幕間②「揃いすぎた拍手」【三】
調査は、二人で手分けして進めることになった。
御子柴は、真野に直接会いに行った。利用者の苦情を一通ずつ読み、ママたちが何を「変だ」と感じたのか――数字にならない現場の温度を拾い集めた。
一方の澪は、オフィスに残ってログに潜った。
おすすめが狂うなら、たいていは作りのほうが壊れている。だから澪は、まず自分たちのコードを疑った。協調フィルタリングは、似た利用者が好んだものを薦める――その心臓を、一行ずつ追う。似ている相手を選ぶ式も、票を重ねる順序も、教科書のまま、どこも歪んでいない。試しに作った小さな盤でも、入れた票のとおりに、正しく薦め返してくる。バグはない。
――作りは、無実だ。
なら、悪いのは作りではなく、作りに食わせているもののほうだ。
夕方、御子柴が戻ってきた。
「どうだ。何か見えたか」
「途中。あなたのほうは」
「真野さん、いい人だったよ」御子柴がパイプ椅子を引いた。「会社にしてもなお、十年、自分でも記事を書きつづけてる。『夜中、安心して開いてほしいだけなんです』って。彩が惚れ込む理由がわかった」
御子柴は、現場で書き取ったメモを呼び出した。
「で、苦情の主に直接話を聞いた。『前は、私の懐具合をわかってくれてる感じがしたのに、今は、お金持ちのママに話しかけてるみたい』。――数字じゃ出てこない言い方だが、面白いだろう」
「懐具合ね」澪は画面から目を離さなかった。「でも、懐具合は、協調フィルタリングのパラメタではないわ」
「そうだな」御子柴は、澪の素っ気なさに、なぜか少し笑った。「ただ、妙に引っかかったのがある。あるママが、こう言ったんだ。『前は、私みたいなずぼらな母親にぴったりの“手抜き離乳食”の記事を薦めてくれたのに。最近は、当たり障りのない一般的な記事ばかり』――と」
「……“似ている”の輪郭が、ぼやけた」澪の指が、わずかに止まった。「誰にでも薄く似た何かが大量に紛れ込んで、彼女だけに刺さっていた尖りが、均されて消えた」
「それ、何か関係あるか?」
「わからない」澪は、正直に答えた。その一言だけ、ほかの数字とは違う場所にしまう。どこへ繋げばいいのかは、まだ掴めなかった。
***
翌日。澪は、票そのものを疑ってかかった。
グレーな商品記事も、高い星をつけたアカウントも、一個ずつ覗いていく。だが、いいねも評価も本物のヒット記事と寸分変わらず、どのアカウントも当たり障りのない感想文を添えていた。単体で見るかぎり、悪意の指紋はどこにも残っていない。
ならば、と澪は票の扱いに手をつけた。全部信じて組み直すと、あの無名の抱っこ紐が上位に駆け上がる。逆に、異常検知で高すぎる評価を弾けば――十年通い、律儀に「いいね」を残してきた古株の常連が、その熱心さゆえに「異常な活発さ」と見なされ、まるごと網にかかった。いちばん大切にすべき客を、いちばん先に切り捨てる網だ。
「……どちらに振っても、滑る」澪は両手で顔を覆った。「信じれば、汚れたものを薦める。疑えば、本物の客を切る」
そのとき、御子柴が、その横顔を覗き込んだ。
「で。状況はどうだ?」
澪は、少し言いよどんだ。こめかみを一度押さえる。
「……投票が、サクラで乗っ取られている線を疑っているところ」澪はゆっくり言った。「無名の劇団が、客席に雇った百人を座らせる。台詞のたびに拍手し、終われば総立ちで喝采する。アンケートは満場一致の大絶賛。――でも、本物の観客は置いてけぼりで、ぽかんとしている」
「拍手の数は、本物。でも、拍手してるのは雇われた客、と」
「そう。私はその拍手の“数”を、ずっと数えていた。数えるほど、サクラに引きずられる」澪は綺麗すぎる波形を睨んだ。「だから、数えるのをやめてサクラを疑ったの。――でも、観客を個別にみにいってもどうもサクラではなさそうなの」
澪は、背もたれに沈んだ。
***
夜になって、新海彩が、デザインの手を止めて、こちらを見ていた。
「澪ちゃん。それ、また鳥の巣になってるよ」彩は呆れたように額を押さえた。「難しい顔して、何時間そこにいるの」
「触らないで。考えてるから」
御子柴が、缶コーヒーを二本、澪の机の端にそっと置いた。一本はブラック、もう一本は砂糖の多い甘いやつ。澪の指は止まらない。
