第3話「抹殺宣言」
その夜、澪が帰ったあとで、彩は御子柴に、昼間の一部始終を伝えた。澪が省いて帰った部分――桐生が、どんな言葉で澪を値踏みしたのか。
御子柴は、ソファの背にもたれ、彩の話を、相槌も打たずに聞いていた。さっきの安堵は、もう、どこにもなかった。
「――で、澪ちゃんは『問いを間違えたのね』って、さっさと帰しちゃったわけ」彩は、肩をすくめた。「あいつね、澪ちゃんの作ったやつ、設計図だけ買って外注に投げりゃ同じだ、とか抜かしてさ。私も横で全部聞いてたけど、澪ちゃんが何を毎日やってるか、一ミリもわかってない。挙句、技術ってのは金を生んでなんぼだ、お前は自分の値段がわかってない、だって。――澪ちゃんに、値段の話を、ねえ」
御子柴の指が、ソファの肘掛けを、一度だけ、ゆっくりと撫でた。
彼の顔から、表情が、完全に抜け落ちていた。
営業の現場で何百回と人を惹きつけてきた、あの隙のない微笑が、いまは影も形もない。代わりにそこにあったのは、ぞっとするほど静かな、無だった。怒鳴る男のほうが、まだ御しやすい。御子柴の怒りは、温度を持たない種類のものだった。
桐生は、勘違いをしている。澪を金で買えると思い、粗いと斬られて肩書きで釣ろうとし、それも通らず、最後には澪の作ったものを「設計図一枚」と値踏みした。あの男は、自分の物差しで測れないものを、片端から値段に換算する。換算できないものを、無価値だと思い込む。
御子柴が許せないのは、桐生が澪を欲しがったことではない。澪が、たった一つだけ誰にも譲らずに守っているもの――データの自由、技術を歪めないという一線。澪がその一点だけで世界と渡り合っていることを、御子柴は誰より知っている。桐生は、よりにもよって、その一線をピンポイントで踏み抜いた。「データなんざ金になるように使えばいい」と。
澪は、それを「問いを間違えたのね」とただ一言で斬って帰ったらしい。彩の口から伝え聞いただけで、御子柴には、その時の澪の歩幅まで見えるようだった。傷ついてなどいない。澪は、桐生の土俵に最初から立っていない。だが、澪が傷つかなかったことと、御子柴が許すかどうかは、別の問題だった。
桐生が直に顔を出したのは、この間が初めてだった。だが、コトバの影そのものは、もっと前から差していた。仲介を通した世間話の体で、「シグマに関心を持っている筋がある」という打診は、これまでにも何度か御子柴のもとへ届いていた。会社も、澪も、売り物ではない。そのたびに御子柴は、笑顔で、しかし一片の余地も残さず潰してきた。売る気など、一度として持ったことはない。澪にも、彩にも、言わなかった。あんな雑音で、澪の手を止めさせたくなかった。
――いつだったか、彩が「コトバが嗅ぎ回っている」と口にした朝。御子柴は、それを完璧な営業の笑みで受け流した。あのとき澪が、その笑みを妙な目で見ていたことには、気づいていた。ごまかしきれていなかったのかもしれない。あの女は、肝心なときにかぎって、見えなくていいものまで見てしまう。
「彩」
御子柴が、低く言った。声は、静かだった。だからこそ、彩は、背筋がうすら寒くなった。
「マコトの資金繰り、来期の与信、過去のクライアントの連絡先。ぜんぶ、明日までにまとめてくれ。それと――コトバの最近の動きを、知り合いの記者から拾える分だけ拾う」
「……社長」
「あの男は」御子柴は、窓の外の、暮れたばかりの街の灯を見ていた。「会社を欲しがり、断られた。澪を欲しがり、袖にされた。あの種類の人間は、手に入らないものを、次は壊しにかかる。間違いなく、報復してくる」
「だから、先に潰すって?」
「ビジネスで、抹殺する」
御子柴は、ごく静かに、そう言った。怒鳴りもせず、力みもせず、ただ事実を一つ確定させるように。
「あいつが、自分の会社のものだと信じている数字。父親から相続したと思い込んでいる、あの帝国。それを、正面から、ビジネスの土俵で打ち砕く。彼が誰よりプライドにしているものを、彼自身のやり方で、根こそぎ奪う。――この男は、必ず、そうする」
彩は、何も言えなかった。
彩は、この社長が澪に向ける、行き場のない溺愛を、ずっと最前列で見てきた。だから本当なら、ここでも心の中で執事口調の実況を始めるところだ。けれど、今夜ばかりは、その茶々を入れる気が、まるで起きなかった。
