あなたが選んだこと
マルタが二度目の命令を受け取ったのは、偽造書簡をセラフィーナの私室へ置けなかった三日後だった。
その日は午後から休暇を与えられていた。
王都西区の古書店へ入り、決められた棚から一冊の祈祷書を取る。
代金を払い、何食わぬ顔で店を出る。それだけなら、これまでと何も変わらない。
違っていたのは、祈祷書の間に挟まれていた白紙とは別に、最初から文字の書かれた小さな紙が入っていたことだった。
マルタは人目の少ない貸し部屋へ入り、扉へ鍵を掛けてから紙を開いた。
『前回の命令は未達成と確認した。理由を報告せよ。次の機会に必ず実行すること』
そこまでは予想していた。
最後に添えられていた一文だけが違った。
『お前の兄が現在働いている厩舎について、こちらは把握している』
マルタはその一文を二度読んだ。
それから、もう一度読んだ。
兄。
セラフィーナには、北へ馬を扱う仕事に出ており、春になれば王都へ戻ると話した。
半分だけ本当だった。
兄は馬を扱っている。ただし働いているのは、レグリエではなく国境を越えたノルディア側の軍用厩舎だった。
父と母もノルディアにいる。
六年前、父が勤めていた王都の染物工房が潰れ、一家で北へ仕事を求めた。
その後、レグリエ生まれで王都の習慣にも詳しいマルタへ、ノルディアの情報官が声を掛けた。
アルディエール公爵家へ入り、セラフィーナ・アルディエールについて報告する。
それが任務だった。
国のためになる。
家族のためにもなる。
働き次第では父や兄の待遇も良くできる。
そう説明された。
マルタは自分で引き受けたつもりだった。
少なくとも、その時までは。
命令書を机へ置く。
兄の厩舎を把握している。
それだけしか書いていない。
危害を加えるとも、仕事を失わせるとも書いていない。だから問い詰めれば、きっと言える。
家族の安全を確認していただけだ。
脅迫のつもりなどなかった。
そう答えられるように書かれている。
最近セラフィーナの周囲で流れた噂とよく似ている、とマルタは思った。
嘘をつかない。
本当のことだけを書く。
その意味を相手へ想像させる。
兄がその厩舎で働いていることは本当だった。
では、なぜ今その事実を書いたのか。
考えるまでもなかった。
次は失敗するな。
マルタには、そうとしか読めなかった。
左袖の内側には、三日前から偽造書簡を隠したままだった。
処分できなかった。
置くこともできなかった。
返すこともできない。
ただ持ち続けている。
一番悪い状態だと、自分でも分かっていた。
公爵邸へ戻る途中、何度も自分へ言い聞かせた。
次は置く。
家族を危険に晒すことはできない。
セラフィーナがどれだけ良い主人であっても、家族より大切なはずがない。
だから置けばいい。
たった一枚。
引き出しの奥へ入れるだけ。
数秒で終わる。
そう決めたはずだった。
翌朝。
「美味しいわ」
いつものように紅茶を一口飲んだセラフィーナが微笑んだ。
「ありがとうございます」
マルタも、いつものように答えた。
左袖の中には偽造書簡がある。
昨日より重く感じる。
朝食が終われば客間を整える。
昼前には食器棚の確認。
午後にはセラフィーナの私室へ入る予定だった。
機会は来る。
今度こそ置く。
それだけだった。
昼前、侍女長から仕事の変更を告げられた。
「マルタ。午後の私室掃除は別の者と替わってちょうだい。南棟で一人、熱を出した者がいるの。あなたにはそちらの配膳補助をお願いします」
「私室へは……行かなくてよろしいのですか?」
言ってから、自分の声が少し早かったことに気づいた。
侍女長が怪訝そうに見る。
「ええ。何か困る?」
「いいえ。申し訳ございません」
「謝ることではないでしょう。三十八度近いそうだから、部屋へ入る時は口布をして。使った食器も別にしてくださいね」
「承知いたしました」
疑われたわけではない。
ただの仕事変更だった。
それなのに、胸を撫で下ろした自分がいた。
