「騒乱の夜」12 ─ 波瀾の夜明け 1
─「波瀾の夜明け」─
熱気と冷気が入り混じる。
重力の混乱が漸く解け、流れ落ちる土砂と、それを支えていた巨木の根組が、動きを止めて惨状を露わにする。
辿り着いたマジニ山麓は、神の怒りが引き起こした嵐と地震に蹂躙されたかに荒れ果てていた。
思わず目を瞑る。だがその光景は意識に直接届くのだ。
土砂と裂けた幹、瓦礫を真っ直ぐにすり抜け、視界は目的地を映し出す。
地下深くの聖域に至る「大門」。今はただ、行き先に立ち塞がる黒い壁だった。
触れようと手を伸ばす。
─── その先には、何もないぞ。
纏った界域が撓む。あまりに唐突な意識への呼び掛けに体が凍りつく。
理力の狭間を縫うように伝う「血脈の移し身」に、外部からの干渉者など考えられない。だからこそ、身が竦んだ。
─── いやはや、竜の「外隠術」をこの時世に拝めるとは。
銀の艶めく輝きを散らしながら、大きな翼が開かれる。
力強く逞しい双翼の英馬が、闇の中に浮かび上がる。
「……天馬」
思わず口走り、威厳の迸るその姿に打ち震えた。
─── 見事な依代であろう? 卓越した技巧を用いた機工の芸術品と聞く。特にこの翼が美しさを際立たせておるな。
正体はわからないが、その威圧の強さは最上位の神と知れた。
その神が行く手を遮る理由を察して、体が動かない。
─── それはさて置き、竜の隠密めいた術を用いて、この聖域に何をしにきたのか。
決意と共に禁断の外法を使うため、とは答えられない。
ああ、しかし時間が惜しい。
「わたくしは、竜霊の血脈に連なるコランダのピジュアと申します。この度の聖域で起きた大いなる異変の真相を明らかにすべく、秘竜の血脈術を使ってこの地に赴いた次第にございます」
─── そうか。コラムディア人の大貴族の所縁だな。確かに一大事ではあるが、今はひとまず国に戻るが良い。夜が明ければ、嫌でも知るべき事が待ち受けている。
「……わたくしの夫が、あの大門の中におります」
─── ほう。その御仁は、シリカセン貴族か。
「このアカサス領の領主でございます」
─── なるほど。しかしこの大門は開かぬ。なにしろ、門の奥は無くなってしまったからな。
無くなった。その意味がわからない。
「無くなったとは、どういう事なのでしょう……」
─── この世から、消え失せた。
体の芯が冷える。同時に、二の腕にはまる希望の輪を思わず確かめる。
アカサス領主夫人であるピジュアは、絶望に溶けていきそうになる意識を奮い立たせた。
取り返しのつかない事が起こった。ならば、今すぐにでも、これを使わなくてはならない。
竜卵の使者。時空を渡り事象を掴む、唯一の手段。
─── 安心するが良い。森の神々は「頑鉄の掟」を取り戻し、霊力の細い糸を伝って、聖域の英霊廟を繋ぎ止めておる。
古精霊の大晶洞。太古の叡智を納めた聖域。森の神々はその四方を守護する。「頑鉄の掟」は、その要となる砦を存続させるための規律として蘇った。
では、この地を襲った異変は鎮められたのか。三百年前のあの出来事と同じように。
だとしたら、なぜこの神は「聖域が無くなった」などと宣うのか。一体何が起きているというのだろう。
