第3話「清楚という名のアルゴリズム」
その店を選んだのは、彩だった。
恵比寿の、間接照明がやたらと多い個室の店。取り分け用の小皿が無意味に光っていて、澪はそれを「照度が高すぎる。料理の色温度を演出するための過剰な投資ね」と評した。
「合コンでそういう感想を述べるの、澪ちゃんくらいだよ」
彩が肩をすくめた。「いい? 今日は人脈作り。これも立派な仕事。マコトを数百から数千にするには、外の人間と繋がる場数がいるの。デザイナーとして断言する」
「私は、外の人間に興味がないわ」
「知ってる。でもデータは欲しいでしょ。人間が酒を飲んで気が緩んだときに何を喋るか、っていうのも一種の生ログだよ」
澪の手が、グラスの手前で止まった。
「……それは、確かに観測価値がある」
「ちょろい」と彩は小声で言った。
御子柴は、入口に近い壁際の椅子にすでに座っていた。気が進まないという顔を、本人は完璧に隠しているつもりらしかった。澪の事前確率では、御子柴は人脈作りの場をむしろ得意とするはずの男だ。トップ営業だったのだから。なのに今夜は、来る道すがらからずっと不機嫌の手前にいた。
「なぜ御子柴が来るの」と澪は道で訊いた。
「CTOの社外露出は、ブランディングの一環だ」御子柴は答えた。「会社の技術の顔を、僕が同席せずに外へ出すわけにはいかない。それだけのことだ」
澪は「合理的ね」と頷いた。御子柴の同行には、いつも妥当な業務上の理由がついていた。
***
問題は、また、澪の私服だった。
スーツでも、徹夜明けのパーカーでもない。淡い色のワンピースに、ほどいた髪。背筋を伸ばし、視線をやわらかく下げ、相手が話せば小首をかしげて聞く。澪の「清楚な物腰」が、今夜も起動していた。誰にも興味がないからこそ、無害な外見で詮索をやり過ごす――澪には、いつもの省エネ設定にすぎない。
ところが、その省エネ設定は、向かいの男たちには逆に作用した。
「氷室さんって、エンジニアなんですよね? 全然そう見えない」
「すごいな、その若さでCTO」
「お酒、強いんですか? 弱そう」
弱そう、という推定は致命的に外れていた。が、澪はそれを訂正しなかった。訂正は工数だ。澪はただ、無害な微笑のままグラスを傾けた。男たちが、彼女の周りに自然と寄っていく。
その様子を、御子柴が壁際から見ていた。タブレットも持たず、ただ見ていた。澪の隣に座った男がグラスを差し出した瞬間、御子柴がすっと立ち上がった。
「澪。そっちは冷える。こっちの席のほうが、空調の循環がいい」
彼は、澪と男のあいだに、自分の椅子を移した。ごく自然な所作だった。いつかのオフィスで、彩と澪のあいだに椅子を一脚差し込んだときと、寸分違わぬ動線で。
「動線の最適化だ」と彼は誰にともなく言った。
「あ、はい」と男が、わけもわからず席を譲った。
御子柴が彼女を「澪」と呼ぶ一方で、向かいの男たちは「氷室さん」と呼ぶ。その距離の差に気づいたのは、テーブルでただ一人、彩だけだった。
***
彩は、自分のグラスの向こうから一部始終を眺めていた。
澪の右隣に陣取った男が、メニューを取って「次、何飲みます?」と訊いた。御子柴の手が、メニューより一瞬早く伸びた。
「澪はウーロンハイだ。度数の低いものから入れたほうがいい。CTOを酔わせて明日の業務に支障が出たら、僕の管理責任になる」
「社長さん、面倒見いいですね」と誰かが言った。
「リスク管理だ」と御子柴は答えた。
彩が、グラスを口に運ぶふりをして、口元を隠した。声は立てなかった。漏れたのは、ぷっ、という息が一つ。残りは、全部、胸の内側で処理した。
――御子柴さま。本日もリスク管理の名のもと、見事な迎撃でございます。CTO殿のグラスに伸びる手という手を、ことごとく動線の最適化で薙ぎ払っておられます。
――しかしながら、肝心のCTO殿は、ご自身が四方から狙われていることにも、それを社長が一手ずつ潰しておられることにも、毛ほどもお気づきになりません。
――恐れながら、この合コン、勝者なき防衛戦の様相を呈してまいりました。最前列、引き続き拝見いたします。
澪は、彩がなぜ笑っているのか把握していなかった。御子柴が席を移したのは空調の都合だろうし、ウーロンハイを頼んだのは度数の管理だろう。どちらも記述として妥当だった。澪は、自分に向けられた視線の量を「平均よりやや多い注目。私服の無害化が過剰に効いている。次回は補正が要る」と分析し、それ以上の意味を読まなかった。
すべての変数が、正しく分類されていた。ただ一つを除いて。
***
転調は、いつものように、前触れなく来た。
涼しい横顔のまま五杯目に手を伸ばし、そして、ある一線を越えた。スイッチが、入った。
「あのなァ」
澪が、グラスをテーブルに置いた。音が、やや大きかった。
「お前ら、さっきから聞いてりゃ、起業がどうの、年収がどうの、肩書がどうのって……いいか、よく聞けよ」