私室へ入れなくて安心した。
命令を実行できなくて、安心した。
その事実だけは、もう誤魔化せなかった。
熱を出した若いメイドは、幸い重い病気ではなかった。
医師は数日休めば治ると言った。
侍女長が翌日の人員不足を心配すると、セラフィーナは予定表を確認した。
「明日は使う予定のない客間を二つ閉めましょう。掃除を一日延ばしたところで誰も困りませんもの」
「ほかの者へ振り分けなくてよろしいのですか?」
「急がない仕事でしょう?」
「承知いたしました」
病人を無理に働かせない。
残った使用人へ全部押しつけることもしない。
仕事そのものを減らす。
マルタは少し離れた場所から、そのやり取りを聞いていた。
自分だけではない。
何度見ても同じだった。
寒ければ毛布を増やす。
棚が壊れていれば直す。
働いた者には給金を払う。
病人が出れば休ませる。
誰か一人だけを選んで優しくしているわけではない。
むしろ、自分が特別ではないことが苦しかった。
もしセラフィーナの親切が、間諜である自分を懐柔するためだけのものなら。
全部演技だったのだと決められる。
敵だったと思える。
そうすれば、紙を置くことも少しは楽になる。
けれどセラフィーナは、マルタのいない場所でも同じように振る舞っている。
それは偶然ではなかった。
セラフィーナにとって、病人を働かせて悪化させるより、不要な仕事を一日止める方が安い。
一人の失敗へ不必要な罰を与え、使用人全体を萎縮させるより、原因と責任を分けた方が次の報告も早くなる。
適切に働いた者へ正しい評価を返す方が、人は長く働く。
だからそうしている。
善意がないわけではない。
ただ、善意だけで組織を動かすほど、セラフィーナは曖昧ではなかった。
そして、その運用を毎日見ていた間諜が何を感じるかについても、彼女は決して無関心ではなかった。
間諜一人を特別扱いして懐柔するより、屋敷全体をまともに扱った方が安い。
その結果として、監視対象を傷つける命令が少し実行しづらくなったのなら、それは悪い副作用ではなかった。
その日の夜。
三度目の連絡が来た。
仕事を終え、使用人用の裏門へ向かっていた時だった。
通りで一人の少年がぶつかってくる。
「すみません!」
少年は謝り、そのまま走り去った。
足元へ小さな紙片が落ちている。
拾った。
表には一言だけ。
『明日まで』
裏返す。
兄が勤めている厩舎の名前が書かれていた。
マルタはその場から動けなくなった。
人々は普通に横を通り過ぎていく。
誰もこちらを見ていない。
紙片を握る。
怖かった。
任務に失敗することではない。
自分が罰せられることでもない。
自分のせいで兄に何か起きるかもしれないことが、どうしようもなく怖かった。
そして、同時に分かった。
自分にはもう、選択肢が残されていない。
国のために働く。
家族のために働く。
最初は自分で選んだつもりだった。
けれど一度入った後は違う。
続ける以外の道を選ぼうとすれば、家族の名前が出てくる。
それを選択とは呼べないのではないか。
マルタは紙片を制服のポケットへ押し込んだ。
アルディエール公爵邸へ戻った。
門番がいつも通り、
「お帰り」
と声を掛けてくる。
厨房へ顔を出せば、料理人が余った焼き菓子を一つくれた。
使用人食堂では、同室のメイドが夕食の席を取っておいてくれた。
何も変わらない。
変わったのは、自分だった。
食事を終えても、自室へ戻れなかった。
足が主人一家の居室へ向かう階段へ進む。
途中で古参侍女に止められた。
「マルタ?こんな時間にどうしたの」
「あの……セラフィーナ様に、お話ししたいことがあります」
「今から?」
「お願いします」
声が震えた。
侍女はマルタの顔をしばらく見た。
それから何も聞かず、
「ここで待っていて」
と言った。
数分後。
セラフィーナの私室へ通された。
机の上には読みかけの本がある。
セラフィーナは栞を挟んでから本を閉じた。