─── 夜明けと共に、この森に隠された砦を訪ねよ。幾つかの命は引き上げられているであろう。
「神よ。その砦は何処にあるのでしょう。血脈の記憶に刻まれた『頑鉄の砦』は、今は見る影もありません。それに、聖域が無くなったとしたら、それは世界の安寧を脅かす一大事ではありませんか」
ピジュアは、腕輪の秘紋を指でなぞって、仕込まれた刃を探る。外法に血脈を捧げる覚悟はできている。
─── いいだろう。その問いに答えよう。陽が昇れば、砦は自ずと現れる。聖域はなくなったが、それは慮外の神力に隠されたからだ。
この神は何かを知っている。知っていて、それを表に出さない。貴族に、いや、この世界に知られては困る何かがある。
時間が無い。気が急いて仕方がない。すぐにでも、腕輪の刃に指の先を当てるだけだ。
─── その先に進めば、後で悔やむことになるぞ。「竜卵の使者」は止められない。血脈を汚し、「禍砕竜」をこの世に解き放つまで。
ピジュアの息が止まる。震えは止まらない。
「禍砕竜」。その忌み名。
指先が触れる。猛烈な怒りが湧き起こる。
─── 鎮めよ。どんな因果を手繰ろうとも、聖域は取り戻せぬぞ。運命をねじ曲げるために、どれだけ手を伸ばそうと、その指先は届かぬ。
この神は何を恐れている。まるで怯えた小童の戯言。無様で見窄らしい。ああ、腹が立つ。いいぞ、見せてやれ。神竜の絶大な威力。現世など一息で吹き飛ばしてくれる。
─── 耐えよ。竜霊は望まぬ。因果も生まれぬ。引き下がれ。
黙れ。壊してくれる。この溢れる莫大な胆力で、目にもの見せてくれる。戯けが。くたばれ。ああ、怒りが込み上げる。かかってこい。殺すぞ。死んじまえ。
─── 信じよ。其方は何者か。血脈の闇が惹く蒙昧に飲まれるな。
うるせー。バカが。死ね。しね。腐れて死にさらせ。
この力を取り戻した。もう無敵だ。逃げんじゃねえ。ぶち殺す。ぶち殺す。ぶち殺す。
微かな痛み。そして流れ出る極上の快感。
うひゃあ!
ああ。ああ。落ち着いてきたぞ。始まったからな。
よくも邪魔をしてくれたなぁ。道化の分際で。
あとは卵が孵るのを待つばかりだ。
─── 残念だ……。
天馬が飛び立つ。
残念だ? うわあ。負け惜しみ。悔しかろうなぁ。
あとは使者が働くばかり。しっかり働け。
ああ、楽しみだ。
楽しみだなぁ。
☆
ほんの微かに風が動いて、岩肌を撫でた。
辛うじて支えていた固い地盤が力尽きる。
轟音と共に岩塊が滑りだし、土砂を巻き込みながら崩れ落ちる。折り重なっていた巨木の太い幹が枝葉を振り回しながらそれに続き、その轢音と振動が斜面を伝って彼方へと届く。
広大な樹海のあちこちで陥没や隆起が起き、地道に伸び上がっていた木々を無数に倒壊させていた。
深夜を越えても、その余波は続き、年月を掛けて形成された土地の有り様を壊して変えていく。
ようやく鎮まった闇夜の破壊の傷跡を、何かが動いている。規則正しく地を踏み締め、剥き出しになった土を掻いて、新たに出来上がった崖を上り切り、未だ天を突く巨樹が立ち並ぶ、その根元にゆっくりと腰を下ろす。
「随分と遅くなったな。申し訳ない」
荒い息の合間に、野太く穏やかな声が流れ出す。
