↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/38

あなたが選んだこと

マルタが二度目の命令を受け取ったのは、偽造書簡をセラフィーナの私室へ置けなかった三日後だった。


その日は午後から休暇を与えられていた。


王都西区の古書店へ入り、決められた棚から一冊の祈祷書を取る。


代金を払い、何食わぬ顔で店を出る。それだけなら、これまでと何も変わらない。


違っていたのは、祈祷書の間に挟まれていた白紙とは別に、最初から文字の書かれた小さな紙が入っていたことだった。


マルタは人目の少ない貸し部屋へ入り、扉へ鍵を掛けてから紙を開いた。


『前回の命令は未達成と確認した。理由を報告せよ。次の機会に必ず実行すること』


そこまでは予想していた。


最後に添えられていた一文だけが違った。


『お前の兄が現在働いている厩舎について、こちらは把握している』


マルタはその一文を二度読んだ。


それから、もう一度読んだ。


兄。


セラフィーナには、北へ馬を扱う仕事に出ており、春になれば王都へ戻ると話した。


半分だけ本当だった。


兄は馬を扱っている。ただし働いているのは、レグリエではなく国境を越えたノルディア側の軍用厩舎だった。


父と母もノルディアにいる。


六年前、父が勤めていた王都の染物工房が潰れ、一家で北へ仕事を求めた。


その後、レグリエ生まれで王都の習慣にも詳しいマルタへ、ノルディアの情報官が声を掛けた。


アルディエール公爵家へ入り、セラフィーナ・アルディエールについて報告する。


それが任務だった。


国のためになる。


家族のためにもなる。


働き次第では父や兄の待遇も良くできる。


そう説明された。


マルタは自分で引き受けたつもりだった。


少なくとも、その時までは。


命令書を机へ置く。


兄の厩舎を把握している。


それだけしか書いていない。


危害を加えるとも、仕事を失わせるとも書いていない。だから問い詰めれば、きっと言える。


家族の安全を確認していただけだ。


脅迫のつもりなどなかった。


そう答えられるように書かれている。


最近セラフィーナの周囲で流れた噂とよく似ている、とマルタは思った。


嘘をつかない。


本当のことだけを書く。


その意味を相手へ想像させる。


兄がその厩舎で働いていることは本当だった。


では、なぜ今その事実を書いたのか。


考えるまでもなかった。


次は失敗するな。


マルタには、そうとしか読めなかった。


左袖の内側には、三日前から偽造書簡を隠したままだった。


処分できなかった。


置くこともできなかった。


返すこともできない。


ただ持ち続けている。


一番悪い状態だと、自分でも分かっていた。


公爵邸へ戻る途中、何度も自分へ言い聞かせた。


次は置く。


家族を危険に晒すことはできない。


セラフィーナがどれだけ良い主人であっても、家族より大切なはずがない。


だから置けばいい。


たった一枚。


引き出しの奥へ入れるだけ。


数秒で終わる。


そう決めたはずだった。


翌朝。


「美味しいわ」


いつものように紅茶を一口飲んだセラフィーナが微笑んだ。


「ありがとうございます」


マルタも、いつものように答えた。


左袖の中には偽造書簡がある。


昨日より重く感じる。


朝食が終われば客間を整える。


昼前には食器棚の確認。


午後にはセラフィーナの私室へ入る予定だった。


機会は来る。


今度こそ置く。


それだけだった。


昼前、侍女長から仕事の変更を告げられた。


「マルタ。午後の私室掃除は別の者と替わってちょうだい。南棟で一人、熱を出した者がいるの。あなたにはそちらの配膳補助をお願いします」


「私室へは……行かなくてよろしいのですか?」


言ってから、自分の声が少し早かったことに気づいた。


侍女長が怪訝そうに見る。


「ええ。何か困る?」


「いいえ。申し訳ございません」


「謝ることではないでしょう。三十八度近いそうだから、部屋へ入る時は口布をして。使った食器も別にしてくださいね」


「承知いたしました」


疑われたわけではない。


ただの仕事変更だった。


