第5話「取りこぼした変数」
「ねえ社長」
彩が、わざと聞こえる声で言った。コーヒーサーバーの前で、御子柴のすぐ隣に立って。
「それ、経営判断じゃないでしょ」
「何の話だ」
「澪ちゃんを私から引き剥がそうとしたやつ。リソースがどうとか動線がどうとか。あれ、全部ただのやきもちでしょ」彩は紙コップにコーヒーを注ぎながら、棒読みで続けた。「私が澪ちゃんとイチャイチャすると、社長が不機嫌になる。三日連続で観測したよ。私の相関は、見せかけじゃない」
御子柴は、表情を一切変えなかった。
「リソース配分の、合理的な判断だ」
「合理的な判断ね」
「CTOは会社の中核資産だ。その集中力を守るのは、CEOの責務だろう」
「ふぅん。やきもき、とか、独り占め、とか、そういう生々しい単語は一個も使わずに、よくそこまで言えるね」彩は、ことさら間延びした声で続けた。「で? その『責務』とやらは、椅子を一脚わざわざ差し込むところまで含まれてるわけだ。立派な資産管理」
「動線の最適化だと言ったはずだ」御子柴は崩れなかった。
「はいはい、動線ね」彩は紙コップを御子柴に押しつけた。「自分から否定する単語を、私が言う前に全部こっちで言っといてあげる。中核資産を守るだけのCEO、本日もお疲れさまです」
御子柴は、それを受け取って、自席へ戻っていった。崩れなかった。一ミリも。
彩は、その背中を見送りながら――声は、立てなかった。
口元だけ、わずかに緩んだ。ぷっ、と、息が漏れる程度に。残りは全部、胸の内側で処理した。
――御子柴さま。本日もリソース配分の名のもとに、見事な独占欲の発露でございました。椅子を一脚差し込まれたあの動線、わたくし、しかと見届けましてございます。
――しかしながら、肝心のCTO殿は、ご自身が御子柴さまのリソース配分提案の原因変数であらせられることに、生涯お気づきになる気配がございません。社長の三日連続の不機嫌は、ただの一度も、あの方の検出ログに記録されておりませんでした。
――恐れながら、この片想い、本日も完璧な空振りにございます。最前列、引き続き拝見いたします。
澪は、その彩のニヤニヤの理由を、相変わらずまるで把握していない。機嫌よく笑っているのは、たぶんチョコレートが美味しかったからだろう、と推定した。事後確率としては、まあ妥当な線だ。
***
「で」澪が、誰にともなく言った。「結局、私のバグの真因は、徹夜よ。睡眠を取れば直る。彩の溺愛は無関係。御子柴の懸念も、無関係」
彼女は自分の論理に満足げに頷いた。徹夜は原因、彩は無関係、御子柴は――リソース配分の一環。差し入れも椅子の配置も水分の補給も、すべてCEOによる従業員の健康管理であって、それ以上の値を持たない。とても合理的で、説明のつく構造だった。
ほぼすべての変数が正しく、ただ一つだけ致命的に取りこぼされたモデル。彼女が「無関係」と分類したものの中に、本当の原因が静かに座っていた。けれど検出されないものは、存在しないのと同じだ。少なくとも、澪の盤の上では。
「次の課題に移るわ」澪は、もう画面に向き直っていた。「マコトの誤検知率を、もう少し下げたい。閾値を動かす」
御子柴は、その横顔を、少しのあいだ見ていた。何か言いかけて、いつものように、飲み込んだ。彼の机の上で、淹れたコーヒーが一杯、誰にも飲まれないまま、静かに冷めていった。
***
その夜、誤検知率を詰めるためにログを洗っていて、澪の指が、ふと止まった。
詐欺ではない。煽り文句もない。顔照合も、ドメイン年齢も、何も引っかからない、ごく普通の広告群。けれど――その出稿のされ方に、澪は小さな歪みを覚えた。
百五十人ほどしかいない盤に、ある時間帯だけ、説明のつかない量の広告費が、薄く、均等に撒かれていた。誰かに見せるためというより、何かを試すための撒き方。こちらの目がどこで反応してどこを見逃すのか、薄く測っていくような均しさ。金の動きにだけ、人の意図のような規則性があった。
御子柴は気づいていない。事業が回り始めた手応えに満ちていた。
澪だけが、データの隅で、その「金の匂い」を指先に拾った。まだ足音とも呼べない、ごく小さな違和感。彼女はそれを、解くべき問題のリストのいちばん下に、そっと一行、書き加えた。
拾いきれなかった一つの変数が、静かに後の伏線になる――その不穏な余韻に気づいたら、【いいね】か【びっくり】を! どこに繋がるのか、ブックマークで見届けてください。