木々に囲まれた暗黒の中で、其処彼処に光が弾け出した。
<<< お待ち申しておりました。
聳え立つ大樹の木肌に、雫が乱れ流れ落ちるように光輝が走り、周囲を薄く照らし出す。
まるで熊の如き頑強な体躯の偉丈夫が座り込み、大きく息を吐いてから、おもむろに背後の大樹を見上げる。
「面目ない。頑鉄の仕掛けの起動を認めてから走って急いだのだが、途中で地面が割れ、そこに落ちてしまった」
鬱金に鉛丹の毛束が混じった毛皮の胴衣に、細い合金帯の帷子を着けた、由緒のある拳闘士に見える。
ただ、その大きくいかつい目の輝きは、隠された威圧を覗かせていた。
<<< それは災難でした。ご無事で何よりでございます。
「うむ。其方もご苦労であった。物事は滞りなく進んでいる。あらかたの因果は飲み込めた」
偉丈夫は若々しく逞しい魅了を醸し出しながら静かに語る。
「精霊の意志の広がりは三報に渡りかねない。本願の軋轢が強く、不明の底がしれない」
周囲を漂う光子の軌道が、一瞬乱れる。
<<< 頑鉄の掟は、響き及びませなんだのでしょうか……。
「この逆境の中では、十二分に働いている。この森の神々を労い、亡くなった生命は英霊の階位に迎えよう。ああ、縁起は残るので悪しからず」
<<< 慈悲深きお沙汰のお言葉。しかと承りました。
「ふう、暑い。あとは、『特異典』達の処遇だが、……どうしたものか」
<<< 精霊界からのお導きが尊く、現世の理では推し量れません。ここまで「人象」の勢力に偏ると、協定仁義を根拠に極界の介入も有り得ます。
「万年振りの大事になるか。とはいえ、精霊界の意向とあらば、受けて立つほかあるまいて」
左腕の肘が剥き出しになった破れた袖口で、はち切れんばかりの筋肉を曲げて、握った拳を顎に当て考え込むように視線を落とす。
「……精霊界の相性がこれほど離れると、天下二分どころか群雄割拠になりかねん。元気と活気は漲るかもわからんが、大方の『縁象』には辛い世の中になる」
<<< 動乱の始まりを鎮めることは難しいのでしょうか。
「縁起そのものは精霊界にある。因果の糸は弾けども、果報は寝て待てだ。生命は絶えず、次の世代が生まれるのみ」
<<< ……今は絶滅に向かえと? 精霊のご慈悲は。
「新たな均衡が作られるであろうな。百万、千万年先までには、恐らく、多分」
<<< 英神様。御身本願のご加護を。
「幾度となく繰り返される揺らぎに過ぎぬ。……だが確かに、今回は『特異典』の配置が奇妙だ。『負極』の動きが力強い。精霊界での『保守想』が過激に感じる。……いやいや、たとえ上手く弄ったとて、せいぜい数百年程度、破滅が遅れるばかりだ」
<<< なにとぞ、御身本願のご加護を。
考え込んだまま、暫く声が途切れる。
「……本願か」
巨体が動いた。一度地面に手をつき、そして立ち上がる。
「最近痛い目を見たばかりだ。この『地の巨峰』の体で、どこまでやれるか」
<<< ご加護を。このク・バ・ツの魂魄をお捧げいたします。
森の木々が微かに震えた。
「まずは、あの聖域を隠す力を調べたいのだが、支障がある」
<<< 何なりとお申し付けください。すぐにご出立なさいますか?
