「騒乱の夜」13 ─ 波瀾の夜明け 2
☆
仄かな灯火が、まるで濡れたような艶やかな石板の面に照り返す。
明かりの届かない床上の狭い通路を、青墨色の巻衣装の姿が小走りに動く。
高く続く壁に灯った明かりが次第に増え、暗闇だった空間を少しずつ露わにしていく。
磨かれた巨大な石壁に囲まれた円い大広間だった。
石柱が幾重にも組まれ壁となり立ち上がる、宮殿の要所に作られた内院の特用議事堂である。
床面に円を描くように配置された溝が伸び、そのひとつの底に、鑑別院の技官服がチラリと見えた。
「操作卓が古風でわかりづらい。幾つかの『議石』管理釦が無いぞ」
小さく舌打ちが聞こえた。
掠れた弱々しい声が応える。
「信号線の端子が抜けてました。……動作試験すらされていないのでは。あ、床配伝盤の蓋もないです」
「卓の左側から伸びている伝線を色で合わせろ。点滅灯は生きていそうだ。音響釦だけに注意を払え」
掠れ声が震える。
「もう、議事開始に間に合わないです……」
「安心しろ。議石は半分も埋まっていない。担当はこの区席だけだし、何とか」
「あっ。この音響釦、壊れてますぅ……」
「この切替盤を繋げ。そのままぶら下げておけばいい」
「もう、なんで鑑別官がこんなこと。……四石分準備できました」
「夏至の夜で、院局総出で誰もいない。残り四石はこちらで受け持つ」
「晩ご飯まだなのに……」
「日暮前に済ませておけ。同調器よし。聴取板に触れろ。試験的に出力する」
「晩ご飯」
『英霊の誉は、共にあらん。モリオネム公儀着座。……待たせたな』
黒曜の石板が震えて、新たな参加者の声を模した。
『王命に遅刻とは、自治領国の主は貫禄が違いますな』
紫金の石板は甲高く響き、しかし嫌味を忘れない。
『夏至の夜です。火急の勅命とはいえ、霊力が細った中での英霊廟の使用には難がありましょう』
火潜晶の石板が取りなして、同意を求める。
『北の国境から参じたのだ。大目にみろ』
黒曜の石板が、ゆっくりと応じる。
『北方域には国軍が集結していると聞きます。皆様方からも援軍を向かわせていらっしゃるのでしょうか?』
紫水の石板が、か細く震える。
『夏至の日に、自領の守護隊を取られるのはたまったものではない。かといって、国の事情も切迫している。王宮との交渉事に幾日費やしたか。ああ、いや、ここだけの話である』
風潜晶の石板が独り言ちて、何やら慌てた。
『もう夜明けは近い。霊力回復まで待ってからの召集では都合が悪かったのか。おそらく、通伝不能の自治領は多いぞ』
青金石板から、冷たい響きが流れた。
『タクラマカ侯。アカサスとの通伝は取れているのか?』
碧玉晶の石板が、重く響く声音で問い掛ける。
瞬間、区席全ての石板が静かになる。
一拍置いて、火潜晶の石板が応えた。
『レビゼダン山脈に沿っての地震については、まだ詳細がわかりません。特に揺れが酷かったと思われるアカサス領とは、未だ音信不通です。怪異由来と思われる大嵐も起きたようですが、観測網からの情報整理も今は難しく、被害規模も不明』
『アカサス領? 大門はどうなっている』
『隣りのテクスチー領もまだ着石がないな。アカサスならば、王宮側で把握していないのか』
『地震なら、我が領地も酷かったですけれど……』
『ああ、マジニ山か。ううむ』
石板の振動が交錯する。
『タクラマカ侯。鑑別院側からの報告は?』
『調査中とのことです。とにかく、この夜が明けないことには……』
「英霊の誉が、共にあらん事を。当区席担当の鑑別技官オルビスと申します。発言の許可を求めます」
