白薔薇を悪女にする方法
「セラフィーナ様。少し、よろしいでしょうか」
王宮の回廊で呼び止めてきた令嬢は、声を落としていた。
セラフィーナは足を止める。
「もちろんですわ」
声を掛けてきたのは、何度か茶会で顔を合わせたベルモン子爵家のクラリスだった。
同じ年頃の令嬢で、社交界の出来事によく通じている。
その情報の半分ほどは本人が尋ねて集めたもので、残りの半分ほどは誰かが話したがっていることを上手く聞き出したものだと、セラフィーナは見ていた。
「ここでは少し……」
クラリスが周囲を見る。
人目を避けたい話らしい。
セラフィーナは近くの小さな休憩室へ移った。
扉は閉めない。
王宮で若い令嬢二人が密室へ入ったという余計な話まで増やす必要はなかった。
「それで?」
「お気を悪くなさらないでくださいませね。わたくしも、あまりに失礼なお話だと思っておりますの」
前置きが長い。
大抵の場合、こういう時には本人が言いたくて仕方のない話が続く。
「聞いてから決めますわ」
「オルセーヌ公爵令嬢のお席を、セラフィーナ様が変えさせたというお話です」
セラフィーナは少し考えた。
心当たりはあった。
三日前、王妃主催の昼餐会でエステルの席が、当初示されていた位置から一つ移っている。
「どなたのお隣から?」
「アドリアン殿下のお近くからです」
「そう」
「もちろん、わたくしは信じておりません。でも、エステル様が殿下と親しくお話しなさるのをセラフィーナ様がお嫌がりになったのではないか、と」
クラリスは本当に心配しているような顔を作っていた。
少なくとも、悪意をむき出しにして楽しんでいるようには見えない。
ただし、その話を本人へ持ってきた時点で、噂を広げることへの抵抗もそれほど強くないのだろう。
「教えてくださってありがとうございます」
「お怒りにならないのですか?」
「クラリス様に?」
「噂を流している方々に、です」
「まだ誰が何を言っているのか分かりませんもの」
怒る相手を決めるには少し早い。
「それに、お席が変わったこと自体は本当でしょう?」
クラリスが目を瞬いた。
「はい」
「でしたら、まずはなぜ変わったのか確認した方が早そうですわね」
「あの、わたくしは本当にセラフィーナ様がなさったとは――」
「ええ。分かっていますわ」
セラフィーナは微笑んだ。
「知らせてくださって助かりました」
クラリスは少し安心したようだった。
その日の昼、答えは簡単に出た。
昼餐会の席次を管理した王妃宮の儀礼係に確認すると、エステルの席を動かしたのは王宮側だった。
ノルディア使節団の一人が予定より遅れて昼餐会へ加わることになり、身分順を合わせるために外国客の席をまとめて調整しただけ。
セラフィーナの名は、変更理由のどこにもなかった。
正式な席次表も残っている。
変更前。
変更後。
承認した儀礼官。
全て明確だった。
「写しを一部いただけます?」
セラフィーナが尋ねると、儀礼係の男が少し不思議そうな顔をした。
「何か問題がございましたか」
「わたくしがオルセーヌ公爵令嬢のお席を動かしたという噂があるそうなの」
男の眉間に皺が寄った。
「それは事実ではございません」
「ええ。ですから、事実ではないと分かるものだけ残しておきたいのです」
「必要であれば、私から訂正を」
「今は結構ですわ」
噂を聞くたびに王宮が正式声明を出していたら、かえって小さな話へ権威を与えることになる。
重要なのは、後で問題になった時に確認できることだった。
「ただ、今後同じことを尋ねられた場合は、通常通り事実をお答えください」
「承知いたしました」
それで席次の件は終わった。
終わったはずだった。
翌日、別の話が届いた。
今度は王宮ではなく、アルディエール公爵邸だった。
侍女長が午後の予定を確認した後、少し言いにくそうに口を開いた。
「お嬢様。ノルディアから届いた香水についてなのですが」
「返却したもの?」
「はい。それについて妙な話が広がっているようです」
エステルが使節団到着後、親交の印として届けてきた香水だった。
薄い青色の瓶に入った、ノルディア北部で作られる高価な香水。
贈り物自体に不審なところはなかった。
しかし外国使節の有力者から王太子婚約者へ届いた高額品だったため、王宮の贈答規定に従えば、受領前に届け出が必要になる。
エステルの侍女がその手続きを知らず、先に公爵邸へ直接届けてしまった。
そのため一度返却し、正式な経路から送り直してもらうことになっている。
「どういうお話に?」
「お嬢様が、オルセーヌ公爵令嬢からの贈り物など使いたくないと仰って、開封もせず送り返されたと」