それなのに、胸を撫で下ろした自分がいた。


私室へ入れなくて安心した。


命令を実行できなくて、安心した。


その事実だけは、もう誤魔化せなかった。


熱を出した若いメイドは、幸い重い病気ではなかった。


医師は数日休めば治ると言った。


侍女長が翌日の人員不足を心配すると、セラフィーナは予定表を確認した。


「明日は使う予定のない客間を二つ閉めましょう。掃除を一日延ばしたところで誰も困りませんもの」


「ほかの者へ振り分けなくてよろしいのですか?」


「急がない仕事でしょう?」


「承知いたしました」


病人を無理に働かせない。


残った使用人へ全部押しつけることもしない。


仕事そのものを減らす。


マルタは少し離れた場所から、そのやり取りを聞いていた。


自分だけではない。


何度見ても同じだった。


寒ければ毛布を増やす。


棚が壊れていれば直す。


働いた者には給金を払う。


病人が出れば休ませる。


誰か一人だけを選んで優しくしているわけではない。


むしろ、自分が特別ではないことが苦しかった。


もしセラフィーナの親切が、間諜である自分を懐柔するためだけのものなら。


全部演技だったのだと決められる。


敵だったと思える。


そうすれば、紙を置くことも少しは楽になる。


けれどセラフィーナは、マルタのいない場所でも同じように振る舞っている。


それは偶然ではなかった。


セラフィーナにとって、病人を働かせて悪化させるより、不要な仕事を一日止める方が安い。


一人の失敗へ不必要な罰を与え、使用人全体を萎縮させるより、原因と責任を分けた方が次の報告も早くなる。


適切に働いた者へ正しい評価を返す方が、人は長く働く。


だからそうしている。


善意がないわけではない。


ただ、善意だけで組織を動かすほど、セラフィーナは曖昧ではなかった。


そして、その運用を毎日見ていた間諜が何を感じるかについても、彼女は決して無関心ではなかった。


間諜一人を特別扱いして懐柔するより、屋敷全体をまともに扱った方が安い。


その結果として、監視対象を傷つける命令が少し実行しづらくなったのなら、それは悪い副作用ではなかった。


その日の夜。


三度目の連絡が来た。


仕事を終え、使用人用の裏門へ向かっていた時だった。


通りで一人の少年がぶつかってくる。


「すみません!」


少年は謝り、そのまま走り去った。


足元へ小さな紙片が落ちている。


拾った。


表には一言だけ。


『明日まで』


裏返す。


兄が勤めている厩舎の名前が書かれていた。


マルタはその場から動けなくなった。


人々は普通に横を通り過ぎていく。


誰もこちらを見ていない。


紙片を握る。


怖かった。


任務に失敗することではない。


自分が罰せられることでもない。


自分のせいで兄に何か起きるかもしれないことが、どうしようもなく怖かった。


そして、同時に分かった。


自分にはもう、選択肢が残されていない。


国のために働く。


家族のために働く。


最初は自分で選んだつもりだった。


けれど一度入った後は違う。


続ける以外の道を選ぼうとすれば、家族の名前が出てくる。


それを選択とは呼べないのではないか。


マルタは紙片を制服のポケットへ押し込んだ。


アルディエール公爵邸へ戻った。


門番がいつも通り、


「お帰り」


と声を掛けてくる。


厨房へ顔を出せば、料理人が余った焼き菓子を一つくれた。


使用人食堂では、同室のメイドが夕食の席を取っておいてくれた。


何も変わらない。


変わったのは、自分だった。


食事を終えても、自室へ戻れなかった。


足が主人一家の居室へ向かう階段へ進む。


途中で古参侍女に止められた。


「マルタ?こんな時間にどうしたの」


「あの……セラフィーナ様に、お話ししたいことがあります」


「今から?」


「お願いします」


声が震えた。


侍女はマルタの顔をしばらく見た。


それから何も聞かず、


「ここで待っていて」


と言った。


数分後。


セラフィーナの私室へ通された。


机の上には読みかけの本がある。


セラフィーナは栞を挟んでから本を閉じた。