少し離れたところには侍女長もいる。
「どうしたの?」
いつも通りの声だった。
マルタは扉の前から動けなかった。
ここで言えば、全部終わる。
アルディエール家での仕事も。
ノルディアでの立場も。
もしかすれば、家族の安全まで。
それでも、もう戻れなかった。
「セラフィーナ様」
「ええ」
「私は……」
喉が詰まる。
一度息を吸った。
「私は、ノルディアの間諜です」
侍女長が息を呑んだ。
セラフィーナだけは、ほとんど表情を変えなかった。
「ええ」
マルタは顔を上げた。
今、聞き間違えたのだと思った。
「……え?」
「知っていますわ」
頭の中が真っ白になった。
「ご存じ……だった?」
「かなり早い段階から、そうではないかと疑っていました」
「いつからですか」
「あなたがこちらへ来て、間もなく」
あの朝。
濃すぎる紅茶を淹れた朝。
毛布を増やしてもらった朝。
その頃から。
足から力が抜けそうになる。
セラフィーナは、マルタが今夜ここへ来ることまでは知らなかった。
告白するか。
命令を実行するか。
逃げるか。
何もせず抱え込み続けるか。
可能性はいくつもあった。
だから捕らえなかった。
疑った時点で排除すれば、一人の間諜は消せる。
その代わり、ノルディアは別の人間を送る。
次に来る人間が見つけられる保証はない。
それなら、存在を疑えている間諜へ機密だけを触らせず、どこへ目を向けるかを見ている方が扱いやすい。
毛布を入れた理由とは別の話だった。
マルタを公平に扱ったことも本当。
マルタを情報経路として残したことも本当。
セラフィーナの中では、二つは何の矛盾もなく並んでいる。
「では……全部、ご存じで」
「全部ではありませんわ」
セラフィーナは静かに訂正した。
「あなたが誰と連絡しているのかも、どのような命令を受けているのかも知りません。今夜ここへ来ることも知りませんでした」
「でも、私が間諜だということは」
「可能性は高いと思っていました」
どうして捕らえなかったのか。
どうして追い出さなかったのか。
聞きたい。
けれど、その前に別の言葉が口から出た。
「では……毛布も?」
セラフィーナが少し首を傾けた。
「毛布?」
「最初の日に、北側の部屋全部へ入れてくださったでしょう」
「ええ」
「救護院へ連れて行ってくださったことも。皿を割った時に、私一人の責任にしなかったことも。仕事を褒めてくださったことも」
声が震える。
「全部、私が間諜だからだったんですか」
侍女長がセラフィーナを見る。
セラフィーナはすぐには答えなかった。
マルタの顔を見る。
この問いには、少しだけ興味があった。
マルタは、自分が受け取った厚意が偽物であれば楽だったと言っている。
人は、自分が裏切った相手も悪かったと思えれば、ずいぶん簡単に自分を許せる。
しかし、その逃げ道を用意してやる必要はない。
事実は事実のままでいい。
「マルタ。あなたが間諜でなかったなら、わたくしは寒い部屋へ毛布を入れなかったと思う?」
「……いいえ」
答えはすぐに出た。
マルタ自身が、この屋敷で見てきたから。
「棚の金具が壊れていたのに、あなた一人へ皿の代金を払わせたと思う?」
「いいえ」
「救護院で荷物の数をきちんと確認した時、あなたが間諜でなければ褒めなかった?」
「……いいえ」
涙が滲んだ。
セラフィーナは何も否定しない。
何も飾らない。
ただ、事実だけを並べている。
「では、それでよろしいのではなくて?」
マルタの唇が震えた。
「でも……」
「あなたが間諜だったことと、あなたの仕事が良かったことは、どちらも本当でしょう?」
一粒、涙が落ちた。
「どちらか一方が本当なら、もう一方まで嘘になるわけではありませんわ」
それは慰めであると同時に、切り分けでもあった。
間諜であることは消さない。
功績も消さない。
セラフィーナは人間一人を、善人か悪人かの一列へ押し込める気がない。
使えるものは使える。
危険なものは危険。
良い仕事をしたなら評価する。
