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善意には帳簿がある

王都東区にあるアルディエール救護院は、白い石造りの二階建てだった。

病人を収容する建物としては珍しく、正門の脇に小さな掲示板がある。


そこには診療時間でも寄付を求める文句でもなく、今週募集している仕事が書かれていた。


『製本工房 紙折り補助 二名』


『南市場倉庫 荷札記入 一名』


『王都第二洗濯場 洗濯補助 三名』


『食料商会 乾燥豆選別 四名』


マルタは馬車を降りるなり、その掲示板を見上げた。


「救護院なのに、お仕事の募集があるのですね」


「ええ」


セラフィーナも馬車を降りる。


今日は公爵家から包帯や石鹸を運ぶ日で、マルタも他の使用人二人と一緒に荷物の受け渡しを手伝うことになっていた。

特別な役目ではない。

新人が屋敷外の仕事を覚えるために、何度か同行するごく普通の当番だった。


「病気が治った後も食事代と家賃は必要でしょう?」


「それは、もちろん」


「ですから、治しただけでは終わらない方もいらっしゃるの」


正門を入ると、薬草と煮沸した布の匂いがした。

廊下の右側は診療室と病室。

左側には受付と食堂があり、そのさらに奥へ進むと、救護院には少し似つかわしくない作業室が並んでいる。


一つ目の部屋では、五人ほどの男女が古紙を寸法通りに折っていた。

隣では年配の女性が糸を使って小さな布袋を縫っている。

もう一室からは、数字を読み上げる声が聞こえた。


マルタがそちらを見る。


「読み書きの授業までなさっているのですか?」


「字を書けないと選べる仕事がかなり減りますもの」


「皆様、こちらへ入院なさっていた方なのですか?」


「そういう方もいますし、救護院の診察を受けたことがきっかけで通い始めた方もいらっしゃるわ」


セラフィーナは受付へ向かった。


院長のマティアスが、帳簿を抱えて待っている。


五十歳を越えた医師で、セラフィーナが子供の頃からアルディエール家の慈善事業に関わっている。

医師としては優秀だが、金勘定については自分より会計係を信用している男だった。


「お待ちしておりました、お嬢様」


「お邪魔します。石鹸と包帯を持ってきましたわ」


「助かります。ちょうど包帯布の減りが早くなっていたところです」


公爵家の使用人たちが荷物を運び始める。


マルタも木箱へ手を掛けようとしたところで、マティアスがセラフィーナへ帳簿を差し出した。


「先月分です」


「ありがとうございます」


セラフィーナはその場で開いた。


寄付金。

薬品代。

食料費。

人件費。

施設修繕費。


そして、職業訓練を終えた者の就職状況。


最後の欄まで目を通したところで、指が止まった。


「縫製の修了者が三人。就職は一人だけ?」


「はい。腕は悪くないのですが、今は王都の縫製工房があまり人を増やしておりません」


「先月も同じでしたわね」


「ええ」


セラフィーナは次の頁を見る。


文字と計算を教える初級事務課程は、七人修了して六人が仕事を得ている。


「荷札記入の求人は増えているの?」


「港から入る品が増えたそうで、倉庫や商会からよく問い合わせが来ます」


「では、来月から縫製の募集人数を減らしましょう」


傍で聞いていた女性職員が少し驚いた。


「縫製をやめてしまうのでしょうか?」


「いいえ。希望する方まで断る必要はありません。ただ、十人集めて八人に仕事がないなら、十人募集する理由もないでしょう?」


セラフィーナは帳簿を女性へ向けた。


「縫製は四人まで。空いた分で読み書きと荷札記入を増やしてください。数字を苦手になさる方もいますから、文字だけの仕事も商会へ確認していただける?」


「承知いたしました」


「訓練することが目的になってしまっては意味がありませんもの」


教えれば善行になるわけではない。

立派な技術を身につけても、買う者がいなければ生活にはならない。


人を一人、寄付だけで何年も支え続けるより、自分で給金を得られる状態へ戻した方が費用は少ない。

働ける者が増えれば商会も工房も人手を得られ、その者自身も誰かへ施しを求め続けなくてよくなる。


本人が選べる仕事が増えるなら、それが一番効率がいい。


「お嬢様」