一瞬、石板が静まり返る。
黒曜の石板が、強く鳴る。
『何故、鑑別技官がここにいる』
「院局技術員の代わりで、こちらの石板管理を担当させていただくことになりました」
『王宮も人手不足か。何か情報があるのだな。ならば発言を許可する』
「恐れ入ります。銀箔位鑑別技官としての今現在の取得情報です。……アカサス領都との連絡は、領内鑑別院ともども取れておりません。直近の報告では、領主グレブル様はマジニ山に向かわれております」
『……夏至の日に? マジニ山には何があるのです?』
『古精霊の大晶洞か』
『領内祭祀の大儀でしょう。ご無事であれば良いのですが』
『聖域内に居れば、何も心配はないであろうな』
「山脈を隔てた隣国である『コランダ』でも、地震の影響は大きく、『機竜軍空挺隊』の活動が確認されております。また、コランダ王宮より、明朝からの国家間救援部隊の相互協力が打診されている模様です」
『コランダの機竜軍だと』
『アカサスの領妃は、コランダの王族筋でしたね』
『救援協力ならば、ありがたい話だ』
『……あの、中輪区の四番議石に、直接通伝の回路を繋げませんでしょうか?』
『救援だ? 嫌な予感しかせんわ』
『鑑別技官。議事開始はまだか』
「今しばらくお待ちください。全区議石の三分の二の着石が確認され次第開始となり、現王陛下から直接のお言葉がございます」
オルビス鑑別技官は、手元の操作盤から目を逸らさずに答えた。
『陛下が、この議事堂にお越しになっているのか?』
『そもそも、式次第もない緊急議事だ。事前の議案検討もできない』
『おお、これは僥倖だ。おそらく、何らかの御達しが発せられるに違いない』
『現王陛下って、クオリナム大王陛下ですよね……』
『他に思い当たる人物が居るのか?』
『ええい。こういう時に限って、録音機工の調子が悪い!』
声が乱れ飛び、ガタガタと雑音も混じり出す。
『石板越しとはいえ、お言葉を拝聴できるとは……』
『……いやはや。嫌な予感がひしひしと』
『鑑別技官。まだか』
突然、綺麗な弦楽器の澄んだ音色が流れ出す。
「皆様、静粛に願います。これより中央の高壇に、現王陛下の玉座が昇御あらせられます」
鑑別技官が厳かな口調で、現王の出現を告げる。
石板たちの声が掻き消えた。
広間の中央に据えられた高い演壇にぽっかりと穴が開き、数千年の威容を誇る巨大な水晶の六角柱に穿たれた玉座が迫り上がってくる。
溝から顔を覗かせた鑑別技官は、初めて目にする大王国の玉座に納まった、艶やかで美しく輝く冠を頂く偉大な姿に、思わず息を飲んだ。
この大陸で最も古い格式と、歴史に多く名を刻み続けるシリカセン大王国。その玉座に八百年近く鎮座する現王陛下「クオリナム大王」。高壇からは遠く離れた外縁部の溝からは、眩く輝く光の御姿の輪郭しかわからない。
それでも、その威光は全てを包みこむ貴属の頂点に相応しく、熱く強くこの場を照らし出すのだ。
二人の技官は目を瞑り、操作卓に突っ伏した。眼窩そのものが痛くなる程の圧倒的な御威光に、意識が朦朧となる。辛うじて職務を思い出し、暗がりの卓盤を確かめようとするが、現実の視界が戻ってこない。手探りで釦を触り、無言で調整を続ける。
光の放射は全てを平伏させ、ただ時が流れた。
オルビス鑑別技官は、記憶と指先の感覚だけを頼りに操作卓の盤上を探る。今は、現王陛下のお言葉を、区席の石板に届けることだけに集中すれば良い。
一瞬だが、隣の同僚が気になった。お喋りで直ぐに泣き言を漏らす女の子だからだ。