裏切ったなら、その事実も記録する。
その方が人間を扱いやすい。
侍女長が無言で布を差し出した。
「ありがとうございます……」
マルタは受け取って目元を押さえる。
それでも涙は止まらなかった。
「私……」
言葉が続かない。
セラフィーナは急かさなかった。
急かして得る告白に価値はない。
本人が何を言うかを待った方が、ずっと多くのことが分かる。
「全部、嘘だったらよかったのに」
やっと出た言葉だった。
侍女長の表情が変わる。
セラフィーナはただ尋ねた。
「どうして?」
「私を騙すために優しくしていただけだったなら、私は……セラフィーナ様も同じだって思えました」
声が崩れる。
「私を使うためだけだったって思えたら、あの紙を置けたかもしれない」
マルタは左袖へ手を入れた。
偽造書簡を取り出す。
次に、ノルディアからの命令書。
最後に、兄の厩舎名が書かれた紙片。
三枚を机の上へ置いた。
「これを、セラフィーナ様のお部屋へ隠せと言われました」
侍女長の顔色が変わった。
セラフィーナは最初に偽造書簡を取った。
一度読む。
ノルディアとの内通を示す内容。
南部三港の情報提供への礼。
アドリアンの予定を引き続き知らせてほしいという依頼。
公爵家から協力を得ているという文言。
これまで実際に起きた出来事を材料にしている。
公開資料を見せたこと。
王太子の予定が外から見える日もあること。
それらを、秘密裏の内通へ意味だけ変える文書だった。
よくできている。
セラフィーナは素直にそう評価した。
粗雑な偽物なら処理も簡単だった。
本物の出来事を並べ、その間へ一つだけ虚偽の意味を通す。
見つかった場所まで自分の私室なら、疑惑を成立させるには十分だろう。
少し面白かった。
ノルディアは、自分を追い落とすためにそれなりの人材を使っている。
敵が愚かであるより、その方が良い。
勝つ価値がある。
「これを置くように言われたのね」
「はい」
「置いた?」
「いいえ」
「一度も?」
「……一度、持って私室へ入りました」
侍女長がマルタを見る。
マルタは逃げなかった。
「でも、置けませんでした」
「そう」
セラフィーナはそれ以上責めなかった。
責める必要がない。
置かなかった。
今、持ってきた。
その二つの方が、謝罪の回数よりずっと価値がある。
次に命令書を見る。
兄の厩舎についての文面へ視線が止まる。
ここでセラフィーナの評価が一つ変わった。
なるほど。
マルタが命令を実行しなかったことは、向こうも把握している。
そして次に選んだ手段が、家族。
忠誠が弱まった相手を、より強い拘束で縛り直した。
分かりやすい。
そして、少し安い。
恐怖による忠誠は、恐怖が続く間しか保たない。
出口が見えれば、人は縛った側から逃げる。
ノルディアは、自分たちの手でマルタへ出口を探させたことになる。
その出口が今、この机の前まで歩いてきた。
セラフィーナはその皮肉を、少しだけ愉快だと思った。
「これは、どういう意味だと受け取ったの?」
「次も失敗したら、兄に何かするかもしれない、と」
「そう書いてある?」
「いいえ」
「では、あなたがそう受け取ったのね」
「はい」
セラフィーナは紙を置いた。
「なら、その受け取り方まで含めて記録しておきましょう」
「……信じてくださるのですか」
「何を?」
「これが脅迫だったと」
セラフィーナは少し考えた。
「相手が本当に危害を加えるつもりだったかは分かりません。でも、失敗したあなたへ、ご家族の居場所をわざわざ知らせたことは事実でしょう?」
「はい」
「それを怖いと感じたことも事実です」
脅迫罪に当たるかどうかは、後で必要な者が判断すればいい。
セラフィーナが今知りたいのは別だった。
ノルディアは、マルタが一度命令へ従わなかった時、家族の所在を示すことで圧力を強めた。
それがマルタにどう作用したか。
実際に彼女をこの部屋へ来させた。
そこまでが観測できれば、情報としては十分価値がある。
