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第2話「一か八か」

机が、空いていた。


朝、(みお)が出社すると、フロアの机が、ほとんど空になっていた。一人、二人ではない。成長期に増えたエンジニアも、カスタマーサポートも、運用の担当も、昨日まで席を埋めていた顔ぶれが、まとめて消えていた。机の上には、社員証と短い書き置きが、何枚も並んでいた。コトバが、ついに本気の引き抜きをかけたのだ。一人ずつではなく、チームごと、まとめて。


「一斉に、来たか」


御子柴(みこしば)が、書き置きの一枚を手に取って、静かに言った。声は荒れていなかった。むしろ、予測の範囲だったという顔だった。「沈む船から、いっせいに飛び降りた。タイミングを合わせたのは、向こうの作戦だ。一人ずつなら踏みとどまる者も、全員が降りるとなれば、降りる。当然だ」


「責められないわ」澪は、空いた机の列を見渡した。「期待値で動くのは、合理的よ。誰も悪人じゃない」


そう言いながら、澪の頭の片隅で、前職の景色が、ちらりと立ち上がった。


──ああ、これ。船が傾いた時の、あの速さ。


『ご栄転、おめでとうございます』。コトバで、誰かが沈みかけたプロジェクトから抜けるたび、見送りの体裁で交わされた挨拶。栄転という名の脱出。責める気はない。


「……問題は、ここからね」澪は、感傷を畳んだ。「人が、消えた」


数千人のユーザーを抱えるマコト。日々のエラー対応。問い合わせ。サーバーの保守。それを回していた手が、一晩で、ごっそり消えた。


「私は、辞めないよ」


(あや)の声が、フロアの隅から飛んできた。デザイン用の大きなモニターの前に、当たり前のように座っている。


「念のため言っとくけど。澪ちゃんのUIを作るって決めてんの、私。今さら聞くまでもないでしょ」


「聞いてないわ」澪は短く答えた。


「だよね。知ってる」彩は、ぷっと笑った。


***


御子柴が、ホワイトボードの前に立った。


「整理する」彼は、淡々と数字を書いた。「残った人手は、三人。回さなきゃならない運用は、消えた連中が十人がかりでやっていた量だ。受託の納品も、止められない。――澪。正直に聞く。この人数で、どう運営を回す」


澪は、答えなかった。


正確には、答えられなかった。澪の世界の音が、その問いと同時に、すっと遠のいていったからだ。


人手が、ゼロに近い。運用は、十人分。この制約。普通に考えれば、解けない。詰んでいる。だからこそ――面白かった。解けないはずの方程式に、もし一本だけ、解の通る道があるとしたら。


「人手で回す前提を、捨てればいい」


澪の声が、少しだけ、別人のものに変わった。


「人間が、エラーを見て、原因を切り分けて、直して、テストして、デプロイする。問い合わせを読んで、返す。コードを書く。――その工程の、ほとんどを、AIエージェントに回させる」


「話が大きすぎて、僕にはまだ絵が見えない。噛み砕いてくれ」


御子柴が、すかさず受けた。突き放さず、橋を架けるように。


「いいえ、現実の話よ。すでに私はコーディングはAIにさせているわ。これまでの私のやり方は、AIに『このコードを書いて』と頼む、までだった」


澪は、宙の一点を見たまま言った。


「今度は、その一段、上。簡単にいうと『この会社を回して』と頼む。バグが出たら自分で原因を探して、直して、テストして、本番に出す。問い合わせが来たら一次対応する。それを自律的にやり続けるエージェントを、何体も編成して、私が指揮台に立つ。――作業は、エージェント。何を作るか、どこで人間が止めるかは、私」


「……それ、できるのか」


「わからない」澪は、初めて、わずかに口の端を上げた。「やったことがない。一か八か、やってみるか」


澪は、椅子に座り直し、上着を脱いだ。袖をまくる。


そこからは、誰も、声をかけられなかった。


社員が一斉に去り、運営が崩れる。追い詰められた末の、一か八かの賭け――ハラハラして手に汗握ったら、【びっくり】を! 賭けの行方、ブックマークで次話へ。

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