セラフィーナは少しだけ黙った。
「実際、開封はしていないわね」
「はい」
「返したのも本当」
「ですが理由が全く違います」
侍女長は不愉快そうだった。
「そうね」
二つ目。
席は動いた。
香水は返した。
出来事そのものは、どちらも事実だった。
変えられているのは理由だけ。
そこに、
嫉妬したから。
嫌っているから。
という意味を足している。
よくできた方法だった。
完全な嘘は弱い。
席が動いていないのに、
「セラフィーナが席を動かした」
と言えば、出席者が簡単に否定できる。
香水を受け取っているのに、
「送り返した」
と言っても、瓶が公爵邸にあれば終わる。
けれど実際に起きた出来事へ、見えない理由だけを足せば話は長持ちする。
人の感情には記録が残りにくい。
セラフィーナ自身、必要なら似た方法を選ぶだろう。
嘘は管理に手間がかかる。
本当のことなら、途中で調べられても壊れない。
違うのは、その本当の出来事へ何を意味させるかだけだった。
「贈答記録を確認しておいて」
「すでにございます」
侍女長はすぐ一枚の書類を差し出した。
香水が到着した時間。
送り主。
受取担当者。
外国使節からの高額贈答品であるため、王宮規定に従って未開封のまま返送したこと。
再送予定。
全て書かれている。
「十分ね」
「噂を否定なさらないのですか?」
「聞かれれば否定しますわ」
「それだけで?」
「今のところは」
席次については王妃宮に記録がある。
香水についても公爵家と王宮の双方に書類がある。
アドリアンも事情を知っている。
両親にも念のため伝えておけば、重要なところは守れる。
残るのは社交界の小さな囁きだけだった。
そこまで一つ残らず消そうとすれば、何倍もの人間へ話を広げることになる。
「ただし、どこで聞いたかは覚えておいてくださいな」
「噂の出所をお調べになるので?」
「出所まで辿れるかは分かりません。でも、どこを通っているのかくらいは見えるかもしれないでしょう?」
侍女長が頷いた。
セラフィーナは自分から社交界へ否定文を配ることはしなかった。
代わりに、直接尋ねてきた相手へだけ事実を答えた。
席次について聞いた令嬢には、
「王妃宮の儀礼係が決めたそうですわ」
とだけ。
香水について尋ねた夫人には、
「外国からの高額贈答品なので、正式な経路を通していただいているところです」
とだけ。
両方の事情を全員へ説明しない。
説明を受けた者の名だけ覚えておく。
それで十分だった。
三日目には、噂へ新しい話が加わった。
エステルが王宮庭園でアドリアンと話していた時、セラフィーナが二人を冷たい目で見ていたらしい。
それも、半分だけ本当だった。
二人を見た覚えはある。
エステルの後ろにある窓から、細い異音がしたからだった。
確認すると窓枠の留め具が一つ緩んでおり、その日のうちに修理されている。
視線の先にアドリアンとエステルがいたことは事実。
なぜ見たのかは、見ていた本人以外には分からない。
三つ目。
ここまで揃うと、偶然だけで片づける理由は少し減った。
ただし、
誰か一人が全て作っている。
ノルディアが動いている。
エステル自身が関与している。
そこまで進む材料はまだない。
社交界では、似た噂が互いを真似して自然に増えることもある。
誰かが最初の一つだけ置き、残りを別の人間たちが面白がって作った可能性もあった。
「セラフィーナ」
王宮でアドリアンに呼び止められたのは、その日の午後だった。
顔が明らかに不機嫌だった。
「聞いたぞ」
「何をでしょう?」
「僕とエステル嬢のことで、君が嫉妬しているとかいう馬鹿な話だ」
随分直接的だった。
「殿下のお耳にも入りましたのね」
「笑い事じゃない」
「笑ってはおりませんわ」
「僕から否定する」
「誰に?」
アドリアンが止まる。
「……噂している連中に」
「どなたです?」
「それは今から調べる」
「では、見つかるまで王宮中へ『セラフィーナは嫉妬していない』と触れて回りますの?」
アドリアンが黙った。
セラフィーナは笑いそうになるのを堪えた。
「お気持ちは嬉しいですわ」
「でも、やらない方がいい?」
「殿下がお一人お一人へ弁明なされば、今度は『王太子が必死に庇わなければならないほど大きな問題なのだ』と思う方が出ますでしょう?」
「面倒だな、噂というのは」
「ええ。ですから、大事なところだけ間違えなければよろしいのです」
「僕は知っている。君が席を動かしていないことも、香水の件も」
「お父様とお母様もご存じです。王妃宮にも記録がありますわ」
「なら、あとは好きに言わせる?」