マルタはまた涙を落とした。
セラフィーナは、そこで話を止めなかった。
「それから、もう一つ事実がありますわね」
「何でしょう」
「あなたは、その紙を置かなかった」
マルタの目が揺れる。
「でも、それは命令に背いたということで」
「それはノルディアから見たお話でしょう?」
静かな声だった。
「わたくしから見れば、あなたはわたくしを陥れるための偽物を置かなかった。それだけですわ」
胸の奥で、何かが切れた。
マルタはとうとう顔を覆った。
声を殺そうとしても、肩が震える。
「ごめんなさい……」
「何について謝っているの?」
「だって、私は最初から、あなたを騙して」
「それも本当ですわね」
優しい否定はしなかった。
だから余計に涙が出た。
セラフィーナにとっても、そこで曖昧に許す理由はない。
騙していた事実を消せば、次にマルタをどう扱うか判断できなくなる。
罪悪感を軽くするためだけの言葉は、管理上の情報を壊す。
そんなものに価値はなかった。
「でも、今日ここへ来たことも本当でしょう?」
マルタは布越しに頷いた。
「誰かに命じられて来たの?」
「……いいえ」
「ノルディアの許可をいただいた?」
首を振る。
「では、あなたが決めたのね」
その一言が、一番深く刺さった。
自分が決めた。
何日も迷った。
怖かった。
逃げたかった。
紙も捨てられなかった。
それでも最後にこの部屋へ来ると決めたのは、自分だった。
誰にも命じられていない。
セラフィーナも、それを最も重く見た。
命令された忠誠より、自分で選んだ不服従の方が価値がある。
恐怖でこちらへ寝返らせても、より大きな恐怖が現れればまた動く。
金で買えば、より高い金額に負ける。
しかし、逃げ道があることを知った上で残ると本人が決めたなら、その選択は少し壊れにくくなる。
絶対ではない。
だから確認は続ける。
それでも、十分使う価値はある。
「マルタ」
「はい……」
「ノルディアを嫌いになる必要はありませんわ」
顔を上げる。
「え?」
「あなたのご家族が暮らしているのでしょう?」
「はい」
「子供の頃の思い出もある?」
「……あります」
「でしたら、故郷を大切に思うことと、誰かを陥れるために偽物を置くことは、別の話ではなくて?」
マルタは何も言えなかった。
国を裏切った。
そう思っていた。
ノルディアの命令へ従わないなら、ノルディアそのものを捨てなければならないような気がしていた。
けれどセラフィーナは、それすら求めなかった。
「わたくしの側へ来るために、故郷を憎めとは申しませんわ」
また涙が溢れた。
綺麗な言葉だった。
けれど、一つも嘘ではない。
そして、綺麗だから言ったわけでもなかった。
故郷を憎ませて得る忠誠など、セラフィーナには魅力がない。
憎悪は方向を変える。
今日ノルディアへ向けたものが、明日はこちらへ向かうかもしれない。
何より、自分へ仕える条件として過去まで否定させれば、マルタ自身の意思ではなくなる。
本人の選択を奪って従わせるだけなら、ノルディアが今やっていることと大差がない。
同じ手段で取り合うほど、セラフィーナはマルタ一人を安く見てはいなかった。
ノルディアを大切に思ったまま。
家族を愛したまま。
それでも自分を害する命令だけは拒み、自分でこちらへ残る。
その方が、ずっと価値がある。
「私は……どうしたら」
「それは、わたくしが決めることではありませんわ」
マルタが泣いたまま見つめる。
「ノルディアへ帰りたいなら、安全に帰る方法があるか調べます。ただし王家への報告が必要になる可能性はあります」
セラフィーナは指を一つ折る。
「こちらへ残りたくないけれど、ノルディアにも帰りたくないのでしたら、事情を知った上で雇える場所を探します」
もう一つ。
「ここで働きたいのでしたら、それも選べます」
「……ここに?」
「ええ。ただし、何もなかったことにはいたしません」
声は穏やかなまま。
