第4話「見せかけの相関」
徹夜明けの澪は、髪がひどいことになっていた。
寝癖というには規模が大きく、白衣の襟には昨日の付箋が一枚、貼りついたままだ。本人はまったく気にしていない。気にするだけのリソースが、脳のどこにも割り当てられていなかった。
「もー、澪ちゃん!」
彩が出社して三秒で叫んだ。「また鳥の巣みたいになってる! ちょっとこっち来て、座って」
澪は素直に椅子に座った。抵抗するより従うほうが、所要時間が短い。彩は後ろから手早く髪を梳かしてヘアゴムでまとめ、付箋を剥がし、白衣の肩に乗っていた菓子の屑まで払った。
「はい、人間に戻った」彩は満足げに、澪の肩に手を置いた。「今日もちゃんとご飯食べるんだよ。私の澪ちゃんを餓死させない。これ、私の人生のミッションだから」
「血糖値の管理は、自分でできるわ」
「できてないから言ってるの!」彩は澪の隣にぴたりと椅子を寄せ、腕を組むように身を寄せて、自分のバッグからチョコレートの箱を出した。「ほら、限定の。一緒に食べよ」
澪は一粒つまんだ。甘さが、空っぽの脳に染みた。悪くなかった。
その一部始終を、御子柴は自分の机から見ていた。
タブレットの数字を眺めるふりをしていたが、視線は明らかに、彩の腕が澪の肩に回ったあたりで止まっていた。彼は何も言わない。ただコーヒーを淹れに立ち上がり――なぜか、淹れたカップを澪と彩のちょうど間に置いた。
「氷室。糖分だけじゃ脱水するぞ。水分も摂れ」
そして、ごく自然な動作で、澪と彩のあいだに椅子を一脚、差し込んだ。
「動線が悪い」と彼は言った。「ここ、人がよく通る。彩は壁側に寄ってくれ。リソースの……配置の最適化だ」
「リソースの配置」彩は棒読みで復唱した。「ふぅん」
***
その日の午後、澪の作業効率が、目に見えて落ちた。
タイプミスが増え、同じ関数を二度書きかけ、一度コーヒーをキーボードにこぼしかけた。彩がそのたびに世話を焼きに来て、肩を揉み、お菓子を補給し、澪の白衣のボタンを掛け直した。
御子柴は、それを観察していた。そして、夕方、ホワイトボードの前で腕を組んで、ひとつの結論に達した。
「気づいたんだが」彼は言った。「彩が氷室に構う日は、氷室のバグが増える」
「は?」彩が振り返った。
「データだ」御子柴は冷静に続けた。「この三日、彩が氷室の世話を焼いた日は、コミット時のテスト失敗が、平均より明確に多い。つまり――彩の密着が、氷室の作業効率を下げている。これは経営上のリスクだ。リソース配分を、見直す必要がある」
要するに、彩を澪から引き剥がしたい、ということだった。ただし彼の口から出たのは、最後まで「経営上のリスク」と「リソース配分」だけだった。
澪が、キーボードから顔を上げた。御子柴の出した結論の組み立て方に、見過ごせない欠陥があったからだ。彼女は白衣の袖をまくって立ち上がり、ホワイトボードのペンを御子柴の手から取り上げた。技術の話になると、彼女は急に滑らかになる。受け身でいる理由が、消える。
「御子柴。その結論、検算が抜けてるわ」澪はホワイトボードに、二本の線を引いた。「あなたが見たのは、二つの数字が一緒に動いた、という事実だけ。そこから『彩の密着が原因で、私のバグが結果だ』へ飛んだ。――でも、二本の線が一緒に動く理由は、たいてい、もっと退屈な形をしているの」
「退屈な形」
「どちらも、第三の何かに後ろから押されている形よ」澪は、二本の線の根元に、太い矢印を書き足した。「いい? 私のバグが増えるのは、徹夜明けで脳が消耗した日。睡眠負債が一定を超えると、ワーキングメモリの精度が落ちる。タイプミスも判断ミスも、源は全部そこ」
澪は、矢印の先を御子柴のほうへ向けた。
「そして――私が徹夜明けで鳥の巣になっている日に限って、彩は髪を直しに来る。つまり真因は『徹夜』。『彩の密着』も『私のバグ』も、両方その結果。彩は原因の列じゃない。同じ日に同じ場所へ居合わせた、無実の通行人よ」
澪は、ペンの尻で、御子柴の書いた結論を、こつ、と叩いた。
「あなたは今、無実の通行人を犯人に仕立てた。データの読み方として、いちばん古典的な転倒ね」
御子柴が口を開きかけた。澪は遮った。主導権は、もう完全に彼女の側にある。
「反証は簡単。彩を遠ざけても私が徹夜を続ければ、バグは減らない。逆に、彩が密着したまま私が寝れば、バグは消える。――どちらを動かせば結果が変わるか。それを試さずに片方を禁止するのは、結論が先にあってデータを後付けしただけ。あなたらしくもない」
最後の一刺しに、御子柴が、わずかに動きを止めた。
論破というより、解体だった。彼が掲げた「彩を引き剥がす理由」は、澪自身の手で根元の交絡変数まで掘り返され、無効化された。そして澪は、それを技術の問題として完璧に処理しきったがゆえに――その結論の本当の動機、超美人のデザイナーが愛する天才に腕を回している、その絵面への落ち着かなさには、ただの一度も指がかからなかった。彼女が解いたのは式であって、御子柴ではない。
「……そうか」御子柴は、澪が突き返したホワイトボードの図を、しばらく見ていた。「データの読み違いだったな。撤回する」
彼は席に戻った。けれど、彩を壁側に寄せた椅子は、撤回しなかった。
「相関は因果じゃない」。それっぽい数字に飛びつかず、見せかけを一刀で切り分ける澪の切れ味にしびれたら、【びっくり】を! この頭脳の冴え、見逃さないようブックマークを。




