第2話「言い値」
桐生颯太は、約束も取らずに、また来た。
三日後の夕方、御子柴が出張で不在の時間を、わざわざ狙ってきた。彩が「社長に連絡する」とスマホに手を伸ばすのを、澪は手で止めた。連絡したところで用件は変わらない。だったら、早く済ませたほうが効率がいい。
「二人で話したいんだ」桐生は、彩をちらと見て言った。「悪いが、外してくれるか」
彩は動かなかった。澪の隣に立ったまま、桐生を見下ろしている。澪は、それでいい、と思った。彩が何を警戒しているのかはわからなかったが、いると言うなら、いればいい。
「手短にお願いするわ」澪はソファに浅く腰掛けた。「御子柴がいないと、契約の話は進まないわよ。私には決裁権がないもの」
「契約の話じゃない」桐生は、にやりと笑った。「お前個人の話だ」
澪は、わずかに眉を寄せた。個人の話、という分類が、この男の口から出ることが、まず想定外だった。
「あの時はな、勢いでクビにした」桐生は、足を組み、上着の内ポケットから一枚の紙を抜いた。封筒に入った、何かのオファーらしき書面。「だが、考え直したんだ。お前の技術は、やっぱり、うちに必要なんだよ。マコトとかいうおもちゃのエンジン、あれを作ったのはお前なんだろう? あの腕を、コトバのいろんな商品に載せてみろ。うちのサービスの質が、丸ごと一段、化ける。客が何を欲しがってるか、データで丸裸にできる。そうなりゃ、売り方なんざ、いくらでもあるんだよ」
澪は、紙を受け取らなかった。男の言葉の、最後のところだけが、耳に引っかかった。客を、データで丸裸にする。
「うちに来い」桐生は、紙をテーブルに滑らせた。「年俸は、いくら欲しい。言い値で出す。御子柴のところで、いくらもらってる? その三倍だ。役職も付けてやる。執行役員、技術担当――高卒だろうがなんだろうが、肩書きさえ付けりゃ、外から見れば一人前だ」
「……」
「足りないか」桐生は、澪の沈黙を、値段の交渉と読んだらしい。「なら五倍だ。お前が作ったあのアルゴリズムごと、こっちが買い取る。お前は手を動かさなくていい。設計の中身だけよこせ。あとは安い外注に回す。なに、一度組み上がったものなんざ、誰がメンテしようと同じだろう」
「……」
「わからん奴だな」桐生の声が、苛立ちで低くなった。「お前みたいなのは、こういう所が向いてないんだよ。御子柴のとこで、夢だの理念だの、青臭い御託に付き合わされてるんだろう。詐欺を消す? そんなもん一円にもならん。技術ってのは、金を生んでなんぼだ。お前は、自分の値段をわかってない。俺が、正しい使い道を教えてやると言ってるんだ」
彩が、唇を引き結んだ。澪は、その腕に、横から軽く触れた。大丈夫、というほどの意味もない。ただ、桐生の話は、もう聞くべきところが尽きた、という合図だった。
澪自身は、不思議なほど、何も感じていなかった。
侮辱されている、という自覚は、論理としてはある。けれど引っかかったのは、侮辱の手触りではなく、その底にある誤りのほうだった。この男は、澪の作ったものを、一度組み上げれば誰がいじっても同じになる、固定された機械だと思っている。データが日々動き、詐欺の手口が形を変え、昨日の正解が今日の誤検知になる――その絶え間ない更新こそが中身だと、想像したこともない。設計図ごと安い外注に丸投げすれば、半年で錆びる。桐生は、自分が何を買おうとしているのかすら、わかっていなかった。
それでも、澪の中の天秤は、針一本動かなかった。桐生が並べているのは、澪が一度も欲しがったことのないものばかりだ。金。肩書き。前職の最後の会議室で澪を「高卒の小娘」と切ったときから、この男は何ひとつ、観測の精度を上げていない。
ただ一つ。たった一つだけ、澪には確かめたいことがあった。
澪は、テーブルの上の紙には目もくれず、ただ静かに、問い返した。
「……データの自由は、どうなるの?」
桐生の動きが、止まった。
「は?」
「コトバに行って、私が解析するデータ。その扱いよ」澪は、淡々と続けた。「私が見立てたものを、経営判断で歪めないと約束できるの? その一線を、あなたは守れるの?」
桐生は、ぽかんとしていた。澪の問いの意味が、本当に、一文字も理解できていない顔だった。
「……何を言ってるんだ、お前は」桐生は、苛立ったように紙を指で叩いた。「データなんて、金になるように使えばいいだろう。広告主が欲しがる客の情報を、売れるだけ売る。何が問題なんだ。データってのは、そのためにあるんだろうが」
澪の中で、何かが、静かに像を結んだ。