だが直後に集中を盤面に戻した。新米とはいえ「錬金位鑑別技官」だ。この程度の事で不始末をしでかす可能性は無い。
いまだに「晩ご飯」と呟いているが、その能力は自分を遥かに凌駕する。
聴取板の触感が変わった。高壇の受声器が伝信系に繋がったのだ。
お言葉が発せられる。
「……祖王が、お目覚めになられた」
深い低音が、しっかりと聞き取れた。
そして、伝信が途切れる。
偉大な光輝が、畳まれ始めた。
玉座が再び、お隠れになる。
区席の石板が次々に着石の燈を落としていく。
国中からの接続が、ひとつ、またひとつと離れていく。
オルビスは、呼吸を忘れていた。そのまま気絶寸前までいって、背中を叩かれ息を吹き返す。
「……陛下、陛下は、今なんと仰られた?」
「祖王が」
「お目覚めになられた。……確かにそう聞こえた」
「始源の最奥の英霊廟に、意識がお戻りになられたのですね」
「それは、そんなことが、しかし、陛下……」
「万年来の奇跡ですか。鑑別技官になるのが間に合って、ホントによかったです」
まだ痺れている視界に、見事な金髪を緩やかに胸元へ垂らす金環色の技官服を着けたほっそりとした姿が、その輪郭を浮かび上がらせた。
「晩ご飯をお預けにされた、価値がありました」
虹色に湧き立つ瞳が、満面の微笑みと共に煌めいた。
☆
何故か遠雷が聞こえたように思えた。
操作盤の表示灯が消え、音響機工のツマミから指を離す。
「……祖王陛下とは、始祖帝クリスタ・ムート様ですね」
まだあどけなさの残る声が震えている。
「その通りです。とにかく、あなたは無事に通伝を遂げられた。喜ばしい限りです」
はっきりとした発音で喋る、初老の男が答えた。
「これで王宮に対する認証も通ったと言えます。代理認可ですが、領主代替わりの準備が整いましたな」
椅子の背もたれが軋んだ。古風でよく手入れされた儀礼服に身を包んだ若者が微笑む。
「こちらこそ、礼を言わせてください。考えていたより円滑に事が進んでいます」
「次期領主としての立派なお心掛けがあったからこその成功です」
丸い銀杯が掲げられる。若者の声音が弾む。
「これで虐げられ続けた領民を助ける事ができます。あの領主の悪行は潰えた! よくもこれだけの財貨を蓄え込んだものだ。この金があれば、貧しく飢えた人々に希望を与えられます」
「我が主人も喜びましょう。あなたのような真っ当でお若い貴族に助力できる光栄をいただけた」
「ありがとうございます。……ですが、困難はこれからです。何もかもに手を出して財貨を掠め取る、長く続いた悪巧みも暴かねばならない」
「前領主一家は、自らの罪で滅んだのです。今後の手筈も、引き続きお任せください。あなたは掲げる理想に向けて邁進なされば良い。面倒ごとはすべてお引き受けいたします」
立ち上がって操作卓から離れた貴族の若者は、初老の男がいる円卓の向かいの席に腰掛ける。
「やりたいことは山ほどあります。この土地を、幸せな人々の活気に満ち溢れた生活しやすい場所にしたい!」
「素晴らしい。そのためにはまず、叙任後に領院制度の改革が必要ですな」
「頼もしい仲間が増えております。皆、貴族としての地位は低いですが、やる気のある改革の志士と言えましょう」
「これは心強い。叙任祝宴の折りにでも、一度お引き合わせください。今後も色々と入り用になるでしょうから、他の皆様のご要望も伺っておきたい」
若者は杯を卓に置き、静かに話す。
「叙任の式典は行わないつもりです。領民がこんなに苦しんでいる時に、華やかな式典は不要です。皆が幸せになって領地が大きく栄えたら、その時には盛大な祭典を催したいと思っております」