清楚な物腰が、剥がれ落ちた。伝法な、低い声。隣の男が、ぎょっとして身を引いた。
「肩書なんざ、データに貼った付箋と一緒よ。中身が空っぽの付箋を何枚集めても、モデルは一ミリも賢くならねえ」
――ああ、肩書で人を値踏みする手合い、と澪は乾いた。前職にもいくらでもいた。『高卒の小娘が、なぜ本番権限を』。出した一割の解を見もせず、付箋の有無だけで切り捨てた顔。
馬鹿馬鹿しい、という感想を酔いの底で一度きり転がして、捨てた。
合コンの空気が、急速に冷えていった。
「御子柴」澪の矛先が、ぐるりと回った。「お前もだ。さっきから人のグラスばっか気にしやがって。お前なァ、もっと自分の心配しろっつってんだよ。一人で全部背負う顔しやがって。会社ってのはな……」
「わかった、わかったから」
御子柴が、苦笑した。けれど、その苦笑には、どこか安堵が混じっていた。これが始まれば、もう誰も澪に近づけない。場は壊れるが、防衛は完成する。
「すみません、うちのCTO、酒癖が」と御子柴が向かいへ頭を下げた。男たちは、すでに帰りの算段を始めていた。
合コンは、見事に散会した。澪の説教がテーブルを一枚残らず薙ぎ払った末の、完全な制圧だった。誰も、勝たなかった。
***
その王が、糸を切らしたのは、店を出た直後だった。
最後の一人が帰り、薙ぎ払うべき相手がいなくなった瞬間、燃料が尽きた。立っているのも、もう工数だった。彩が「ほら言わんこっちゃない」と肩を貸そうとした、その手より先に。
御子柴が、ごく自然に澪を抱え上げた。
片腕で背を、片腕で膝裏を。お姫様抱っこ、というにはあまりに事務的な手つきだった。澪の体が、夜の街の上にふわりと浮いた。
「……御子柴」澪が、朦朧と呟いた。「これは、移動効率が、悪いわ。自分で歩いたほうが、消費カロリーが……」
「歩けないだろう、君は」御子柴は前を向いたまま言った。「酔わせた責任だ。管理責任の範囲だろう」
「管理責任……」澪は、その語を、正しい引き出しにしまった。そして、酔いで鈍った頭で、選択肢を二つ並べた。自力で歩く――消費カロリー過大、転倒リスク高。運ばれる――コスト最小。「なら、運ばせるわ。そっちのほうが、効率がいい」
許可を出したのは、澪だった。恋心も、ときめきも、動悸も、そこには一つもない。ただ最も安いルートを選び、御子柴を移動手段として採用した。それだけだった。澪は完全に無関心なまま、目を閉じた。
彩が少し後ろを歩きながら、スマホを構えるふりをして口元を押さえた。
――御子柴さま。本日の独占欲、まさかのお姫様抱っこにて完勝でございます。寄ってきた有象無象を一手ずつ薙ぎ払い、最後はご自身の腕の中へ。お見事、の一語に尽きます。
――しかしながら。あれだけの熱量を腕いっぱいに抱えても、お返事は「移動効率が悪い」のひと言。恐れながら、本日も完璧な空振りにございます。
――この片想い、見立てではやはり一生もの。どうぞご安心を。わたくし、この特等席だけは手放しません。
声は、立てなかった。
***
御子柴の腕の中で、澪が、ふと、何かを呟いた。
ほとんど寝言だった。言葉になりかけて、なりきらない、思考の残響。
「……あの、金の匂い……やっぱり、繋がらないのよ……」
「金?」御子柴が、聞き返した。
「……でも、一つだけ……時間が、揃ってる……あいつら、同じ時計で動いてる……規則的なのに……どうしても、最後の一本が、足りない……証拠が……」
御子柴は、それを酔い言だと思った。五杯飲んで、説教を炸裂させて、抱えられて寝言を言う女の口から出た断片に、誰が意味を探すだろう。
「はいはい」彼は前を向いたまま、歩調を緩めなかった。「明日になったら全部忘れてるよ、君は」
それは、半分だけ正しかった。
翌朝、澪は前夜の説教も、抱えられたことも、寝言も、何一つ覚えていないだろう。記憶は、いつものように消える。
けれど、消えないものが、一つだけあった。
澪の脳のいちばん下――解くべき問題のリストの末尾に、彼女自身が書き加えた、あの一行。説明のつかない、薄く均等に撒かれた金の動き。けれど今夜、酔いの底で、澪は確かに一つだけ手をかけていた。出稿の時刻が、揃いすぎている。バラバラを装った群れが、同じ拍で呼吸している。まだ全体は繋がらない。だが、最初の一本の糸口は、もう指に触れていた。意識が酔いで溶けても、その手応えだけはノートの底に座り続けていた。
夜の街を、御子柴が歩いていく。腕の中の澪は、もう完全に眠っていた。
笑いの余韻の、ずっと底のほうで――まだ誰も名づけていない足音が、一つ、確かに鳴っていた。
合コンの席で、御子柴の独占欲が静かに大爆発。なのに澪は最後まで気づかない――この一方通行の空回りにニヤけたら、【笑える】か【にこにこ】を! 緊迫の前の最後の癒やし、ブックマークで見届けて。