少し離れたところには侍女長もいる。


「どうしたの?」


いつも通りの声だった。


マルタは扉の前から動けなかった。


ここで言えば、全部終わる。


アルディエール家での仕事も。


ノルディアでの立場も。


もしかすれば、家族の安全まで。


それでも、もう戻れなかった。


「セラフィーナ様」


「ええ」


「私は……」


喉が詰まる。


一度息を吸った。


「私は、ノルディアの間諜です」


侍女長が息を呑んだ。


セラフィーナだけは、ほとんど表情を変えなかった。


「ええ」


マルタは顔を上げた。


今、聞き間違えたのだと思った。


「……え?」


「知っていますわ」


頭の中が真っ白になった。


「ご存じ……だった?」


「かなり早い段階から、そうではないかと疑っていました」


「いつからですか」


「あなたがこちらへ来て、間もなく」


あの朝。


濃すぎる紅茶を淹れた朝。


毛布を増やしてもらった朝。


その頃から。


足から力が抜けそうになる。


セラフィーナは、マルタが今夜ここへ来ることまでは知らなかった。


告白するか。


命令を実行するか。


逃げるか。


何もせず抱え込み続けるか。


可能性はいくつもあった。


だから捕らえなかった。


疑った時点で排除すれば、一人の間諜は消せる。


その代わり、ノルディアは別の人間を送る。


次に来る人間が見つけられる保証はない。


それなら、存在を疑えている間諜へ機密だけを触らせず、どこへ目を向けるかを見ている方が扱いやすい。


毛布を入れた理由とは別の話だった。


マルタを公平に扱ったことも本当。


マルタを情報経路として残したことも本当。


セラフィーナの中では、二つは何の矛盾もなく並んでいる。


「では……全部、ご存じで」


「全部ではありませんわ」


セラフィーナは静かに訂正した。


「あなたが誰と連絡しているのかも、どのような命令を受けているのかも知りません。今夜ここへ来ることも知りませんでした」


「でも、私が間諜だということは」


「可能性は高いと思っていました」


どうして捕らえなかったのか。


どうして追い出さなかったのか。


聞きたい。


けれど、その前に別の言葉が口から出た。


「では……毛布も?」


セラフィーナが少し首を傾けた。


「毛布?」


「最初の日に、北側の部屋全部へ入れてくださったでしょう」


「ええ」


「救護院へ連れて行ってくださったことも。皿を割った時に、私一人の責任にしなかったことも。仕事を褒めてくださったことも」


声が震える。


「全部、私が間諜だからだったんですか」


侍女長がセラフィーナを見る。


セラフィーナはすぐには答えなかった。


マルタの顔を見る。


この問いには、少しだけ興味があった。


マルタは、自分が受け取った厚意が偽物であれば楽だったと言っている。


人は、自分が裏切った相手も悪かったと思えれば、ずいぶん簡単に自分を許せる。


しかし、その逃げ道を用意してやる必要はない。


事実は事実のままでいい。


「マルタ。あなたが間諜でなかったなら、わたくしは寒い部屋へ毛布を入れなかったと思う?」


「……いいえ」


答えはすぐに出た。


マルタ自身が、この屋敷で見てきたから。


「棚の金具が壊れていたのに、あなた一人へ皿の代金を払わせたと思う?」


「いいえ」


「救護院で荷物の数をきちんと確認した時、あなたが間諜でなければ褒めなかった?」


「……いいえ」


涙が滲んだ。


セラフィーナは何も否定しない。


何も飾らない。


ただ、事実だけを並べている。


「では、それでよろしいのではなくて?」


マルタの唇が震えた。


「でも……」


「あなたが間諜だったことと、あなたの仕事が良かったことは、どちらも本当でしょう?」


一粒、涙が落ちた。


「どちらか一方が本当なら、もう一方まで嘘になるわけではありませんわ」


それは慰めであると同時に、切り分けでもあった。


間諜であることは消さない。


功績も消さない。


セラフィーナは人間一人を、善人か悪人かの一列へ押し込める気がない。


使えるものは使える。


危険なものは危険。