御子柴の手の片方は、まだストップウォッチを握っていた。サブディスプレイでは、昼間の取組の録画が音もなく流れている。立ち合いで親指を落とし、決着で止め、また次の一番。
「……あなた、まだ、計ってるの」澪の声が、なかば呆れた。
御子柴は手を止めない。「……肩代わりのつもりが、相撲そのものが存外おもしろくてな」
澪は、その几帳面に同じ拍子を打つ親指を一瞥して、また画面へ戻った。
そのとき、彩が、色校の手を止めた。たいした話じゃない、という調子で、独り言のように零す。
「私さ、ニセのいいねとか、サクラのレビューって、見た目じゃ全然わかんないんだよね。一個一個は、本物そっくりだもん」彩はマウスを置いた。「でも、なんとなくはわかる。“押し方”でさ。本物の人って、もっとバラバラに、気まぐれに押すじゃない。気が向いたときに、ぽつっと」
押し方。
澪の指が、宙で止まった。
そうだ。アカウントを一個ずつ睨んでも、何も出ない。本物かニセかは、その一票の中には書かれていない。あれが浮かぶのは――束ねた分布の、揺らぎ方の上だけだ。
記事を一つずつ。アカウントを一人ずつ。一個ずつ覗いては、どれも無実で、何も出なかった。見ていた単位が、間違っていたのだ。一票ではなく、押し方。点ではなく、揺らぎ。
「……澪ちゃん、その顔」彩が、気配を察して、半分だけ顔を上げた。「またなんか、見えてきてる?」
世界の音が、すっと遠のいた。机も、缶コーヒーも、隣の二人の声も、もう視界に入っていない。
「……繋がったわ」
澪は、ほとんど吐息で呟いた。それから、コーヒーから手を離し、椅子を回して、画面へ向き直った。
「あ、始まった」彩が半歩身を引き、苦笑して肩をすくめた。「……何度見ても慣れないなぁ。――ねえ社長、こういうとき、どんな顔してればいいの」
御子柴に返事はない。
御子柴のほうも、いつのまにか自分の沼に沈んでいる。澪が深く潜るほど、彼の手元も同じ拍子でストップウォッチを刻んだ。それでいて画面から目を離さないまま、空いた手だけが甘い缶コーヒーを澪の机の端に置き直す。労わりだけが、無意識に自動化されている。
「……二人とも、行っちゃってるし」彩は、所在なく自分の缶を持ち上げた。
傍目には、ただ一人の女が猛然とキーボードを叩いているだけだ。けれど澪の中では、膨大な票の海の底に沈んでいた数十人ぶんの不自然な揺れのなさが、彼女の目にだけ、ふいに像を結ぶ。遠くを、広く、一息に見通す。千里眼と呼ぶよりほかにない、その一瞬だった。
***
その夜、五反田のオフィスから、世界が消えた。
票の“数”を数えるのをやめ、票の“揺らぎ方”――束ねたときの散らばりを測る作りに、組み替えていく。口からは、言葉が断片だけ零れ落ちた。
「……数じゃない。形……束ねると、揃いすぎてる。……人間は、こんなに、行儀よくない」
当てては、確かめる。当てては、消す。
「……整いすぎ、だけじゃ、本物まで切る……」
澪の指が、そこで一度、止まった。
「……いえ。抜くんじゃない。印をつけて――最後は、人に、渡す」
甘い缶コーヒーは、一度も口をつけられないまま、いつの間にか冷めていた。
窓の外が、藍色から、白っぽい灰色へ変わっていく。最後の検証項目に、緑のランプが、ひとつずつ灯っていった。
「……オールグリーンね」
澪は、椅子の背にぐったりと身体を預けた。芯まで干上がっている。それでも、目だけはまだ光っていた。
武器は、できた。あとは、現場でひらいてみせるだけだ。
澪は、のろのろと立ち上がって上着を掴んだ。
「……行くわよ、御子柴」
言うが早いか、澪は、まだ決着のつかない一番が流れるサブディスプレイに手を伸ばし、その録画をぷつりと消した。夜通しストップウォッチを握っていた御子柴の指が、止まった一番の上で行き場をなくす。返事を待つ気は、はなからないらしい。
御子柴は暗くなった画面をひとつ見た。それから車のキーを取って、先に戸口へ出ていった小さな背中を追った。
現場は御子柴、ログは澪。決着前の一番をぷつりと消して「行くわよ」と席を立つ――答えを伏せたまま現場へ発つ“引き”が気になったら、【びっくり】か【いいね】を! 答え合わせはブックマークで次話。




