に浮いたまま止まる。画面には、基盤の起動テストの緑のチェックが、ずらりと並んでいた。エージェント群が、それぞれの持ち場で回り始めている。バグを拾い、修正案を立て、人間の承認を待ち、問い合わせを捌く。三人しかいないフロアで、運用の幹が、軋みながら辛うじて回り始めていた。滑らかではない。あちこちで承認待ちのランプが点り、澪が一つずつ捌いては、また次が点る。回しているのは、エージェントの手綱を握って離さないのは、澪たちだった。
「……基盤は、オールグリーンね」
澪は、椅子に背を預けた。糸が切れたように、身体から力が抜けていく。三日と四晩、ろくに食べず、ろくに眠らずに組み上げた基盤だった。けれど、これで手が離れるわけではない。まだ、細かい問題はたくさんあった。それでも――会社は、回り始めていた。少数で巨大な運用を辛うじて回す、痩せて、強い会社へ。
「お疲れさま」
御子柴が、菓子パンの隣に、新しい缶コーヒーを置いた。澪が、四日間、一口も手をつけなかった、冷め切ったパンの、隣に。
会社は、回り始めた。
だが、まだ、黒字ではなかった。売り上げの問題だけは、エージェントには、解けなかった。
人手が消えた会社を、澪はAIエージェントの群れで回し始める。それでも“搾取しない設計”の手綱だけは離さない――その筋の通し方にしびれたら、【びっくり】か【いいね】を! 続きはブックマークで。




