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7/30

間諜は迷う

バリエ子爵が王宮から姿を消した翌朝も、アルディエール公爵邸の朝食はいつも通りだった。


焼きたてのパンがあり、蜂蜜があり、薄く淹れた紅茶がある。


マルタはセラフィーナの右側に立ち、カップが空けば静かに茶を注いだ。


「ありがとう」


「はい」


返事も普段と変わらない。


少なくとも、声だけなら。


セラフィーナはパンを一口食べながら、マルタの右手を見た。


以前まで、彼女は紅茶を注ぎ終えると一歩下がり、次に必要になる物へ自然に視線を移していた。


今日は違う。


仕事が終わっても、ほんの一瞬だけ手元を見ている。


それから、何でもないように右手で左袖の端を撫でた。


朝食が始まってから三度目だった。


「マルタ」


「はい」


すぐに顔を上げる。


「昨日はお休みだったわね。ゆっくりできた?」


「はい。少し王都を歩きました」


「どちらへ?」


「西区へ。昔住んでいた辺りを見たくなりまして」


答えに淀みはない。


事前に用意していた話だから滑らかなのか、本当に西区へ行ったから滑らかなのか。


今の情報では分からない。


「懐かしかった?」


「随分変わっておりました。昔あった菓子屋もなくなっていて」


「それは残念ね」


「はい」


そこで会話は終わった。


セラフィーナも、それ以上は尋ねなかった。


休暇中の使用人がどこを歩こうと自由だった。


西区には商店も教会も宿屋もあり、ノルディア商人が利用する店もある。


だからといって、休暇明けに袖を触っているというだけで秘密の接触があったことにはならない。


ただ、昨日までなかった変化は覚えておけばいい。


朝食を終え、セラフィーナが立ち上がる。


マルタは食器を片付け始めた。


その途中で、一枚の皿を隣へ置こうとして、別の皿へ軽く触れさせた。


小さな音がする。


「あ……」


割れてはいない。


傷もない。


それでもマルタは一瞬だけ強く息を止めた。


「大丈夫よ」


セラフィーナが言うと、マルタはすぐ頭を下げた。


「失礼いたしました」


以前なら、その程度のことでここまで緊張しなかった。


救護院で皿を割った後も、翌日には普段通り働いていた。


何かを気にしている。


ただし、それが何かはまだ分からない。


午前中、セラフィーナは公爵家の慈善事業に関する月次報告を読んだ。


その間も、廊下では使用人たちが普通に働いている。


しばらくして侍女長が入ってきた。


「失礼いたします。本日の午後ですが、北棟の寝具交換を予定しております。お嬢様のお部屋も、明日の予定を繰り上げてよろしいでしょうか」


「どうして?」


「担当の一人が明日休暇を取ることになりまして。本日なら人数が揃いますので」


「構いませんわ」


「ありがとうございます」


侍女長が手帳へ書き込む。


「マルタにも補助をさせます。そろそろ上階の仕事を覚えさせてもよろしいかと」


「そうね」


新人として働き始めてから日数も経っている。


仕事にも慣れ、救護院での荷物確認も問題なかった。


いつまでも食堂と客間しか担当させなければ、むしろ不自然だった。


「ただ、私室の書類箱は先に執務室へ移しておいて」


侍女長が顔を上げる。


「全てでございますか?」


「今週は王宮からの書類が多かったでしょう。寝具を動かす日に机の周りまで物が多いと邪魔ですもの」


「承知いたしました」


嘘ではない。


バリエ子爵の事件に関する記録。


ノルディア使節団との贈答記録。


アドリアンから届いた私信。


どれも、使用人が寝具を運びながら近くを通る場所へ置いておく必要はなかった。


誰が部屋へ入るかに関係なく、片付けた方が安全だった。


「いつもの入室記録もお願い」


「もちろんでございます」


アルディエール家では、主人一家の私室へ誰が入ったのかを当番表に残している。


特別な監視ではない。


掃除中に物が壊れた時や、後から紛失が分かった時に確認するための通常手順だった。


今日だけ厳しくすれば、理由を考えられる。


だから今日もいつも通りでいい。


侍女長が退出してから、セラフィーナは月次報告へ視線を戻した。


マルタの緊張。


休暇。


袖を触る仕草。


私室へ入る仕事。


そこまで並べれば、警戒する理由はある。


けれど、まだ一つの答えにはならない。


情報を探すよう命じられたのかもしれない。


何かを盗むよう命じられた可能性もある。