良い仕事をしたなら評価する。


裏切ったなら、その事実も記録する。


その方が人間を扱いやすい。


侍女長が無言で布を差し出した。


「ありがとうございます……」


マルタは受け取って目元を押さえる。


それでも涙は止まらなかった。


「私……」


言葉が続かない。


セラフィーナは急かさなかった。


急かして得る告白に価値はない。


本人が何を言うかを待った方が、ずっと多くのことが分かる。


「全部、嘘だったらよかったのに」


やっと出た言葉だった。


侍女長の表情が変わる。


セラフィーナはただ尋ねた。


「どうして?」


「私を騙すために優しくしていただけだったなら、私は……セラフィーナ様も同じだって思えました」


声が崩れる。


「私を使うためだけだったって思えたら、あの紙を置けたかもしれない」


マルタは左袖へ手を入れた。


偽造書簡を取り出す。


次に、ノルディアからの命令書。


最後に、兄の厩舎名が書かれた紙片。


三枚を机の上へ置いた。


「これを、セラフィーナ様のお部屋へ隠せと言われました」


侍女長の顔色が変わった。


セラフィーナは最初に偽造書簡を取った。


一度読む。


ノルディアとの内通を示す内容。


南部三港の情報提供への礼。


アドリアンの予定を引き続き知らせてほしいという依頼。


公爵家から協力を得ているという文言。


これまで実際に起きた出来事を材料にしている。


公開資料を見せたこと。


王太子の予定が外から見える日もあること。


それらを、秘密裏の内通へ意味だけ変える文書だった。


よくできている。


セラフィーナは素直にそう評価した。


粗雑な偽物なら処理も簡単だった。


本物の出来事を並べ、その間へ一つだけ虚偽の意味を通す。


見つかった場所まで自分の私室なら、疑惑を成立させるには十分だろう。


少し面白かった。


ノルディアは、自分を追い落とすためにそれなりの人材を使っている。


敵が愚かであるより、その方が良い。


勝つ価値がある。


「これを置くように言われたのね」


「はい」


「置いた?」


「いいえ」


「一度も?」


「……一度、持って私室へ入りました」


侍女長がマルタを見る。


マルタは逃げなかった。


「でも、置けませんでした」


「そう」


セラフィーナはそれ以上責めなかった。


責める必要がない。


置かなかった。


今、持ってきた。


その二つの方が、謝罪の回数よりずっと価値がある。


次に命令書を見る。


兄の厩舎についての文面へ視線が止まる。


ここでセラフィーナの評価が一つ変わった。


なるほど。


マルタが命令を実行しなかったことは、向こうも把握している。


そして次に選んだ手段が、家族。


忠誠が弱まった相手を、より強い拘束で縛り直した。


分かりやすい。


そして、少し安い。


恐怖による忠誠は、恐怖が続く間しか保たない。


出口が見えれば、人は縛った側から逃げる。


ノルディアは、自分たちの手でマルタへ出口を探させたことになる。


その出口が今、この机の前まで歩いてきた。


セラフィーナはその皮肉を、少しだけ愉快だと思った。


「これは、どういう意味だと受け取ったの?」


「次も失敗したら、兄に何かするかもしれない、と」


「そう書いてある?」


「いいえ」


「では、あなたがそう受け取ったのね」


「はい」


セラフィーナは紙を置いた。


「なら、その受け取り方まで含めて記録しておきましょう」


「……信じてくださるのですか」


「何を?」


「これが脅迫だったと」


セラフィーナは少し考えた。


「相手が本当に危害を加えるつもりだったかは分かりません。でも、失敗したあなたへ、ご家族の居場所をわざわざ知らせたことは事実でしょう?」


「はい」


「それを怖いと感じたことも事実です」


脅迫罪に当たるかどうかは、後で必要な者が判断すればいい。


セラフィーナが今知りたいのは別だった。


ノルディアは、マルタが一度命令へ従わなかった時、家族の所在を示すことで圧力を強めた。


それがマルタにどう作用したか。


実際に彼女をこの部屋へ来させた。


そこまでが観測できれば、情報としては十分価値がある。