この男は、データを売り物としか思っていない。人を枚数で数えるのと同じように。誰が、いつ、何に弱いか――その一つひとつが、生きている人の横顔だということを、想像したこともない。桐生はいま、自分が何を考えている人間なのかを、無防備に開示してしまった。
澪は、その情報を、頭の片隅の、まだ名前のないフォルダに保管した。いつか必要になる気がした。なぜそう思ったのかは、澪自身にもわからなかった。
「答えになっていないわ」
澪は、立ち上がった。
「データの自由を保証できない場所には、いくら積まれても行かない。それが私の、たった一つの就職基準よ。金でも、肩書きでもない。最初から、答えは出ていたの」
澪は、テーブルの紙を、指先で桐生のほうへ押し戻した。
「それと。あなたが買おうとしたのは、設計図一枚じゃないわ。毎日それを更新し続ける手のほうよ。そこを取り違えた時点で、あなたは、買い物の値踏みすらできていない。――問いを、間違えたのね」
「待て、おい――!」
澪は、もう桐生を見ていなかった。ノートパソコンを小脇に抱えて、応接スペースを出た。前職の、最後の会議室を出たときと、同じ歩幅で。
澪が出ていったあと、応接スペースに残されたのは、桐生の舌打ちと、彩だけだった。
彩は、桐生には目もくれず、スマホを取り出した。宛先は御子柴。桐生が来たこと、澪を名指しで引き抜きにきたこと――それだけを手早く打ち、最後に、わざと少し困った風の一言を、尾ひれに付け足した。
澪がその場で、一秒もかけずに蹴り返したことは、書かなかった。書けば、御子柴は安心して、商談を続けるだろう。それでは、つまらない。彩は送信を確かめると、ようやく口の端を上げた。さて、どれくらいで飛んで帰ってくるかしら。
***
その日、御子柴は出張先にいた。大口の商談が、もう一押しで決まる――ちょうど、そんな佳境だった。
テーブルの下で、スマホが短く震えた。彩からだ。商談中に彩が連絡を寄越すことは、まずない。御子柴は断りを入れ、画面へ目を落とした。
> 桐生が来た。澪を、名指しで。どうしよう……
その一行で、十分だった。御子柴は、その場の商談を切り上げた。
帰りの車中、柄にもなく、運転手に「急いでくれ」と頼んだ。窓を流れる街の灯が、やけに遅い。
澪が桐生の誘いを受けるとは、論理的には思っていない。それでも、空いた自席に残された一行――「前の会社のほうが、データの条件はよかったので」という像が、頭の隅から離れなかった。ばかげている。澪は、そんな書き置きを残す女ではない。それでも、足が急いた。
オフィスのドアを開けると、澪は、いた。
自席で、いつもの姿勢で、キーボードを叩いていた。御子柴の荒い息に、顔だけを上げる。安静時心拍が乱れている。階段でも駆け上がったか、商談で何か燃えたか。どちらにせよ、上向きの数字だ。
「おかえり。早かったのね」澪は、軽く目を細めた。「ちょうどいいわ。手が空いてるの。早く、次の案件をとってきて」
御子柴は、ドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。
「……ああ」やっと、それだけ言った。「すぐ、とってくる」
「商談、ぶっちぎって飛んで帰ってきたんでしょ」彩が、奥から棒読みで言った。「すごく、心配な人材でもいたのかしら」
「リスク管理だ」御子柴は、息を整えながら言った。「人材の流出は、経営リスクだからな」
澪は、もう二人のやり取りを聞いていない。とっくに画面へ戻り、案件リストの空欄を、退屈そうに眺めている。
ふいに、御子柴の視線が、自分の手元に落ちた。空の、手だった。
「……すまない」御子柴は、めずらしく、言い淀んだ。「土産を、買い忘れた。君の、プリンを」
澪の指が、キーボードの上で止まった。出張のたび、御子柴が必ず一つ提げて帰る、駅の限定プリン。澪の脳の燃料であり、御子柴に言わせれば「資産の稼働率管理」の一環。それが、今日は、ない。
「……あなたが、あれを忘れるの」澪は、わずかに目を細めた。怒りではない。純粋な、観測上の異常だった。「めずらしいわね。何か、あったの?」
「何も」御子柴は、即答した。「次は、忘れないようにするよ」
彩が、奥で必死に笑いをこらえていた。商談をかなぐり捨てて飛んで帰り、土産のプリン一つ取りこぼした男が、「何も」と言い張っている。その手ぶらこそ、本日いちばん雄弁な報告書だ。澪は澪で、欠けた燃料のことしか、もう考えていない。
今度は澪個人を、札束の“言い値”で引き抜きにかかる。だが天才は眉ひとつ動かさず袖にする――その痛快さに頷いたら、【びっくり】を! 引き際の見物、見逃さないようブックマークを。