「いや、ちょっとその、腰が。思いのほか、痛んでな」
<<< ……。
「……」
トクリカの森が騒めいた。
☆
剛金格子が嵌った拘束牢。ただし、粗末だが寝台のある独房である。
真っ白な敷物に、柔らかく清潔な毛布が当てがわれていた。
裸の少女は毛布を抱きしめ、肩を震わせしくしくと泣き続けている。
常時監視の警霊紋章が、天井の中央に描画されている。それを受ける呪印が、黒い床に刻み込まれていた。
「……もう、いいかな?」
俯いて表情の見えない少女が呟いた。
「イレクティア君。現況報告したまえ」
─── あれほど狼狽えた人達を見たのは、初めてです……。
近侍妖精が、何故か戸惑ったような思念を返す。
「そう仕向けたのだから当然なのだ。こんな王都外れの太古の遺跡の深層で、裸でヌルヌルにされた女の子が怯えて泣き叫んでいたら、君だって気が動転するだろう」
─── 悪趣味ですね。お勤めの院官方に同情を禁じ得ません。
「そんな事より、どうなっている?」
褐色肌の少女は、意に介せずに問いを続ける。
近侍妖精もまた、慣れているのか先を続ける。
─── まず、この施設の妖精連携域は、不本意ながら完全掌握いたしました。また、現王陛下の勅令は、カレン純白位の心身確保が最優先事項です。王宮鑑別院の追認付き。院長実印証明済みです。配下の技官は拘束後、最優先事項の達成のために利用されます。
「本当に先輩を捕らえるつもりなのか。だとしたら、僕は前後の見境なく徹底抗戦してくれる」
─── カレン様の所在は、全く掴めておりません。シャドーム技官と、コマネッタ技官は、ナ・ラーミヤ鑑別聖堂に滞在中で間違いありません。アカサス領院はこの情報を把握しているでしょうが、王宮側にはまだ、報告が届いておりません。
「そちらはシャドームがなんとかするだろう。僕も早急に合流して、王宮と鑑別院との抗戦準備に取り掛からなくては」
─── 監視妖精は買収済みですが、それでも滅多な事は口にしないに限ります。磔刑ものですよ。
「は、はりつけの刑? い、いやらしい……」
─── 買収費用は、秒単位での支払いです。事後のカレン様へのご報告は、ウルファ技官にお任せいたします。
「ここで泣いてばかりいても詮無いので、取り敢えず脱出する。設備を残していくのは不安なので処分すること」
少女姿のウルファは、掛けていた毛布を両手で広げると、すっぽりと頭から被る。
─── 処分方法についてご指示ください。
「霊力転換して、妖精連中への支払いに充てる。これなら多分、先輩も満足なさるはず」
全身を毛布に包まると、ギシギシと鳴る寝台に倒れ込んだ。
─── 遺跡への影響が懸念されます。
「遺跡保全は妖精の仕事だから。そこは上手く対応して欲しい」
─── なんとかせよと? 使える手段は限られておりますが、事態収拾を最優先に対処いたします。しかし、この出費は、鑑別院の監査官に強制査察に入られたら、説明不能です。ご承知おきください。
「会計妖精にお願いしてくれ。必要ならば、経理部門全ての中核執行妖精群を笑顔にさせたまえ」
─── 使命をしかと承りました。実印をください。
ウルファは、毛布の中で身を縮める。
隙間から左手の先だけ出すと、立てた人差し指を細かく震わせた。
「うむ。シャドームの連帯追認印も押しておいた」
─── どうしてそれをお持ちなのでしょうか。……お労しや。ご自身の預かり知らぬところで、ミ・ト・ル網の「永劫遠間帳」に名を残されるなんて。
「何か聞かれたら、近侍妖精がやったと答えよう」
─── シャドーム技官に問い質されたなら、どなたがやらかした所業なのかを、間髪入れずに白状いたします。
「シャドームはああ見えてしっかり者で真面目だから、文句を吐きながらも事を納めるだろう。問題はないのだ。……さてと、準備ができたら知らせよ」
少女ウルファは、柔らかな布地の包みの中で少しだけ踠いた後、びくとも動かなくなった。
─── 管理妖精も買収完了。全くの「無反応時間」を獲得できました。猶予は「182.291秒」……。
毛布がふわりと宙に舞う。 音もたてずに、牢獄の床に四つ脚の獣が現れる。
暗い赤銅色の毛並みが一瞬だけ逆立った。
─── その姿は初めて目にします。「戎尼神将」眷属の神獣ですか。
立った耳がぴくりと揺れて、ゆっくり伸びをしてから、独房の格子に向かって半身を沈み込ませた。
─── 182.291秒です。用意は良いですか。「猫天犖」。
猫獣の、黒い縁取りを持った眼の琥珀艶の瞳が、行き先にぴたりと焦点を合わせる。
「にゃあ」
引き締まった野獣の外見に似合わない、円やかな高い鳴き声が放たれた。
波瀾の夜明け 2 へ つづく。