「あなたならば、そう仰ると思っておりました。……これを、お納めください」
銀灰色の生地で仕立てた袖が動いて、細長い木箱を静かに卓上に置く。
貴族の若者は一瞬訝しみ、それからはっとしたように目を見開いた。
初老の男は、箱の中から取り出した赤土色の陶器の瓶を、若者に差し出すようにその目の前に立てる。
「我が主人からの贈り物です。せめて、お仲間内の祝杯にお使いください」
都市連合ギャリフマランの銘酒。それも、南部ユトリーの河沿産地の高品質な葡萄酒だった。
若者は息を呑み、それから大切そうに両手で瓶を持つ。
十数年ぶりに目にした、故郷の名産品だったのだ。
「ああ、懐かしい。お心遣い、感謝いたします!」
「気に入っていただけましたか。でしたら、我が主人も喜びましょう。……そろそろ、夜明けも近い。短い時間ですが、少しでも身体をお休めください。この館の警護は、私どもにお任せを」
興奮冷めやらぬ年若い貴族を寝室へと送り出し、初老の男は再び円卓の椅子に腰掛ける。
「……祖王だと」
通伝廟を通して現王が登場し、聴き慣れぬ声が流れたその瞬間、己が顔に張り付けていた優しげな微笑みが引き攣るのがわかった。ただ、感情には波を立てずに済んだ。
若い貴族は気づかなかったのだ。あの宣言の意味を。
「どこまで線が繋がっているのか。王宮の思惑はどちらに振れた?」
「あれだけでは判断はつきません。ですが少なくとも、今この時機に耳にはしたくない言葉です」
男の問いかけに、何処からか返事がある。
「まさかここで、王宮から切り札を打たれるとは思わなんだ」
「盤上に予期せぬ大駒を置かれた形ですか」
「やはり夏至の日は厄介だな。二転三転、条理がひっくり返される」
初老の紳士は背筋を伸ばしたまま、つけていた薄い手袋を外していく。
「まあ良い。不測の事態はいつでも訪れるものだ。予期できぬ事にも備えるのが信条である。方針に若干の変更を加える」
「では、夜明けまでに手立てする事柄からご命令を」
紳士は素手の指先を巧みに操って、空中に不可視の指令を描く。
「国内の『新手』の存在を探れ。まずは、貴族」
「貴族候補は二件。アカサスは森の少女。ベルゲニンは領主の息子です」
「森の少女を見張れ。次に勇者」
「アカサスに二件。豪腕の血筋の男。未確定で剛腕の娘です」
「剛腕の娘に絞れ。神々は?」
「……アカサスに二件。街道の憑き神の盗賊。森の関所に稀れ神の子供。盗賊は守護隊が確保し、子供は森に隠れ、例の純白位が追っています」
紳士の指が止まった。すぐに手袋を付け直す。
「直ちにアカサス領に向かう。こちらの若い新領主様は、領主院の城塞に留まっていただくように。城内の後始末は終えているな?」
「城は疵一つ無く仕上がっております」
「宜しい。明日の日暮れに、アカサスの湖北で」
「御意」
円卓の椅子が引かれる微かな音がした。
それきり、部屋には静寂が訪れる。
☆
夢を見ていた。
荒れたお社があった。古臭くて黴臭い、見捨てられた「神」の褥があるだけの小さな建物。見覚えがある。実際に訪れたことがあるのだ。
夢なので昔のままだ。本当はもう、崩れ落ちて無くなってしまっているかもしれない。
記憶にあるのは、大樹の根彫りの台座に設られた褥だけ。汚れた敷物と毛皮や綿詰めの掛け物があるばかりの忘れ去られた寝床の跡。
ただ、この夢の中では、その褥の中に寝姿があった。
眩しいほどに光り輝く二つの神像。向かい合って横たわり、肩を寄せ合う美しい若き神々。