逆に、仕事とは関係のない個人的な悩みを抱えているだけかもしれない。


だから、重要な物を退避させる。


それだけで十分だった。


午後。


セラフィーナは魔術教師との授業のため、屋敷内の練習室へ移った。


防壁術は以前より安定している。


もちろん、教師の前では教えられた術式をそのまま使っていた。


「随分良くなりましたね」


「先生のおかげですわ」


「私の教え方だけなら、皆この速度で上達してくれるのですが」


教師が苦笑する。


セラフィーナも笑った。


授業を終えたのは一時間ほど後だった。


廊下へ出ると、ちょうど寝具を抱えた使用人たちが上階から降りてくるところだった。


マルタもいる。


視線が合う。


「お疲れさま」


「ありがとうございます」


普通の返事。


ただ、その手には交換を終えたシーツがあるだけで、左袖を触る仕草はなくなっていた。


セラフィーナは少しだけ興味を持った。


それでも声は掛けない。


自室へ戻ると、寝台のシーツは新しくなり、窓も開けられていた。


机の上も整っている。


朝に指示した通り、重要書類は別室へ移されていた。


侍女長が作業記録を持ってくる。


「問題はございませんでした」


記録には四人の名がある。


古参侍女。


掃除係。


寝具担当。


マルタ。


全員が予定通り。


何かがなくなったという報告もない。


物が増えたという報告も、当然ながらない。


「ありがとう」


セラフィーナは記録を返した。


そこで終わりにした。


部屋中をひっくり返して何かを探すこともしない。


壁の裏まで調べる必要もない。


疑いだけで大騒ぎすれば、こちらから相手へ情報を渡すことになる。


今ある危険は管理できている。


なら、急ぐ理由はなかった。


その夜、使用人区画の明かりが一つずつ消えていった。


マルタは自室の扉を閉め、鍵を掛けた。


狭い部屋だった。


寝台。


小さな机。


衣装箱。


そして、数日前に増やされた毛布。


アルディエール家へ来たばかりの頃より、朝晩の冷え込みは随分弱くなっている。


それでも毛布は取り上げられていなかった。


マルタは椅子へ座った。


左袖の内側に指を入れる。


縫い目へ沿わせるように隠していた薄い紙を抜き取った。


折り畳まれた、小さな手紙だった。


昨日、西区で受け取ったもの。


正確には、受け取った時には何も書かれていなかった。


古書店で買った安い祈祷書の間に、白紙が一枚挟まれていただけ。


持ち帰り、決められた薬液を塗る。


すると文字が浮かび上がった。


命令は短かった。


セラフィーナ・アルディエールの私室へ、同封された書簡を隠せ。


場所は、後日の捜索で発見されても不自然でない場所。


机の引き出し。


書棚の奥。


私物箱の底。


それ以外の指示はない。


マルタはもう一枚の紙を取り出した。


こちらが隠すための書簡。


ノルディアで使われる紙。


ノルディア商人が好む封蝋。


そして、セラフィーナへ宛てた文面。


『先日は南部三港に関する情報を感謝する』


『王太子殿下の今後の予定についても、引き続き知らせてほしい』


『アルディエール家からの協力は、我が国にとって大きな価値がある』


本物ではない。


セラフィーナはそんな手紙を受け取っていない。


少なくともマルタは知らない。


南部三港についてノルディア側が正式に資料を求めたことはある。


しかし公開資料だった。


それを、


秘密裏にセラフィーナから渡された。


という形へ変える文書。


見つかれば、すぐに有罪になるとは限らない。


けれど十分に疑われる。


これまでの噂もある。


ノルディア使節団との接触もある。


そして今は、薬物事件まで起きたばかり。


一枚あれば、他の出来事まで違う意味に見せられる。


マルタは紙を見つめた。


以前までの任務は簡単だった。


屋敷へ誰が来た。


セラフィーナはいつ王宮へ行った。


アドリアンから手紙が届いた。


慈善施設へ何を運んだ。


見たものを報告するだけ。


嘘を作る必要はなかった。


ノルディア王国のため。


そう言われれば納得できた。


外国の有力貴族が何をしているかを知ることは、どの国でも必要な仕事なのだと教えられてきた。


だからやった。


アルディエール家へ雇われたのも、そのためだった。


毛布をもらっても。


仕事を褒められても。


食器を割した時に全ての責任を負わされなくても。


それと任務は別だと思っていた。


思おうとしていた。


今日までは。


マルタは目を閉じた。


