第2話「説明のつかない残差」
マコトのユーザーは二百人を超え、運用の山も高くなった。出稿前のスクリーニング、通報の処理、閾値の調整。九割は機械が捌くが、判断のいる残りの一割は、いつも最後に澪の机へ落ちてきた。
その澪が、前の夜からコワーキングを出ていなかった。昨日の二十数件が頭を離れなかったからだ。一件ずつは無害なのに、群れになると規則が立ち上がる、あの一群。気づけば窓の外が白んでいた。睡眠も糖分も、彼女には同じ系列の変数で、燃料は閾値の下、と頭の半分が勘定しただけ。足りてくれば補充する。それだけのこと。
部屋の隅では、早出の彩が大ぶりのヘッドホンでモックに沈んでいる。澪の泊まり込みにも、御子柴の出社にも顔を上げない。気配を消すのが、彼女の朝の流儀だった。
御子柴が出社して、コーヒーを挽く手が止まった。机に並ぶ昨夜のままの空き缶、煌々と点いたままの画面。キーボードに向かう横顔には、いつものキレと裏腹に、影のような疲労が刷り込まれていた。歩み寄る御子柴の足取りに、営業の余裕はなかった。
「氷室。──昨日から、帰っていないな」
「進捗があったわ」澪は画面を見たまま、報告のつもりで答えた。ノートパソコンを御子柴の机に置き、昨日の二十数件を塗り分けた表を開く。前置きも、許可を求める語形もない。
「あの違和感は、私が追うわ。点を集めて、つなぎ方を見る。マコトのログで足りなければ、出稿の決済データも掘る」
御子柴は、ペンを置いた。
「氷室。落ち着いて聞いてくれ」
「落ち着いているわ。心拍は安定している」
「君は、ゆうべ一睡もしていない」
澪は、口をつぐんだ。心拍は、その反論にならなかった。
御子柴は、束ねた書類の角を机の上で軽く揃えた。間を作る仕草だった。
「調査は、いったん切り上げにしよう」
「なぜ」
「理由は二つある。一つ。君が昨日、自分で言ったことだ。二百人のSNSじゃ点が足りなくて繋がらない、と。いま決済データを掘っても、誤検知を量産するだけだ。マコトが育てば、向こうの『規則』は勝手に濃くなる。──薄いデータで、いま走るのは、分が悪い」
御子柴は、そこで一度言葉を切った。
「二つ目は──」
いつもなら淀みなく続く口が、その先で半拍つかえた。
「……君が目の前で潰れていくのを、黙って見ているのは好かない。効率でも、データでもない。──ただ、それが、嫌なんだ」
言ってから、彼は自分の逸脱に気づいたらしい。いつもなら経営の枠へ畳み直す言葉が、続かない。口を開きかけて、やめる。その先の理屈を、今日に限って、彼は組み立てられないようだった。
「……二つ目は、聞かなかったことにしてくれ」
澪は、二つ目には応えなかった。応えるための数値が、手元になかった。
「一つ目は認める」澪は即答した。御子柴が、わずかに目を見開く。あっさり半分譲ったことに、だ。「決済データの全掘りは、いまは無駄撃ち。だから、しない。マコトのログの内側だけで、この一群の『つながり方』を測る。誤検知は出ない。コストはほぼゼロ」
「氷室」
「あなたが守りたいのは誤検知の増加でしょう。なら、調査するだけで、手を加えない。──これは交渉よ」
御子柴の表情が、ほんの一瞬、揺れた。営業の笑みでも、CEOの冷静でもない、別の何か。だが澪には、それを読むモデルがなかった。
「……君は、禁じたところで、隠れてやるな」
「やるわ。データの自由は、誰かに配られて、取り上げられる類のものじゃない。あなたが研究室をくれたんじゃない。私が持ち込んだの。盤は、最初から私のものよ」
御子柴は、何も言わなかった。澪は自分の島へ戻った。背中で彼の視線を感じたが、振り返らなかった。
***
夜。コワーキングはほとんど人が引け、隅の彩の島だけ、まだモニターの光が点いていた。締め切り前のデザイナーの居残りは、誰も気に留めない景色だ。彩はもう手を止めていたが、それを誰にも言わなかった。
澪がまだ画面に向かっていると、御子柴がコンビニの袋を提げて戻ってきた。澪のほうしか、見ていない。
「まだいたのか」
「あなたも」
「忘れ物だ」御子柴は自分の机へは行かず、澪の隣の椅子に腰を下ろした。袋からプリンを取り出し、手元に置く。「君の脳は、糖がないと動きが悪い。──今朝の件だが、君のやり方は止めない」
澪は顔を上げた。昼のうちに、ログの内側で点を結び始めている。御子柴が止めようと止めまいと、追うことは決めてあった。プリンは、その燃料として受け取る価値があった。
「ただし、こっちにも条件を出させてもらう」御子柴は、澪の顔ではなく、暗い窓のほうを見ていた。「君が走るなら、僕は隣で勘定を持つ。睡眠は削るな。食事も抜くな。ゾーンに沈むのはいい。だが、僕がアラームをかけたら、一度浮上しろ。体だけは壊すな。それが絶対条件だ」
「条件で、譲歩するわけね」澪はプリンの蓋に指をかけた。「私が追う代わりに、私の稼働率をあなたが管理する。交換条件として」