御子柴律という男が、これほど静かに、これほど深く、誰かのために怒るのを、彩は初めて見た。それは、もう溺愛とか嫉妬とか、そういう可愛げのある言葉では呼べない、もっと冷たくて、もっと本気の、何かだった。
***
一方、桐生颯太は、コトバ本社の社長室で、澪が置いていったオファー書面を、ぐしゃりと握り潰していた。
「……何が、データの自由だ」
桐生には、最後まで、澪の言葉の意味がわからなかった。わからないものを、桐生はいつも、相手の側の欠陥として処理する。あの女は、頭がおかしい。三倍だ五倍だと積んでやったのに、わけのわからない理屈を並べて、この俺を袖にした。高卒の小娘の分際で。
俺を、見下した。
そのことだけが、桐生の中で毒のように回っていた。理解できないものへの恐れが、いつものように怒りに化けていく。
「……いいだろう」
桐生は、握り潰した紙を、ゴミ箱へ投げ捨てた。
「買えないなら、要らん。要らんものが、目障りに伸びていくのは、許さん。あの『マコト』とかいうおもちゃ――客を惹きつけてる安心とやらを、丸ごと、俺が上から奪ってやる。うちには、国内最大級のコトバがある。あの広場に同じ看板を掲げて、金に物を言わせて塗り潰せばいい。あんな零細企業、半年で干上がらせてやる」
社長室の窓に映る自分の顔に、桐生は勝者の顔を見た。潰したオファーのことなど、もう忘れて、上機嫌に呟く。
「『詐欺広告ゼロ』――それを、コトバの旗にする。金は、いくらでも積んでやる」
それが、後にシグマを最大の危機に追い込むことになる影の、最初の一筆だった。だが、この夜の桐生は、自分が掲げた旗が何を意味するのか、まるでわかっていなかった。父が遺した会社を食い潰していることにも、気づかぬまま。
***
数日後の、五反田のオフィス。
御子柴が、やけに張り切っていた。
過去の受託先への近況伺い。来期の資金計画。取引先の与信確認。守りの手を、一度に何枚も、次から次へと打っている。ふだんのこの男は、必要な一手だけを静かに置くタイプだった。それがいまは、盤の端から端まで、自分の駒で埋めにかかっているように見える。朝に挽くコーヒーの香りだけがいつもどおりなのが、かえってちぐはぐだった。
澪は、その動きを、しばらく横目で眺めていた。感情の起伏には、相変わらず気づかない。ただ、行動のパターンが平時からずれていることは、データとして拾える。
昼、給湯室で彩と二人になったとき、澪は淡々と切り出した。
「御子柴、最近やけに動きが多いわね。何か、あったの?」
彩の手が、コーヒーサーバーの前で、一瞬だけ止まった。
彩は、知っている。あの夜、この会社の社長が、たった一人のために、一つの会社を静かに潰すと決めたこと。その横顔が、もう溺愛とか嫉妬とかいう可愛げのある言葉では呼べない、もっと冷たい何かだったこと。そして──その引き金を引いたのが、いま目の前で不思議そうに小首をかしげている、この鈍感な天才自身だということ。
どれも、彩の口からは言えない。言ったところで、たぶん一文字も、正しくは伝わらない。
「……さあ? 社長のやることだもの。経営判断なんじゃない」彩は、湯気の向こうで、いつもの棒読みに逃げた。「事業が伸びれば、守りも増える。それだけよ」
「そう」澪は、それ以上は追わなかった。効率の悪い問いだと判断したらしく、カップを持って、あっさり自席へ戻っていく。
その背中を見送って、彩は、小さく息を吐いた。
もー、澪ちゃんは、と彩は内心でそっとぼやいた。
案件の裏側なら地の底まで見通して、どんなに巧く隠された綻びだって、結局は残らず掘り当てちゃう人なのに。自分のために、あの澄ました社長が静かに戦争を始めたこと――そこだけは、たぶん一生、見えないんだから。
彩は、ぬるくなりかけたコーヒーを、ひとくち含んだ。
まったく。うちの氷のベイズは、一向に変わりそうにない。
穏やかなクール王子の奥で、御子柴が静かに「抹殺」を決める――声を荒げない宣戦布告のひやりとした温度にゾクッときたら、【びっくり】か【いいね】を! ここからの反撃、ブックマークで一緒に。