ドロドロに疲れて、そのまま寝台の積み藁に倒れ込んで寝ているのに。これは怪異の大雪崩を食い止めた、ご褒美の眼福なのだろうか。心の底から軟らかく解れていくような、麗しく愛らしい幸せの享受に浸る。とっても眼福。
そのうちに気づく。腿を覆う鎖帷子の裾を、何かが引っ張っているのに。
眼福に意識を集中したいので無視していたら、何度も何度も引っ張られた。それでも放っておこうとしたのに、なぜかそれではいけない気持ちになった。
裾の先に手を伸ばすと、冷たい肌に触れる。
小さな子供の手指が握ってくる。覆指手甲をしたままなのに、そうわかる。
『おともだちなの』
そんな声が聞こえたような気がした。
『このこたちを、まもって』
声のした方を振り返る。
光の羽衣に、金糸の髪の、切なくなるほどに可愛らしい、女童の姿。
「ギャァぁぁぁぅぁ!」
あまりの驚きと痛さに、悲鳴を上げて目が覚めた。
「ブライナ! 何事だっ。……大丈夫か」
目が回って動けない。ちょっと喚いてから、大きく息を吸った。
「ジジイっ。大変だ! 体が動かない。どうしよう!」
「寝台から転がり落ちて、どこか筋を痛めたな。待て、足掻くな。心拍を落ち着けて、どこを打ったか体に聞くんだ」
少し呆れたような声が近づいてきた。
急いで体を点検する。
「お尻と背中。あと、首も痛い。すっごく」
「せめて狩鎧は外して寝ろ。尖兜靴も脱げ」
肩を借りて何とか立ち上がる。痛みはあるが、和らげる姿勢を見つけた。ちょっと楽になる。
「あ、そうじゃなくて、すごいんだ!」
「何がすごいんだ?」
「ふたりの若い美神が、仲睦まじくお休みになって、友達だから守れって」
「……壮絶に寝呆けているな。もういいから寝ろ。すぐに夜が明ける。そしたら、あらためて叩き起こしてやるから」
「ね、猫の天神様が、すっごく可愛くて、ドキドキした!」
ほら、まだ胸が高鳴っている。目を瞑って、あのお姿を思い出す。そうしたら、不意に気掛かりに勘付いてしまう。
信奉するご本尊様が、こっちを見つめている。でも、その表情は、悲しそうで寂しそうなのだ。
「陽が昇って残りの報酬を受け取ったら、『技流帑』に睨まれる前にここを出るんだ」
「ジジイ、信じて! 本当に見たんだ。夢の中で猫天様からお願いされた!」
「そうか。夢か」
「あそこに、行かなきゃ……」
記憶の場所。でもあれはどこだったのだろう。
突然、両肩をがっしりと掴まれた。
そして、絞り出すような声にならない息が頬に当たる。
「頼むから、今は、静かに、寝てくれ……」
もう、ずっと相棒だった男の顔が暗がりの中、目の前にある。精悍で思慮深い傭兵だった男。今はしがない雇われ人夫の男。長鎗使いの凶暴な戦士を連れて流離う、不憫な男。
抱きしめられる。何かを堪える震えが伝わってくる。
『結局、端金で仕舞いか。年で一番の稼ぎどきに』
それは声ではなかった。音じゃない。心に直接響いてる。
『技流帑を抜いて手に入れた仕事なのに、どこまで運がない。こんな国の果てまで流れて、もう次は見えない』
これはなんだろう。落ちた時、頭を打っておかしくなったのかな?
『いくら腕がいいとしても、「狼憑き」の女戦士を歓迎する依頼者なんているわけがない』
ジジイの心。これが本心?
『こいつを連れている限り、満足な報酬の仕事なんて、金輪際回ってこない』
ジジイは、いつも困った顔をしている。そうか。原因はわたしか。
『こいつを連れている限り……』
辛いのだろうか。辛いのだろうな。
こんなふうに思われていたのか。
鈍感なわたしは、ジジイに嫌われてたのかな?