「好き放題では困りますけれど、今はまだ王太子殿下が動くほどではありません」
アドリアンは納得しきっていない顔だった。
それでも、自分が感情のまま動けば事態を大きくする可能性は理解したらしい。
「何か必要なら言え」
「ありがとうございます」
「本当に言えよ」
「ええ」
「君は一人で片づけるから」
その声には少し不満が混ざっていた。
セラフィーナはそれを聞き逃さなかった。
「では、一つお願いしても?」
「何だ?」
「もしどなたかに尋ねられたら、席次も香水も事実通りにお答えくださいませ。それ以外は普通になさっていて」
「普通に?」
「エステル様とも」
アドリアンが眉を寄せた。
「噂があるから避けたら、それこそ妙だろう」
「その通りですわ」
「分かった」
アドリアンはまだ腹を立てていた。
それでも最後には頷いた。
「セラフィーナ」
「はい?」
「僕は、君がエステル嬢に嫌がらせするなんて思っていないからな」
「存じておりますわ」
即答すると、アドリアンは少しだけ機嫌を直した。
その日の夕方、王妃の私的な茶会があった。
参加者は十数人。
ノルディア使節団の滞在も終盤へ入り、王都の若い貴族たちとエステルが顔を合わせる機会も増えていた。
セラフィーナはエステルの隣に座っていた。
「先日はありがとうございました」
エステルが言った。
「香水のことでしょうか?」
「ええ。こちらの侍女が規定を十分理解しておらず、ご面倒をお掛けしました」
「もう正式な手続きへ回っていますもの。お気になさらないで」
「気に入っていただければよいのですけれど」
「香りを確かめるのを楽しみにしておりますわ」
普通の会話だった。
少なくとも二人の間では。
そこへクラリスが加わった。
「まあ、その香水のお話ですのね」
明るい声だった。
エステルが微笑む。
「ご存じなのですか?」
「ええ。色々と」
色々と。
その言い方に、セラフィーナは少しだけ興味を持った。
クラリスは周囲に他の令嬢がいることを確認すると、声を低くするどころか少し楽しそうに続けた。
「でも安心いたしましたわ。セラフィーナ様が香水を突き返されたというお話まで聞いておりましたから」
近くの会話が少し止まった。
セラフィーナはカップを置いた。
エステルの表情には、すぐに困惑が浮かんだ。
「まあ。そんなお話になっているのですか?」
「違いますの?」
「もちろんですわ。贈答手続きの問題だったと伺っています」
エステルはすぐセラフィーナを見る。
「わたくしは、セラフィーナ様に失礼なことをされたなどと思っておりません」
庇い方が上手かった。
エステル自身が被害を否定している。
普通なら、それで終わる。
ただ、
「私は怒っていない」
という言葉は、
「何か怒るようなことはあった」
という印象まで完全には消さない。
意図しているのか。
ただ善意で言葉を選んだだけなのか。
そこまでは分からない。
クラリスは安心するどころか、さらに口を開いた。
「では、お席のことも違うのですね。わたくし、てっきりセラフィーナ様が王妃宮へお願いして、エステル様を殿下から遠ざけたものだと」
今度は、茶会の空気がはっきり変わった。
言い切った。
噂としてではない。
セラフィーナが王妃宮へ働きかけた、と事実のように。
「クラリス様」
静かな声がした。
王妃の後ろに控えていた女官長だった。
五十代の女性で、王妃宮の儀礼全般を長く管理している。
クラリスの顔色が変わる。
「は、はい」
「先日の昼餐会の席次変更を決定したのは王妃宮です」
女官長は淡々としていた。
怒鳴らない。
それだけに、逃げ道が少なかった。
「ノルディア使節団の参加者変更に伴い、私が修正案を作り、王妃陛下の承認をいただきました。アルディエール公爵令嬢から席次について要望を受けた事実はございません」
クラリスの顔から血の気が引いた。
「でも、わたくしは……そう聞いて」
「誰から何を聞かれたかは存じません。しかし王宮の決定を、公爵令嬢の私情によるものと事実のように語ることはお慎みください」
「申し訳、ございません」
周囲の令嬢たちは何も言わなかった。
先ほどまでクラリスの話へ身を寄せていた者まで、少し距離を取っている。
社交界で情報に詳しいことは価値になる。
しかし、王宮の決定について誤った話を自信満々に言い切る人間から得る情報には、次から注意が必要になる。
それだけのことだった。
セラフィーナが罰を与える必要はない。
クラリス自身が、
よく知っている人に見られたい
という欲から一歩踏み込み、自分の信用へ傷を付けた。
「クラリス様」
セラフィーナが呼ぶ。