「ああ」少し、早すぎる即答だった。
合理的だ、と頭の半分が言った。私が問題を解き、彼が私の体調を保全する。役割の分担だ。だが、もう半分が朝の残差を思い出していた。条件の一つひとつが、私を手放さない方向へ力点を置いている。確保。囲い込み。資産を競合に渡さないための独占──そう読めば、あの一語は消える。
だが、その候補は保留の棚へ仮置きするだけにした。根拠が薄く、点が足りない。人を読むのは、彼女の専門ではない。代わりに拾い上げたのは、もっと手前の説明だ。私はいま代えのきかない資産で、彼はそれが壊れるのを嫌っている。ただの健康管理。係数はひとつで足りる。
「要するに」澪は、プリンの蓋を最後までめくった。「CTOが倒れると、納期も採用判断も全部止まる。いろいろと会社が困る、ということね」
御子柴は、すぐには答えなかった。窓のほうを向いたまま、肯定するのにそれだけの間が要るとでもいうように、一拍。
「……そういうことだ」
「いいわ。その条件は呑む」澪は頷いた。「ただし、追うかどうかは私が決める。すでに決めてある。あなたが乗るかどうかの話よ、これは」
御子柴の肩から、わずかに力が抜けた。彼はそれを、窓のほうを向いたまま隠した。
「君が放っておく性格じゃないことを、勘定に入れ忘れていた。禁じても、君は隠れて、寝ずに、勝手にやる。それくらいなら、見える場所で、ちゃんと食わせて隣で見ているほうがいい。──優先順位を調整しただけさ」
そう言って、彼はかすかに笑った。今度は、営業の笑みではなかった。
「──澪」
澪は、スプーンを止めた。御子柴が彼女を名前で呼んだのは、初めてだった。これまではずっと「氷室」だ。だが澪は、その意味を気に留めない。変数のラベルが一つ書き換わったに過ぎない。御子柴のほうは、自分が今何を口にしたのか半拍遅れて気づいたようだったが、取り消しも言い直しもせず、手元の書類に視線を戻して、また角を揃えた。
澪は、プリンを食べ終えると、画面に向き直った。
「決めたわ」表の中の、二十数件の塗り分けを、もう一度開く。「この一群は無害という事前確率を、更新する必要がある」
御子柴が、隣でかすかに笑った。
「出た。澪の“更新”」
「……それ、面白い?」
「面白いよ。君が本気で何かを追う合図だ」御子柴は立ち上がった。「君が走るんだ。僕は、君が倒れないように隣を走るだけさ」
「走るのは、明日からよ」澪は、ノートパソコンを閉じた。「今夜はもう点が増えない。私の処理速度も、いまは閾値の下。ここで粘っても無駄撃ち。それに──」
鞄を肩にかける。
「資産は、稼働率を保って管理するんでしょう。さっき、あなたが自分でそう言った。なら、今夜はもう休むのが合理的。あなたの取引条件に、私が従ってあげるだけよ」
御子柴は、毒気を抜かれた顔をした。資産を守れと自分で出した条件を、まさか先回りして帰宅に使われるとは、勘定に入れていなかったらしい。
「……わかった」
御子柴は、それだけ言った。
澪はそのまま出口へ歩いていく。引き止める言葉も、振り返る理由も、彼女の中にはなかった。御子柴は、遠ざかる背中を何か言いたげに見送り、結局、何も言わなかった。
***
「──聞いてたよ、全部」
隅の島から、声がした。彩が椅子をくるりと回してこちらを向いている。御子柴の肩が、わずかに跳ねた。そこに人がいたことを、今の今まで勘定から落としていた顔だった。
「朝からずっと、ここにいたんだけどね」彩は気だるげに頬杖をついた。「社長さ。今朝あれだけ言葉詰まらせて『嫌なんだ』とか素ぉ出しといて。それ経営判断じゃないでしょ、どう聞いても」
「経営判断だ」御子柴は表情を戻していた。「倒れたCTOは一行も書けない。リスク管理の範囲だよ」
「はいはい、今日も“合理的”ですねぇ」彩は棒読みで流し、澪が消えていった出口のほうへ顎をしゃくった。
──御子柴さま。本日も渾身の空回り、しかとお見受けいたしました。あの熱量、お返事は「会社の資産」のひと言。恐れながらこの鈍感、見立てでは一生もの。
──どうぞお気を確かに。
御子柴は何も言わず、書類の角を揃え直していた。
その夜、澪のノートの隅には、「資産・稼働率」という候補が一つ、薄い線で書き足されたまま、低い確信のところで止まっていた。だが、そのさらに外側──彼の構い方が経済の理屈ですらないのではないか、という線には、澪は手をかけることすらしない。恋愛の事前確率は、最初から計算に入っていない。ゼロのまま、動きもしない。彼女に見えるのは、いつも、データとコードの側だけだ。
どれだけ式を立てても割り切れずに残る“残差”――人を「事前確率」でしか測らなかった澪が、その割り切れなさの中に「この会社に居続ける理由」を見てしまう。衝突の先の小さな和解にじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 揺らぎの続きをブックマークで。