マルタはまた涙を落とした。


セラフィーナは、そこで話を止めなかった。


「それから、もう一つ事実がありますわね」


「何でしょう」


「あなたは、その紙を置かなかった」


マルタの目が揺れる。


「でも、それは命令に背いたということで」


「それはノルディアから見たお話でしょう?」


静かな声だった。


「わたくしから見れば、あなたはわたくしを陥れるための偽物を置かなかった。それだけですわ」


胸の奥で、何かが切れた。


マルタはとうとう顔を覆った。


声を殺そうとしても、肩が震える。


「ごめんなさい……」


「何について謝っているの?」


「だって、私は最初から、あなたを騙して」


「それも本当ですわね」


優しい否定はしなかった。


だから余計に涙が出た。


セラフィーナにとっても、そこで曖昧に許す理由はない。


騙していた事実を消せば、次にマルタをどう扱うか判断できなくなる。


罪悪感を軽くするためだけの言葉は、管理上の情報を壊す。


そんなものに価値はなかった。


「でも、今日ここへ来たことも本当でしょう?」


マルタは布越しに頷いた。


「誰かに命じられて来たの?」


「……いいえ」


「ノルディアの許可をいただいた?」


首を振る。


「では、あなたが決めたのね」


その一言が、一番深く刺さった。


自分が決めた。


何日も迷った。


怖かった。


逃げたかった。


紙も捨てられなかった。


それでも最後にこの部屋へ来ると決めたのは、自分だった。


誰にも命じられていない。


セラフィーナも、それを最も重く見た。


命令された忠誠より、自分で選んだ不服従の方が価値がある。


恐怖でこちらへ寝返らせても、より大きな恐怖が現れればまた動く。


金で買えば、より高い金額に負ける。


しかし、逃げ道があることを知った上で残ると本人が決めたなら、その選択は少し壊れにくくなる。


絶対ではない。


だから確認は続ける。


それでも、十分使う価値はある。


「マルタ」


「はい……」


「ノルディアを嫌いになる必要はありませんわ」


顔を上げる。


「え?」


「あなたのご家族が暮らしているのでしょう?」


「はい」


「子供の頃の思い出もある?」


「……あります」


「でしたら、故郷を大切に思うことと、誰かを陥れるために偽物を置くことは、別の話ではなくて?」


マルタは何も言えなかった。


国を裏切った。


そう思っていた。


ノルディアの命令へ従わないなら、ノルディアそのものを捨てなければならないような気がしていた。


けれどセラフィーナは、それすら求めなかった。


「わたくしの側へ来るために、故郷を憎めとは申しませんわ」


また涙が溢れた。


綺麗な言葉だった。


けれど、一つも嘘ではない。


そして、綺麗だから言ったわけでもなかった。


故郷を憎ませて得る忠誠など、セラフィーナには魅力がない。


憎悪は方向を変える。


今日ノルディアへ向けたものが、明日はこちらへ向かうかもしれない。


何より、自分へ仕える条件として過去まで否定させれば、マルタ自身の意思ではなくなる。


本人の選択を奪って従わせるだけなら、ノルディアが今やっていることと大差がない。


同じ手段で取り合うほど、セラフィーナはマルタ一人を安く見てはいなかった。


ノルディアを大切に思ったまま。


家族を愛したまま。


それでも自分を害する命令だけは拒み、自分でこちらへ残る。


その方が、ずっと価値がある。


「私は……どうしたら」


「それは、わたくしが決めることではありませんわ」


マルタが泣いたまま見つめる。


「ノルディアへ帰りたいなら、安全に帰る方法があるか調べます。ただし王家への報告が必要になる可能性はあります」


セラフィーナは指を一つ折る。


「こちらへ残りたくないけれど、ノルディアにも帰りたくないのでしたら、事情を知った上で雇える場所を探します」


もう一つ。


「ここで働きたいのでしたら、それも選べます」


「……ここに?」


「ええ。ただし、何もなかったことにはいたしません」


声は穏やかなまま。


「連絡方法は全て教えていただきます。しばらく機密には触れられません。外出も事前に報告していただきます。信用は、これから作り直してくださいな」