昼間、セラフィーナの私室へ入る機会はあった。


侍女長と古参侍女が寝具を運び出した後、ほんのわずかな時間だけ、一人になった。


机の引き出しも見えた。


書棚もあった。


命令された場所はいくらでもあった。


袖の中には、この紙があった。


取り出せばよかった。


数秒で終わる。


それだけだった。


けれど、できなかった。


理由は分からない。


いや、分かりたくなかった。


机の脇に、小さな帳面が置かれていた。


救護院の備品記録だった。


表紙に、


『来月分 包帯・石鹸』


と書かれている。


その隣には、使用人の冬物寝具についての支払書。


北側の部屋へ毛布を追加した時のもの。


マルタ自身が寒いと言えなかった朝から、数日後の日付だった。


自分のためではない。


北側の全室分。


一人だけ特別扱いして、懐柔しようとした証拠ではなかった。


救護院でも同じだった。


皿を割った自分だけを庇ったのではない。


棚の異常を報告しなかった厨房係にも注意していた。


自分にも急がないよう注意した。


どちらか一方を無罪にして、どちらかへ全部押しつけたわけではない。


それが余計に困る。


もし全てが自分を騙すための親切なら、もっと簡単だった。


敵は敵。


そう決めればいい。


けれどセラフィーナは、マルタが見ていない場所でも同じように人を扱っている。


救護院のエマへ給金を払わせた時もそうだった。


働いたなら払う。


怪我をしたなら治す。


間違えたなら、その部分だけ直す。


それだけ。


だからこそ、この紙を置けば何が起きるかを、マルタは想像できてしまった。


セラフィーナは怒るだろうか。


分からない。


取り乱す姿は想像しにくかった。


だが公爵家は調査される。


アドリアンとの婚約にも傷がつく。


慈善事業まで、


ノルディア工作の隠れ蓑だったのではないか。


と疑う者が出るかもしれない。


自分が置いた偽物一枚で。


「……国のため」


小さく口にした。


誰も答えない。


その言葉は、以前よりずっと軽く聞こえた。


マルタは偽造書簡を折り直した。


燃やすことはできなかった。


命令された物を勝手に処分すれば、それはそれで報告できなくなる。


戻すこともできない。


だから、もう一度左袖の内側へ隠した。


明日考える。


そう決める。


先送りにしただけだと、自分でも分かっていた。


翌朝。


マルタはいつも通り食堂へ入った。


眠れなかったせいで身体が重い。


それでも紅茶の濃さだけは間違えなかった。


セラフィーナが一口飲む。


「美味しいわ」


「ありがとうございます」


昨日と同じ言葉。


それだけで胸が痛む。


朝食が終わった後、マルタは侍女長へ頼まれて寝具の在庫表を確認した。


北側の使用人部屋へ毛布を追加した分だけ、帳簿と実数がずれている。


以前の記録が修正されていなかったらしい。


数え直してから報告すると、昼前にセラフィーナ本人から呼ばれた。


何か知られたのかと思った。


部屋へ入った時、袖の中の紙が急に熱を持ったように感じた。


「マルタ」


「はい」


セラフィーナは帳簿を開いていた。


「毛布の数、あなたが気づいたそうね」


「はい。帳簿より北側へ出ている分が多かったので、確認いたしました」


「誰かが持ち出したわけではなかった?」


「はい。追加購入した時の記入漏れでした」


「そう」


セラフィーナは一箇所を修正する。


「よく気づいたわね。ありがとう」


マルタは何も言えなかった。


「マルタ?」


「あ……申し訳ございません。ありがとうございます」


「謝るところではないでしょう?」


柔らかく笑う。


いつもの顔だった。


疑っているようには見えない。


昨日、自分が私室で何をしようとしたのかも知らないのだろう。


少なくともマルタには、そう見えた。


「今後も数が合わなければ、そのままにせず教えてね。小さな違いのうちに直した方が楽ですもの」


「はい」


「お願いね」


「……はい」


マルタは一礼し、部屋を出た。


廊下へ出てから、しばらく歩く。


誰もいない角まで来たところで、左袖をそっと押さえた。


昨日置けなかった紙は、まだそこにある。


命令も消えていない。


ノルディアへの忠誠も、簡単になくなったわけではない。


それでも、たった一枚の薄い紙が、昨日よりずっと重く感じられた。


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