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第1話「売り物じゃない」

その男が五反田のオフィスに現れたとき、(みお)はちょうど、(あや)とオセロをやっていた。


昼休みの暇つぶしだ。彩が「澪ちゃん、たまには休憩しなよ」と盤を引っ張り出してきて、十五分で三連敗した。盤面は、いまや黒一色に塗り潰されつつある。


「だから、序盤で角の周りを欲張っちゃ駄目なの」澪は、白石を一枚、静かに置いた。「いまの石の数は、見なくていい。途中で何枚取ってるかは、勝敗とほとんど関係がないの」


「うわ、また減った」彩が頭を抱える。「なんでこっちが多いのに負けるの……」


「多いほうが、たいてい負けるのよ。序盤で取りすぎた石は、相手にひっくり返す足場をくれるだけ。大事なのは、いまの絶対値じゃない。終盤にどっちへ転ぶか――差の、行き先のほう」


そこへ、来客を告げる御子柴(みこしば)の声がした。いつもより、半音だけ低い。


「澪。手を止めてくれ。お客様だ」


御子柴が、低い声で来客を「お客様」と呼ぶときは、たいてい、客ではない。澪はその経験則を、すでに持っていた。


***


応接スペースのソファに、男がふんぞり返っていた。仕立てのいいスーツ。磨いた靴。手首で光る時計。その顔が、前職の最後の会議室、長机の上座から落ちてきた声と像を結んだ。


桐生(きりゅう)颯太(そうた)だった。


「久しぶりだなあ、氷室(ひむろ)くん」桐生は、足を組み替えて笑った。「いやあ、見違えたよ。こんな小さな会社で、よくやってるじゃないか」


澪は何も言わなかった。再会に、特に感慨はない。雑音のフォルダに入れた相手が、フォルダから出てきただけのことだ。


彩が、澪の隣にすっと立った。サバサバした彼女が、めずらしく口を引き結んでいる。


「で」御子柴が、桐生の向かいに腰を下ろした。声は柔らかい。「本日は、どのようなご用件で」


「単刀直入に言おう」桐生は、組んだ膝に肘を乗せ、身を乗り出した。「シグマを、うちが買う。会社ごとな」


御子柴の表情は、変わらなかった。澪も、特に動かなかった。ただ彩だけが、ほんの一瞬、息を呑んだのが、横で気配でわかった。


「ありがたいお話ですが」御子柴が言いかけるのを、桐生が手で遮った。


「最後まで聞け。悪い話じゃない。お前らのこの、なんだ、マコト? とかいうSNS。数字は見たぞ。ユーザーが数百人。笑っちゃうような規模だが、伸び率だけは悪くない。コトバの資本でブーストしてやれば、化ける可能性はある。だから――買ってやる、と言ってるんだ」


数字は見た、と桐生は言った。澪は訂正する気もなく、ただ観察していた。この男が見ているものは、終始ひとつだ。ユーザー数。伸び率。要するに、収益。


マコトが、なぜ詐欺をここまで抑え込めているのか。その壁がどういう仕組みで立ち、澪の検出エンジンが何を学び、それでも何を取りこぼし、どこに人手を残しているのか――そういうものは、一行も、この男の視界に入っていない。


「条件は、好きに言え」桐生は、鷹揚(おうよう)に手を広げた。「お前らごときが一から育てるより、うちに乗ったほうが早いだろう。御子柴、お前も元はうちの営業だ。出戻りってことにしてやってもいい。悪い話か?」


御子柴は、しばらく黙っていた。それから、コーヒーカップに口をつけ、静かにソーサーへ戻した。陶器が触れ合う、小さな音。


「お断りします」


短かった。営業の声ではなかった。


「会社も――」御子柴は、まっすぐ桐生を見た。「澪も、売り物じゃない」


澪は、その言葉の前半は理解した。シグマは売らない。御子柴が、詐欺のないSNSという旗を、コトバの資本に飲ませる気がないことは、論理的に整合している。彼の夢の優先度は、澪の知る限り、最上位だ。