声を掛けられ、セラフィーナは顔を上げた。


三十歳くらいの女性が、作業室の入口に立っている。

右脚を少し引きながら歩いているが、杖は使っていない。


見覚えがあった。


「エマでしたわね」


女性の目が大きくなった。


「覚えてくださっていたんですか?」


「冬の初めまで入院なさっていたでしょう。荷馬車から落ちて脚を折られた」


「はい」


その事故で、それまで働いていた洗濯場を辞めている。

長時間立ち続ける仕事へ戻れなくなったからだった。


セラフィーナが最後に会った時、エマは読み書きの初級課程へ入ったばかりだった。


「今は何のお仕事を?」


「食料商会で、荷札を書いています」


声に少し誇らしさがあった。


「最初は一日分だけでしたけど、この前から週に五日呼んでもらえるようになりました」


「それはよかったわ」


「昨日、初めて一月分のお給金を全部いただけました」


エマは布袋から一枚の紙を出した。

給金明細らしい。


見せる必要などないのに、見せたかったのだろう。


セラフィーナは受け取った。


金額は大きくない。

王都で一人暮らしをするなら、贅沢できるほどではなかった。


けれど家賃を払い、食べ、少しなら残せる。


少なくとも、救護院から毎日の食事を受け取らなければ生きられない金額ではない。


「きちんと雇用契約も結んでいただけたのね」


「はい。書いてあることも自分で読めました」


そこを一番嬉しそうに言った。


セラフィーナも笑う。


「では、もうこちらへ戻ってきてはいけませんわね」


エマが一瞬、困ったような顔をした。


セラフィーナは給金明細を返す。


「患者としては、ですけれど」


ようやく意味を理解して、エマが笑った。


「はい。もう怪我では戻ってきません」


「それがよろしいわ」


「でも、今日は先生のお手伝いで来ました。荷札の書き方を、今習っている人へ教えてほしいって」


それならさらに良い。


仕事を得た者が、次の者へ自分の経験を渡す。

救護院の職員が全てを教え続ける必要もなくなる。


「お給金は?」


「え?」


「今日は教えるために呼ばれたのでしょう?」


エマがマティアスを見る。

マティアスも会計係を見る。


三人とも黙った。


「まさか、善意でお願いしたの?」


マティアスが咳払いした。


「本人がぜひ手伝いたいと」


「エマ」


「はい」


「あなたは今日、何時間こちらに?」


「お昼までなので、三時間くらいです」


「その間、本来のお仕事は?」


「今日はお休みです」


セラフィーナは会計係を見る。


「では、指導補助として三時間分をお支払いしてください」


エマが慌てた。


「いえ、そんな。私もここで教えてもらいましたから」


「だから無料で働くの?」


「それは……」


「あなたが自分の時間を使って、こちらに必要な仕事をしてくださるのでしょう。でしたら払う方が分かりやすいわ」


セラフィーナは帳簿を閉じた。


「次にお願いする時も、こちらは仕事として頼めますもの」


善意に頼れば、断りにくくなる。

一度ならよくても、二度、三度と続けば、本人の生活を圧迫するかもしれない。


それでは救護院から自立した人間を、別の形で救護院へ縛りつけることになる。


「ただし、指導があまり上手でなければ次はお願いしないかもしれませんわよ」


エマが目をぱちぱちさせた後、吹き出した。


「頑張ります」


「ええ。お仕事ですから」


マティアスが苦笑した。


「相変わらず、善意にも帳簿をつけさせますな」


「帳簿に載らない善意ばかり増やしたら、誰がどれだけ負担しているのか分からなくなりますもの」


「医者には耳の痛い話です」


「先生は特にお気をつけくださいませ。患者さんへ頼めば、大抵の方は断りにくいでしょうから」


「肝に銘じます」


マルタは少し離れたところで石鹸の箱を運びながら、そのやり取りを聞いていた。


視線が合うと、すぐに箱へ目を戻した。


午前の確認が終わる頃、セラフィーナは救護院の食堂で軽い昼食を取ることになった。


普段患者へ出しているものと同じ野菜のスープと黒パンだった。

特別に豪華な食事を用意させる必要はない。


マルタたちは別室で使用人用の食事を取る予定だったが、食堂へ食器を運ぶ仕事が残っていた。


古い木製の棚から皿を取り出そうとした時だった。


