第3話「九割の網」
最初の詐欺が、ノックしてきたのは、その日の夕方だった。
澪の手元で、機械が一件、弾き上げた。新規アカウントの審査キューに積まれた一件を、『いつもと違う』と見咎めている。彼女の指が止まる。
「来たわ」
御子柴と彩が、机の周りに集まった。画面には、登録したばかりのアカウントが一つ。プロフィール画像は、見覚えのある顔写真だった。テレビでよく見る投資家の顔。その名を騙った肩書きの下に、
> 月利30%・元本保証・期間限定・続きはこちらへ
と、最初の投稿が並んでいた。
「これ、本物の人?」彩が眉をひそめた。
「顔は本物。言葉は嘘」澪の指が動く。「顔照合で、本人の公式アカウントじゃないと出た。本人は、こんなアカウントを作っていない。無断使用。それに――」彼女は文面を指でなぞった。「『必ず』『保証』『期間限定』。煽り文句の三点セット。着地ドメインは、登録が三日前。所有者は隠匿。短命で使い捨てる前提の作り」
弱い手がかりが、一つ、二つ、三つ。澪はそれを目で確かめていく。機械は「いつもと違う一件」だと弾き上げただけ。最後に白か黒かを決めるのは、彼女自身だ。
「顔は無断、言葉は煽り、ドメインは三日」澪が言った。「どれも、詐欺の顔をしてる。――落とすわ」
彼女はキーを叩いた。そのアカウントは、ほかの誰のフィードにも出ないまま、静かに凍結された。前職の盤に置いてきたエンジンは、もう手元にない。これは澪が同じ嗅覚で組み直した、まだ網の粗い作りかけの仕掛けだ。それでも――今度は自分たちの盤の蛇口の手前で、一件目の嘘を止めた。
「やったじゃないか」御子柴が言った。「記念すべき一件目だ」
澪は、誇らなかった。
「今のは、わかりやすかったから止められた」彼女は淡々と言った。「うちは、まだ詐欺の見本を持っていない。だから『いつもと違うもの』を弾いて、私が目で見て決める。粗い網よ。逆に言えば――本物の新規ユーザーだって、見慣れないだけで弾く。怒鳴り込まれるのは、こっちなのに」御子柴が口を開きかけるのを、澪は手で制した。「それと、もっと厄介なのが逆。普通の顔をして、何件にも分けてちまちま紛れ込まれたら――一件ずつ見れば、どれもシロに見える。網に引っかからない」
「なら、もっと厳しくすればいい」御子柴が言った。「閾値を上げて、怪しいものは全部落とせ。それで取りこぼしは減るだろう」
「空港を想像して」澪は画面から目を上げた。「テロを百パーセント防ぎたいから、検査の基準を限界まで上げる。爪切りも、水筒も、キーホルダーも没収。全員、靴を脱がせて、入念にボディチェック。――どうなると思う?」
「……検査列が、進まないな」
「まともな乗客が、全員乗り遅れる。空港は大パニックよ。うちも同じ。閾値を上げれば詐欺は減る。でも本物の新規ユーザーが『怪しい』で弾かれて、締め出されて怒鳴り込んでくる。百パーセント安全な空港は、誰も飛べない空港よ」
「で、さっきの『シロに見える』だ」御子柴が話を戻した。「普通の顔で紛れ込まれたら、どうする」
「機械が捕まえられるのは、九割よ」澪はうなずいた。「残りの一割は、人が見るしかない。だから自動で全部弾ける作りには、しない。境界の事例は人間のレビューに回し、その判断をまた機械に学ばせる。――九割を機械が、一割を人が。その線をどこに引くかが、いちばん難しい仕事なの」
「人が見るのは、弾いた一割だけじゃない」澪は続けた。「シロにしたものも、いまは全部、私が目で通してから『正常』だと貯めてる。確かめもせず覚えさせたら、さっきの――普通の顔で紛れ込んだやつを、機械が『正常の見本』として学ぶ。ものさし自体が、詐欺で汚れる。それに、いつか正当な利用者と詐欺を仕分ける機械を育てるには『これは正当』という見本も要る。だから両方、貯める。そうやって機械は少しずつ賢くなる。――今は人数が少ないから、全部見られる。けど」
御子柴は、しばらく彼女の横顔を見ていた。一拍、その目が、彼女の手元に積み上がった確認待ちのリストへ落ちた。
「いいな、それ」
「何が」
「『詐欺ゼロです』って言い切る会社より、『九割は止めます、残り一割は人が見ます』って言う会社のほうが、僕は客なら信じる」彼は管理画面に向き直った。「正直は、いちばん長持ちする営業文句だ。覚えとくよ」
澪は、その言葉の意味を深くは考えなかった。彼女にとって九対一は、誇張のない事実の記述であって、信念でも営業でもない。ただ、御子柴が嬉しそうに受け取ったことだけは、視界の隅に残った。
***
夜になって、最初の通報が一件、入った。
詐欺ではなかった。利用者の一人――プロフィールに孫の写真を載せた、年配の女性だった。通報フォームの自由記述欄に、短い一文が書かれていた。
〈孫の写真を、安心して家族でみられる場所が見つかって、よかったです。ありがとう。〉
「……『ありがとう』を、通報フォームに書く人がいるのね」澪は、少し意外そうに言った。「想定していなかったわ」
御子柴は、その一文を、長いこと見ていた。彼の顔から、いつものクールな営業の余裕が、ほんの少しだけ抜けていた。
「これだよ」彼は、ぽつりと言った。「これのために、会社を作ったんだ」
澪は、その夢にはやはり共鳴しなかった。彼女が惹かれているのは旗ではなく、旗を立てるための盤のほうだ。それは創業の日から一ミリも動いていない。
ただ、その「ありがとう」が想定外だったという一点に関心が留まり、すぐ次の数字へ移っていった。利用者の感謝も、彼女には観測されたデータの一つだ。珍しい分布の。
「氷室」御子柴が、紙コップに淹れたコーヒーを、彼女の手元に置いた。「百人だ。百人の最初を、君のエンジンが守った」
「百人ね」澪は、コーヒーを一口飲んだ。「人が増えれば、通報も増える。誤検知の苦情も増える。私の仕事が増えるという意味よ」
「そうだな」御子柴は笑った。「人が増えれば、守るものも増える。――それが、会社が回り始めるってことだ」
彩が、管理画面の隅の小さな数字を指さした。アクティブユーザー、九十八。
「あと二人で、百だね」
その夜、マコトの利用者は、百一人になった。
***
澪は帰り際、もう一度だけ、検出ログをスクロールさせた。
落とした一件目のなりすましアカウント。プロフィールに貼られた外部リンクの着地ドメインは、三日で消える使い捨てだった。けれど澪は、ログの片隅に小さな違和感を覚えた。落とされたあと――まるで「なぜ落とされたか」を確かめるように、ほんの少しだけ文面を変えた、よく似た新規アカウントが、もう一度だけ現れていた。
すぐ落とした。〇・九一。問題ない。
ただ、それは「すり抜けようと、向こうも考えている」という小さな足音だった。澪はそれを、まだ足音とは呼ばない。百一人の盤に、ノイズは無数にある。
彼女はパソコンを閉じ、もう次の課題のことを考えはじめていた。
九割を掬う網を張っても、こぼれる一割にこそ牙がある――閾値と人手の綱引きに唸ったら、【びっくり】か【いいね】を! 続きが気になったらブックマークに入れておいてくださいませ。