三つの選択肢は、三つとも本当に実行できなければ意味がない。


帰ると言えば帰す。


別の仕事を望めば探す。


ここへ残るなら制限付きで置く。


最初から一つしか選ばせる気がないのに複数の道を見せるのは、選択ではなく誘導の出来損ないだった。


いずれ気づかれれば信用も死ぬ。


本物の出口があるからこそ、残るという選択の価値が上がる。


セラフィーナはそれを知っている。


「ご家族については?」


一番怖いところを聞く。


「調べます」


「私がここに残るなら?」


「いいえ」


マルタが瞬きをした。


「あなたがどこで働くかと、ご家族の安全を確認することは別に考えますわ」


「でも」


「ここへ残ることを条件にご家族のことを調べるのでしたら、結局わたくしも、あなたへ選択肢を一つしか残していないでしょう?」


マルタの顔が歪んだ。


今度こそ、声を上げて泣いた。


セラフィーナは静かにそれを見る。


家族を条件に忠誠を買うつもりはなかった。


良心からだけではない。


人質で得た忠誠など、本人が人質を取り返した瞬間に消える。


しかも、つい先ほどノルディアが家族を使って失敗したばかりだった。


同じ首輪を今度は自分が付け直すなど、あまりにも芸がない。


ノルディアから届いた紙には兄の居場所が書かれていた。


失敗するな。


そう読ませるために。


セラフィーナは逆だった。


残らなくてもいい。


それでも家族の件は別に見る。


逃げ道を消すのではなく、本物の逃げ道を増やす。


だからこそ、残った時には言い訳が一つ減る。


怖かったから。


逃げられなかったから。


家族を人質に取られたから。


そうは言えなくなる。


最後に残るのは、


自分で選んだ。


という事実だけだった。


「お側に置いてください」


涙で声が震える。


「お願いします。私は、ここで働きたいです」


セラフィーナはすぐには頷かなかった。


「怖いからではなく?」


マルタは考えた。


怖い。


ノルディアも。


兄のことも。


これから何が起こるのかも。


それでも、怖いだけなら別の場所へ逃げればいい。


今、セラフィーナはそれも認めた。


だから答えは一つだった。


「ここがいいんです」


息を整える。


「セラフィーナ様のところで働きたいです」


セラフィーナはしばらくマルタを見ていた。


予想していた答えの一つだった。


そして三つの中では、最も都合がいい。


屋敷の中で働ける侍女。


ノルディアが今も自国の人間だと思っている情報員。


敵が何を知りたがっているのかを、向こうから教えてくれる窓。


しかも今回は、こちらから寝返れと命じていない。


家族を盾にしてもいない。


金を積んでもいない。


本人が歩いてきた。


使いやすい。


セラフィーナは、その事実を素直に評価した。


だからといって、信用する理由にはならない。


そこを混同するほど甘くもない。


侍女長へ目を向ける。


「どう思う?」


侍女長は難しい顔をした。


「腹は立っております」


マルタは俯く。


「ですが、自分から申し出たことは評価してもよいと思います。ただし、当面は私かエルンストの監督下で働かせます。お嬢様の私室へ一人では入れません」


「妥当ですわね」


セラフィーナがマルタを見る。


「それでよろしい?」


「はい」


「では、残ってくださいな」


マルタはまた泣きそうになった。


今度は必死に堪える。


「ありがとうございます」


「まだお礼を言うには早いですわよ。これから信用を作っていただくのですから」


「はい」


「それと、今すぐあなたを信じますとも申しません」


「はい」


不思議だった。


それなのに安心した。


口先だけで、


全部信じています。


許します。


と言われるより、ずっと。


セラフィーナも、そんな言葉を使うつもりはなかった。


昨日まで敵国へ報告していた人間を、一度泣いて告白しただけで全面的に信用する方がおかしい。


信頼は褒美ではない。


確認を省く理由でもない。


使えるから残す。