『だけど、愛おしいんだ!』
両手を回して、男にしがみついた。
でも、突然に踏ん切りもついた。
わたしは一緒にいては駄目だ。
ジジイが壊れちゃう。
それは駄目だ。
そして、あのお社の在処を、思い出したから。
☆
そこは、居心地の良い空間ではなかった。
何も無いし、何も起きない。だから時も数えられない。
ただ、意識はあった。微かな思考も感じる。
かといって、何事か深い思想を極め、悠久の彼方に向けて「世界の本質」を体系立ててまとめ上げても、意味は無いと知っている。
そんな事は「他象」に任せて、感覚に身を委ねて漂っていたい。多分ここならば、永遠にそれが叶う。だが、その永遠は一瞬かもわからない。
今あると思うこの意識も、これを感じたのは何度目なのだろう。いや、だから数に意味はない。という事は、この意識にも意味はない。だったら、何か意味を見つけようか。
ついさっきだったか、ずっと前だったか知れないが、別の「縁象」を感じたことがあった。
それは、ゆっくり近づいてきて、どこかに触れて跳ね返った。また同じことが起きたなら、今度はそれを捕まえてみようか。
……。
きっと何度もそう考えたはずなのだ。そして、また何時かそう考える。
繰り返すのも悪くはない。折角、意識があるのだから、繰り返そう。そうしよう。
─── 塵芥、のように。取り、除かん。
懐かしい響きだ。思念が温かい。これは何回目なのだろう。
─── 廃棄物、ではないの。なぜ、ここに在る?
痛いほどの刺激に驚いた。この力は無垢の霊力か。
─── どこから、紛れた。いつまで、在るつもり?
ああ。精霊に見つかった。でも、何度目だろう。
─── これは、奇妙。所属を、持つ。
そうか。あの威法は、現世を割るんだな。
「空智の虫籠」ならば、何も無いのが道理。
外法にやられたか。では、こうしてはいられない。
あれから随分経ったような気がするが、繋がりは残っているような。
─── やあ、迷子な「パタルバデァ」。在ってはならない。幻滅したいの?
時空の基準が不明だ。精霊に想念が通じれば良いが。
ここに在るなというのなら、帰るべき時空座標を教えてほしい。
─── やあ、迷惑な「解質医具」。消滅するまで、後ちょっと。
「ちょっと」って、どれくらいなのか。このやり取りは何回目だ。
─── とても、奇妙。所属に、偽り?
所属か。我れの所属はちょっと複雑なのだ。
だが、創造手は素敵な精霊だ。それは間違いない。
直ちに帰還するから、時空座標を提示してほしい。
─── 「ちょっと」って、どれくらい? 精霊は、誤魔化さない。いろいろ、不穏。抹消陰子で中和す…。
それは大いに困る。泣かれるのは苦手なのだ。
『……今から送るよ。衝撃に備えて』
! ああ、助かった。素敵な精霊に変わってくれた。とても嬉しい。恩に着る。
『着いたら、急いで。あの時点にしか戻せない』
なんとかしよう。約束しておく。だが、念のため猶予を知りたい。
『わからない。……あの子に伝えて。諦めないでって』
できたなら、伝える。約束する。
……そうか。我れの助けを借りずに留めたのか。
立派な「神」に成り果てたではないか。
ならば、もう少しだ。
待っておれ。
カミクよ。
☆
朝日が昇る。
待ちかねた陽光が、王都の威光、その脈動の流れ、どこまでも続く街道の石畳に届いた。
この国、この大陸を縦横に走る霊能転換路のメルタル合金が輝きを取り戻す。
ピキッ!
その仄白い石畳の表面に、微かなヒビが走った。
天地生まれの英霊譚『騒乱の夜』はここまで。
お読み頂いた方々、ありがとうございます。
ようやく終わりました。
プロローグが……。
次からは本編『世界の軋轢』(仮題)になります。