乾いた音が響いた。


振り返る。


白い皿が床へ落ち、三つに割れている。


マルタが青ざめて立っていた。


「申し訳ございません!」


近くにいた救護院の厨房係も驚いて駆け寄る。


「怪我は?」


セラフィーナが先に聞いた。


「ありません。申し訳ございません、私が――」


「動かないで。破片があります」


厨房係が箒を持ってくる。


セラフィーナは割れた皿ではなく、開いた棚を見た。


上段の板がわずかに傾いている。


皿を置いていた位置だけではない。

棚板の右端そのものが、手前へ下がっていた。


「マルタ。どうやって取りましたの?」


「三枚重ねたまま、両手で……棚から引き出しました」


「急いだ?」


「少しだけ」


「では、次からは急がないように」


マルタの顔が固くなる。


「はい。弁償いたします」


「まだ終わっていないわ」


セラフィーナは棚板を指で押した。


少し力を入れただけで、右側が沈む。


「これ、いつから?」


厨房係が首を傾げた。


「昨日までは……いえ、少し前から扉を開けると皿が前へ寄ることがありました」


「それを誰かに?」


「申し訳ありません。使えないほどではなかったので」


セラフィーナはしゃがみ、棚を支えている金具を見る。


留め具の一つが緩んでいた。


皿を手前へ引けば、その重みで板がさらに傾く。


マルタが急いだことも原因。

棚が傷んでいたことも原因。


どちらか一方だけではない。


「エルンスト」


同行していた家令が近づく。


「はい」


「この棚は今日使わないようにしてください。修理が終わるまで食器は別へ」


「承知いたしました」


「救護院の棚も全部確認していただける?同じ時期に入れたものなら、他も緩んでいるかもしれません」


「すぐ手配いたします」


マルタが戸惑ったようにセラフィーナを見る。


「ですが、皿は私が落としました」


「ええ」


「でしたら――」


「あなたが急いだことについては、先ほど注意しましたでしょう?」


セラフィーナは立ち上がった。


「棚が傾いていたことまで、あなたの責任にする理由はないわ」


「でも、私がもっと丁寧にしていれば割れなかったかもしれません」


「棚が正常なら、同じ取り方でも割れなかったかもしれませんわね」


マルタは答えられなかった。


「両方直せばいいでしょう?」


「……はい」


「次から急がない。棚は修理する。それで同じ事故が起こりにくくなるわ」


誰か一人を叱って終われば簡単だった。

けれど原因が二つあるのに、一つだけ直しても事故は残る。


壊れた皿一枚の値段より、食器棚が崩れて人が怪我をする方が高くつく。


さらに、設備の異常を報告した者まで罰せられる職場では、次から黙って使い続ける者が増える。


それでは困る。


「弁償は?」


マルタがまだ心配そうに尋ねた。


「要りません」


「本当に?」


「故意に投げたのなら別ですけれど」


「そんなことはいたしません」


「なら、次から丁寧に扱ってくだされば十分よ」


マルタの肩から力が抜けた。


その時、厨房係の女性がおずおずと口を開いた。


「お嬢様。私も、棚が傾いていたことを言わなかったので……」


「次は言ってくださいな」


「はい」


「使えるかどうかではなく、おかしいと思った時点で」


「承知いたしました」


厨房係は深く頭を下げた。


セラフィーナは割れた皿の破片が片付けられたのを確認し、食堂へ戻った。


野菜のスープは少し冷めていた。

それでも味は悪くない。


昼食後、訓練室をもう一度見てから救護院を出ることになった。


午前中に会ったエマは、三人の受講者を前に荷札の書き方を教えていた。


「商品名は大きく。数はその下。送り先は最後です。同じ箱が並んでも見間違えないようにします」


昨日まで教わる側だった人間のようには見えない。


一人の男性が文字を書き間違えると、エマは紙を奪わず、間違ったところだけ指で示した。


おそらく自分がそう教わったのだろう。


マティアスが隣で言った。


「今朝より上手くなっていますな」


「でしたら次もお願いできますわね」


「今度は最初から給金を用意いたします」


「それがよろしいと思います」