肩を震わせるように顔を上げた。
「わたくしはお気になさらなくてよ」
「セラフィーナ様……」
「ただ、次からは確かめてからお話しなさった方がよろしいと思いますわ。クラリス様がお困りになりますもの」
「……はい」
それ以上は言わなかった。
長く責めれば、今度はこちらが弱い相手を追い詰めているように見える。
必要な訂正は、すでに王妃宮の人間が行った。
現実だけで十分だった。
エステルが小さく息を吐いた。
「セラフィーナ様。わたくしの滞在中に、このようなお噂が立ってしまって申し訳ありません」
「エステル様がお謝りになることではございませんわ」
「ですが、わたくしが殿下とお話しする機会が増えたことで」
「外国の使節としていらしているのですもの。王太子殿下とお話ししない方が不自然でしょう?」
「そう言っていただけると安心いたします」
エステルは柔らかく笑った。
「わたくし、セラフィーナ様とは仲良くさせていただきたいと思っていますの」
「わたくしもですわ」
嘘をつく必要はなかった。
今の時点で、敵だと決まったわけではない。
有能で、話していて退屈しない。
それは本当だった。
茶会が終わる頃には、クラリスは普段よりずっと静かになっていた。
何人かの令嬢が彼女へ声を掛けていたが、以前のように新しい噂を尋ねる者はいない。
小さな変化だった。
けれど信用というものは、大抵こうして減る。
いきなり全て失うのではない。
次に聞かれなくなる。
次に信じてもらえなくなる。
次に呼ばれなくなる。
その積み重ねだった。
帰宅後、セラフィーナは侍女長から数枚の紙を受け取った。
ここ数日で聞こえてきた噂の簡単な記録。
席次。
香水。
庭園での視線。
どこで。
誰から。
どのような言葉で聞いたか。
それだけを書かせている。
「クラリス様のお名前が多いですね」
侍女長が言った。
「ええ」
ただしクラリスが最初とは限らない。
彼女は話を広げるには向いている。
だから利用された可能性もある。
自分で面白がって膨らませただけかもしれない。
「お嬢様。これで少しは静かになるでしょうか」
「席次についてはなるでしょうね」
「香水も?」
「どうかしら」
正式記録があるから、重要な場所で事実を捻じ曲げられる心配は小さい。
しかし噂そのものは、事実を証明しただけでは消えないことがある。
今度は、
「王宮が庇った」
と言い換える者が出るかもしれない。
そこまで一つずつ追いかける必要もなかった。
「少し面白いですわね」
侍女長が怪訝な顔をする。
「面白い、ですか?」
「作り方が」
セラフィーナは紙を一枚持ち上げた。
「全て本当に起きたことですもの」
席は変わった。
香水は返した。
アドリアンとエステルを見た。
一つ一つは否定できない。
「ですから、嘘を暴けば全部終わるという話ではないの」
「厄介ですね」
「ええ。上手ですわ」
侍女長はまったく感心していなかった。
セラフィーナは少し笑う。
誰が作っているのかは、まだ分からない。
一人なのか。
複数なのか。
そもそも最初から誰かが設計したものなのか。
それすら確定していない。
だから今は、自分の信用だけ守ればいい。
席次表。
贈答記録。
窓枠の修理記録。
アドリアン。
両親。
王妃宮。
確認できる事実は、必要な場所へすでに残っている。
そのうえで、どんな話がどこを通って戻ってくるのかを見る。
「こちらは保管しておいてくださいな」
「承知いたしました」
侍女長が紙を受け取る。
扉の前まで行ったところで、セラフィーナは呼び止めた。
「それから、クラリス様のことですけれど」
「はい」
「今まで通りで」
「よろしいのですか?」
「もう十分でしょう?」
今日一日で、彼女は自分が何を失ったか理解している。
これ以上セラフィーナ側から何かをすれば、必要のない敵を一人増やすだけだった。
侍女長が一礼して退出する。
一人になったセラフィーナは、机の上に残った最後の紙を見る。
そこには、別の令嬢から聞いた言葉が書かれていた。
『白薔薇も、やはり一人の女なのね』
短い一文だった。
慈善家。
王太子婚約者。
完璧な公爵令嬢。
そこへ、
嫉妬する女。
という意味が一つ足された。
白い花へ最初の色を落とすなら、十分な一滴なのかもしれない。
セラフィーナは紙を折った。
少し前までなら、興味を持つだけで終わっていたかもしれない。
今は違う。
誰かが自分の信用という資産へ手を掛け始めている。
なら、観察だけでなく守る必要がある。
そして相手がもう一歩進むのであれば。
その時に何を失うことになるのかは、相手自身が選ぶことだった。