本人がこちらを選んだから、その選択は尊重する。


危険が残っているから、権限は絞る。


三つとも同時に成立する。


「でも」


セラフィーナは机の上の三枚の紙を見る。


「今日あなたがここへ来たことは、覚えておきますわ」


マルタはとうとう笑った。


泣きながら。


その夜。


偽造書簡と命令書は、アルディエール家の金庫へ収められた。


マルタは知っている限りの連絡方法を書き出した。


西区の古書店。


祈祷書。


通信薬剤。


街路で接触する少年。


ただし、知っていることは少ない。


命令を出している人物の名前は知らない。


組織全体の仕組みも知らない。


家族が本当に監視されているのかも分からない。


セラフィーナは、分からないことを無理に埋めさせなかった。


「思い出したことだけ書いてくださいな。想像は別の欄へ」


「想像も書くのですか?」


「ええ。ただし事実と混ぜないように」


「分かりました」


情報量が多いことより、事実と推測が混ざらないことの方が価値がある。


マルタが末端なら、上層の計画を知らないのは当然だった。


知らない部分を無理に推測させれば、欲しかった答えに似た嘘が出来上がる。


そんなものはいらない。


当面、ノルディアとの接触へ勝手に応じないこと。


接触があれば日時と内容を記録すること。


急に行動を変え、相手へ寝返りを知らせないこと。


決めたのはその程度だった。


最初から大量の偽情報を流すこともしない。


生きている情報経路へ、こちらに都合のいい嘘ばかり詰めれば、いずれ矛盾が出る。


一度疑われれば経路そのものが死ぬ。


今は、ノルディアがマルタへ何を質問するのか。


何を命じるのか。


どんな時に圧力を強めるのか。


それを見られるだけでも十分だった。


家族についても、まず本当にどこで暮らしているのかを確認する。


全てを一晩で解決する必要はない。


必要なものから、一つずつでいい。


部屋を出る前。


マルタが足を止めた。


「セラフィーナ様」


「何かしら?」


「明日の朝は……」


最後まで言えない。


セラフィーナは少し考えた後、何でもないことのように答えた。


「紅茶をお願いね」


「私が淹れてよろしいのですか?」


「機密書類は預けませんけれど、紅茶はあなたの方が上手ですもの」


マルタは目を見開いた。


それから、今日何度目か分からない涙を落としながら笑った。


「はい」


翌朝。


カップへ注がれた紅茶は、いつも通りの濃さだった。


セラフィーナが一口飲む。


「美味しいわ」


「ありがとうございます」


同じやり取り。


セラフィーナはカップを置きながら、目の前の侍女を見る。


間諜だった事実は消えていない。


昨日一晩で忠臣へ変わったとも思っていない。


連絡経路も確認する。


機密への制限も残す。


家族を使われれば、また揺れる可能性もある。


だから管理する。


けれどノルディアは、命令へ従わせるために家族の名を出した。


その結果、マルタは自分の足でここへ来た。


脅しを強くして、手元の情報員をこちらへ押し出した。


本人たちは、そのことをまだ知らない。


セラフィーナの唇が、紅茶の陰でほんの少しだけ緩んだ。


随分と親切なことをしてくださる。


口には出さなかった。


マルタには関係のない話だったから。


マルタにとっては、昨日までとは全く違う朝だった。


自分は間諜だった。


それは消えない。


セラフィーナを騙していた。


それも消えない。


それでも紅茶を上手に淹れてきたことも。


救護院で数を正しく確認したことも。


偽の手紙を置かなかったことも。


最後に自分から告白したことも。


同じように消えない。


どれか一つだけが本当なのではなかった。


全部、自分がしてきたことだった。


マルタは左袖へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。


そこにはもう何も隠していない。


確かめる必要もなかった。


今日は、自分でここに立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。