「連絡方法は全て教えていただきます。しばらく機密には触れられません。外出も事前に報告していただきます。信用は、これから作り直してくださいな」
三つの選択肢は、三つとも本当に実行できなければ意味がない。
帰ると言えば帰す。
別の仕事を望めば探す。
ここへ残るなら制限付きで置く。
最初から一つしか選ばせる気がないのに複数の道を見せるのは、選択ではなく誘導の出来損ないだった。
いずれ気づかれれば信用も死ぬ。
本物の出口があるからこそ、残るという選択の価値が上がる。
セラフィーナはそれを知っている。
「ご家族については?」
一番怖いところを聞く。
「調べます」
「私がここに残るなら?」
「いいえ」
マルタが瞬きをした。
「あなたがどこで働くかと、ご家族の安全を確認することは別に考えますわ」
「でも」
「ここへ残ることを条件にご家族のことを調べるのでしたら、結局わたくしも、あなたへ選択肢を一つしか残していないでしょう?」
マルタの顔が歪んだ。
今度こそ、声を上げて泣いた。
セラフィーナは静かにそれを見る。
家族を条件に忠誠を買うつもりはなかった。
良心からだけではない。
人質で得た忠誠など、本人が人質を取り返した瞬間に消える。
しかも、つい先ほどノルディアが家族を使って失敗したばかりだった。
同じ首輪を今度は自分が付け直すなど、あまりにも芸がない。
ノルディアから届いた紙には兄の居場所が書かれていた。
失敗するな。
そう読ませるために。
セラフィーナは逆だった。
残らなくてもいい。
それでも家族の件は別に見る。
逃げ道を消すのではなく、本物の逃げ道を増やす。
だからこそ、残った時には言い訳が一つ減る。
怖かったから。
逃げられなかったから。
家族を人質に取られたから。
そうは言えなくなる。
最後に残るのは、
自分で選んだ。
という事実だけだった。
「お側に置いてください」
涙で声が震える。
「お願いします。私は、ここで働きたいです」
セラフィーナはすぐには頷かなかった。
「怖いからではなく?」
マルタは考えた。
怖い。
ノルディアも。
兄のことも。
これから何が起こるのかも。
それでも、怖いだけなら別の場所へ逃げればいい。
今、セラフィーナはそれも認めた。
だから答えは一つだった。
「ここがいいんです」
息を整える。
「セラフィーナ様のところで働きたいです」
セラフィーナはしばらくマルタを見ていた。
予想していた答えの一つだった。
そして三つの中では、最も都合がいい。
屋敷の中で働ける侍女。
ノルディアが今も自国の人間だと思っている情報員。
敵が何を知りたがっているのかを、向こうから教えてくれる窓。
しかも今回は、こちらから寝返れと命じていない。
家族を盾にしてもいない。
金を積んでもいない。
本人が歩いてきた。
使いやすい。
セラフィーナは、その事実を素直に評価した。
だからといって、信用する理由にはならない。
そこを混同するほど甘くもない。
侍女長へ目を向ける。
「どう思う?」
侍女長は難しい顔をした。
「腹は立っております」
マルタは俯く。
「ですが、自分から申し出たことは評価してもよいと思います。ただし、当面は私かエルンストの監督下で働かせます。お嬢様の私室へ一人では入れません」
「妥当ですわね」
セラフィーナがマルタを見る。
「それでよろしい?」
「はい」
「では、残ってくださいな」
マルタはまた泣きそうになった。
今度は必死に堪える。
「ありがとうございます」
「まだお礼を言うには早いですわよ。これから信用を作っていただくのですから」
「はい」
「それと、今すぐあなたを信じますとも申しません」
「はい」
不思議だった。
それなのに安心した。
口先だけで、
全部信じています。
許します。
と言われるより、ずっと。
セラフィーナも、そんな言葉を使うつもりはなかった。
昨日まで敵国へ報告していた人間を、一度泣いて告白しただけで全面的に信用する方がおかしい。
信頼は褒美ではない。