二人で話していると、マルタが荷物の確認を終えて戻ってきた。


先ほどまでの強張った顔はもうない。


「セラフィーナ様。石鹸と包帯、全て受領印をいただきました」


差し出された紙を見る。


品目。

数量。

受取人。


不足はない。


「きちんと確認した?」


「はい。石鹸が一箱多いように見えましたので、もう一度数えました。大きい箱に二十個、小さい箱に十個で、帳簿の数と合っております」


最初に数が違うと思った時点で、そのまま渡さず確認したらしい。


「よくできました」


マルタが目を上げた。


先ほど皿を割ったばかりだから、褒められるとは思っていなかったのだろう。


「……ありがとうございます」


「次も同じように確認してくださいね」


「はい」


その返事は、朝より少しだけ明るかった。


帰りの馬車へ乗る前、セラフィーナはもう一度救護院を振り返った。


診察を待つ者がいる。


作業室では紙を折っている者がいる。


仕事を教える者がいて、教わる者がいる。


病気や怪我をした人間を助けるだけなら、薬と食事を配ればいい。


それでも一時的には救える。


けれど、その人間が再び自分の足で生活できるなら、次に救わなければならない人数は減る。


余った金と人手を、もっと重い病人へ回せる。


結果として助かる者は増える。


善意だけで運営しているつもりはなかった。


寄付金にも限りがある。

医師の時間にも限りがある。

働く人間の体力にも限りがある。


限りがあるものなら、使った結果は確かめた方がいい。


だから帳簿をつける。


誰が治ったのか。

誰が働けるようになったのか。

何を教えても仕事へ結びつかなかったのか。

どこへ金を増やし、どこを減らすべきなのか。


そこまで分からなければ、次にもっと多くを助けることもできない。


「セラフィーナ様」


馬車の前でマルタが呼んだ。


「何かしら?」


「先ほどの食器のこと、本当に申し訳ございませんでした」


「もう謝っていただきましたわ」


「はい。でも……次は気をつけます」


「そうしてください」


マルタは一礼する。


そのまま下がるのかと思ったが、少し迷った後でもう一度顔を上げた。


「救護院のお仕事は、いつもこのようになさっているのですか?」


「このように?」


「助けた後のお仕事まで、です」


「ええ。できる方については」


「どうしてそこまで?」


セラフィーナは少し考えた。


特別に美しい答えを探す必要はない。


「その方が、次に困る方へ使えるものが増えるからですわ」


マルタはしばらく黙っていた。


「……そうなのですね」


何を納得したのかまでは分からない。


セラフィーナも尋ねなかった。


馬車へ乗る。


マルタは扉を閉める前に、いつも通り丁寧に一礼した。


その日の夕方。


救護院から一通の報告が届いた。


食器棚を確認したところ、厨房だけでなく隣の保管室でも二つの留め具が緩んでいたという。


食器を移し、全て修理することになった。


割れたのは一枚だけで済んだ。


セラフィーナは報告書を読み終えると、交換費と修理費を確認した。


修理費の方が皿一枚より高い。


それでも、後で棚ごと崩れるよりは安い。


書類の余白へ承認の印を入れる。


誰かが失敗した時、その人間だけを見れば話は早い。


原因を全部見る方が、少し面倒だった。


けれど面倒な方が安く済むことは、世の中に案外多い。


救護院も同じだった。


人を一度助けて終わる方が簡単だ。


治した後の生活まで見れば、帳簿は増える。


仕事も増える。


それでも、その人間が二度と施しを必要としなくなるのなら、長い目ではその方がずっと安い。


そして何より。


自分で得た給金明細を嬉しそうに見せてきたエマの顔を、セラフィーナは嫌いではなかった。


利益になることと、見ていて気分が良いことは、別に矛盾しない。


むしろ両方を選べるなら、その方がいい。


セラフィーナは帳簿を閉じた。


明日から縫製課程の募集人数が減り、その分だけ読み書きを習う者が増える。


数か月後には、今日よりもう少し多くの名前が「就職」の欄へ移っているだろう。


そうならなければ、また変えればよかった。


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