後半は、よくわからなかった。澪を売り物じゃない、というのは、文の構造として不自然だ。澪は会社の資産項目ではない。なぜ売却対象に含まれているのか。たぶん、修辞か何かだろう、と澪は処理した。御子柴の言い回しには、ときどき、データに変換しきれない余りが出る。


「ほう」桐生の頬が、わずかに引きつった。「ずいぶん、強気だな」


「強気ではありません。前提が違うだけです」御子柴の声は、氷のように丁寧だった。「うちは、収益を最大化するために会社をやっているわけじゃない。だから、御社の資本でブーストする、という発想そのものが、うちには要らないんですよ」


「……綺麗事だな」桐生は鼻で笑った。「会社は金を稼ぐためにあるんだ。そんなことも分からんのか」


澪は、ここで初めて口を開いた。御子柴の理念に加勢したわけではない。ただ、一点だけ、技術者として捨て置けない誤りがあった。


「買えると思っているなら、それは見立てが粗いわ」


桐生が、ぎろりと澪を見た。澪は、構わず続けた。淡々と。


「マコトの価値は、ユーザー数や伝票には乗らないの。そこに乗っているのは結果で、価値そのものじゃない。価値があるのは、どういう設計で、どんなデータが流れ込んで、どこで嘘を落としているか――仕組みのほう。さっきのオセロと同じよ。石が多いほうが勝つわけじゃない。効いているのは盤面の構造で、それを握っているのはこっち。あなたが数えているのは、いまの石の枚数だけ。それが終盤、まるごとひっくり返るの」


会議室が、しんとした。桐生の表情に動いたのは、理解ではなく、面子だった。


「相変わらず、口だけは達者だな、高卒の小娘が」


学歴。澪は、その単語を、また雑音のフォルダに戻した。前と同じ場所だ。証拠ではないものは、何度聞いても証拠にならない。


そして、ふと――乾いた既視感が、背筋を一筋なぞった。


『会社は金を稼ぐためにある。そんなことも分からんのか』


――ああ、これは聞いたことがある。前職で、収益の一割が嘘でできていると分かった、あの会議室。『動いて金になってるなら、触るな』。中身が何でできていようと、稼いでいれば正義。人を、伝票の一行としか数えない流儀。


桐生は、何ひとつ変わっていない。父の椅子に座り、父の数字を自分の手柄と信じて、人を枚数で数える。事前確率どおり。


「想定内ね」澪は、小さく息を吐いた。「つまらないわ」


「なんだとっ?」


桐生が気色ばんだが、澪はもう、彼を見ていなかった。視線は、彩が放り出していったオセロの盤へ落ちていた。白石が、終盤の隅で、静かに足場を待っている。


御子柴が、立ち上がった。


「お引き取りください、桐生社長」御子柴の笑顔は、もう完全に営業のものだった。隙がなく、温度がない。「会社は、売りません。何度いらしても、答えは同じです」


桐生は、舌打ちひとつして、ソファから腰を上げた。ドアの前で、一度だけ振り返る。その目が、御子柴を通り越して、まっすぐ澪に据えられた。


澪には、その視線の意味が、まだ読めなかった。


「なら、会社ごとは、いらん」桐生は、唇の端を吊り上げた。「――氷室。お前一人を、もらうとするかな」


ドアが閉まる。


応接スペースに、彩が長い息を吐いて、ソファに沈み込んだ。


「……なに、あれ。初めて会ったけど、社長って、あんな感じだったの? 顔から声から、全部むかつくんだけど」


「事前確率どおりよ」澪は、盤に手を伸ばし、終盤の白石を一枚、ぱちりと置いた。隅が、するすると返っていく。「あの人は、盤面を読まない。だから、いつも石の数で勝った気になって、終盤でひっくり返される。前のときと、同じ」


御子柴は、何も言わなかった。閉まったドアを、しばらく見つめていた。


澪は、その横顔に、いつもの余裕がないことに、気づかなかった。


大手コトバの二代目社長・桐生颯太が再登場。ぶら下げられた買収話を、御子柴が顔色ひとつ変えず一蹴する――「うちの技術は売り物じゃない」の一言にスカッとしたら、【びっくり】か【いいね】を! ブックマークで続きへ。

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