確認を省く理由でもない。
使えるから残す。
本人がこちらを選んだから、その選択は尊重する。
危険が残っているから、権限は絞る。
三つとも同時に成立する。
「でも」
セラフィーナは机の上の三枚の紙を見る。
「今日あなたがここへ来たことは、覚えておきますわ」
マルタはとうとう笑った。
泣きながら。
その夜。
偽造書簡と命令書は、アルディエール家の金庫へ収められた。
マルタは知っている限りの連絡方法を書き出した。
西区の古書店。
祈祷書。
通信薬剤。
街路で接触する少年。
ただし、知っていることは少ない。
命令を出している人物の名前は知らない。
組織全体の仕組みも知らない。
家族が本当に監視されているのかも分からない。
セラフィーナは、分からないことを無理に埋めさせなかった。
「思い出したことだけ書いてくださいな。想像は別の欄へ」
「想像も書くのですか?」
「ええ。ただし事実と混ぜないように」
「分かりました」
情報量が多いことより、事実と推測が混ざらないことの方が価値がある。
マルタが末端なら、上層の計画を知らないのは当然だった。
知らない部分を無理に推測させれば、欲しかった答えに似た嘘が出来上がる。
そんなものはいらない。
当面、ノルディアとの接触へ勝手に応じないこと。
接触があれば日時と内容を記録すること。
急に行動を変え、相手へ寝返りを知らせないこと。
決めたのはその程度だった。
最初から大量の偽情報を流すこともしない。
生きている情報経路へ、こちらに都合のいい嘘ばかり詰めれば、いずれ矛盾が出る。
一度疑われれば経路そのものが死ぬ。
今は、ノルディアがマルタへ何を質問するのか。
何を命じるのか。
どんな時に圧力を強めるのか。
それを見られるだけでも十分だった。
家族についても、まず本当にどこで暮らしているのかを確認する。
全てを一晩で解決する必要はない。
必要なものから、一つずつでいい。
部屋を出る前。
マルタが足を止めた。
「セラフィーナ様」
「何かしら?」
「明日の朝は……」
最後まで言えない。
セラフィーナは少し考えた後、何でもないことのように答えた。
「紅茶をお願いね」
「私が淹れてよろしいのですか?」
「機密書類は預けませんけれど、紅茶はあなたの方が上手ですもの」
マルタは目を見開いた。
それから、今日何度目か分からない涙を落としながら笑った。
「はい」
翌朝。
カップへ注がれた紅茶は、いつも通りの濃さだった。
セラフィーナが一口飲む。
「美味しいわ」
「ありがとうございます」
同じやり取り。
セラフィーナはカップを置きながら、目の前の侍女を見る。
間諜だった事実は消えていない。
昨日一晩で忠臣へ変わったとも思っていない。
連絡経路も確認する。
機密への制限も残す。
家族を使われれば、また揺れる可能性もある。
だから管理する。
けれどノルディアは、命令へ従わせるために家族の名を出した。
その結果、マルタは自分の足でここへ来た。
脅しを強くして、手元の情報員をこちらへ押し出した。
本人たちは、そのことをまだ知らない。
セラフィーナの唇が、紅茶の陰でほんの少しだけ緩んだ。
随分と親切なことをしてくださる。
口には出さなかった。
マルタには関係のない話だったから。
マルタにとっては、昨日までとは全く違う朝だった。
自分は間諜だった。
それは消えない。
セラフィーナを騙していた。
それも消えない。
それでも紅茶を上手に淹れてきたことも。
救護院で数を正しく確認したことも。
偽の手紙を置かなかったことも。
最後に自分から告白したことも。
同じように消えない。
どれか一つだけが本当なのではなかった。
全部、自分がしてきたことだった。
マルタは左袖へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そこにはもう何も隠していない。
確かめる必要もなかった。
今日は、自分でここに立っていた。




