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帰り道は空ではありません

輸送記録を三枚並べたところで、若い書記も同じことに気づいた。


「空ですね」


「ええ」


セラフィーナは頷いた。


市場へ入る時の欄には、麦、豆、乾燥果実、木材、加工品と、それぞれ異なる積荷が記されている。


荷車の大きさも違う。


出発した町も違う。


それでも帰路の欄には、何も積んでいないことを示す記載が目立った。


すべてではない。


往復とも商品を運んでいる業者もいる。


ただ、昨日市場で見かけた一台だけが偶然空だったわけでもなかった。


十数件を拾えば、満載で市場へ入り、ほとんど何も積まずに元の地方へ戻っている車が何台もある。


「勿体ないですね」


若い書記が素直な感想を口にする。


「そう見えますわね」


セラフィーナはそこで止めた。


勿体ないように見えることと、本当に無駄であることは別だった。


帰りに運ぶ商品が存在しないのかもしれない。


行きと帰りで運送資格が違うのかもしれない。


市場や街道の規則によって、帰路だけ別荷を積めない理由がある可能性もある。


帰り荷そのものはあっても、運賃や通行料を加えれば利益にならないのかもしれない。


あるいは、荷車を待たせてまで商品を探すより、空のまま戻った方が次の仕事へ早く入れる。


どれも十分にあり得た。


だから、記録だけを見て、


空荷をなくせばよい。


とは言えない。


セラフィーナは三枚の記録から必要な箇所だけ書き写した。


到着地。


元の町。


積荷。


市場へ入った時刻。


市場を出た時刻。


その中で、同じ方面へ戻る三台へ印を付ける。


「今日もこちらの商会から荷車が来ています?」


「確認してまいります」


若い書記が立ち上がった。


「一台で十分ですわ」


書記が振り返る。


「三台ではなく?」


「三台も止める必要はございませんもの」


試して外れた時に、失う時間は一台分でいい。


一時間後、セラフィーナは市場裏手の荷捌き場にいた。


昨日まで見ていた表通りとは違い、ここには客向けの華やかさがない。


積まれた木箱。


麻袋。


荷縄。


飼葉。


荷車の車輪。


馬の汗と土の匂い。


市場で売られる商品が、商品になる前と後を繋ぐ場所だった。


アルノーも少し離れた位置についている。


市場内の聞き取りだけなら、監察条件上の問題はない。


若い書記が連れてきたのは、四十前後に見える御者だった。


朝、東側の街道から麦を運んできたという。


すでに荷下ろしは終わっており、荷台には畳まれた覆いと縄しか残っていない。


御者はセラフィーナを見て、明らかに困った顔をした。


「俺、何かしましたかね」


「いいえ」


「役人までいるんですが」


男の目がアルノーへ向く。


「わたくしの監察官ですわ。あなたを調べているわけではございません」


「……監察官が付いてる人にそう言われても安心しづらいんですが」


もっともだった。


セラフィーナは少し笑った。


「では、質問を三つだけ。答えたくないものは答えなくて結構です」


男はさらに警戒したものの、逃げはしなかった。


市場役からも、外国の公爵令嬢が輸送について話を聞きたがっていると説明を受けているのだろう。


「帰りに別の商品を積むことを禁じる決まりはございます?」


「いや。危ない物とか、積んじゃいけない物はありますけどね。普通の商品なら積めますよ」


一つ。


「今日、帰る町で売れる品をこちらから頼まれた場合、運ぶこと自体はできます?」


「金が合えば」


二つ。


セラフィーナは空の荷台を見た。


「では、なぜ空でお帰りになるのです?」


男は即答しなかった。


質問があまりにも単純だったからかもしれない。


「……帰りの荷が決まってないからですよ」


「市場には商品がございますのに?」


「そりゃありますよ。でも、俺がどれを持って帰れば金になるかは別でしょう」


三つ。


そこで、話の形が変わった。


セラフィーナは続きを促す。


御者も、何を聞かれているのか分かってきたらしい。


「行きは商会から仕事をもらって来るんです。どこで積んで、どこまで運んで、いくらって決まってる。でも帰りは、こっちでうまい荷が見つかれば積むくらいで」


「探さないのですか?」


「探しますよ。早く見つかれば」


男は市場の建物を顎で示した。


「でも俺たちは夕方までここにいるわけじゃない。馬を休ませて、荷台を確認して、飯を食わせたら戻る。待ってれば荷が出るかもしれないけど、出ないかもしれない。半日待って何もなかったら、その方が損でしょう」


セラフィーナは頷いた。


合理的だった。


空荷で帰ることだけを見れば損に見える。


しかし、御者が売っているものは荷台の空間だけではない。


馬。


荷車。


本人の時間。


明日また別の仕事へ出るなら、今日の帰路を延ばすことにも費用がある。


「荷が見つかっても、その場ですぐ決められないことも?」


「ありますね」


「なぜ?」


「値段が合うか分からないとか。向こうへ持って帰っていくらで売れるとか。俺は商人じゃないんで、頼まれた荷を運ぶだけですけど」


それ以上は御者へ聞く必要がなかった。


運べないのではない。


商品がないのでもない。


帰路の時間内に、


誰の荷を。


どれだけ。


いくらで。


どこまで運べば利益になるか。


それが揃わない。


だから空で帰る。


少なくとも、この一台については。


「今日は何時頃、お戻りに?」


「昼を食ったらですね。遅くてもその後すぐ」


まだ少し時間がある。


セラフィーナは若い書記を見る。


「昨日の三商会のうち、こちらの方が戻る町と取引のある商会は?」


書記は持ってきていた控えを開いた。


「少々お待ちください」


数行確認したところで指が止まる。


「あります。昨日、比較帳票を使った中規模商会です」


「行きましょうか」


御者が声を上げた。


「俺もですか?」


セラフィーナは少し考えた。


「いえ。馬を休ませてあげてくださいませ。必要になれば、こちらから参ります」


商会へ着くと、昨日会った商人は帳場にいた。


セラフィーナを見るなり、少し身構えたものの、拒みはしなかった。


比較重量の欄を使った見積もりについては、昨日のうちに手応えがあった。


今日も一部の商品で継続している。


「今度は何でしょう」


「お尋ねしたいことが一つ」


「一つ?」


「東の町から、最近こちらへ注文や問い合わせが来た商品はございます?」


商人は眉を寄せた。


「ありますが」


「運べば売れる品がある?」


「そりゃありますよ。何も売れない町じゃないんですから」


予想通りではある。


しかし予想が正解になっただけで、最初から知っていたわけではない。


「今、送っていないものは?」


「どういう意味です?」


「注文がある。品物もある。それでも、すぐには送っていないものです」


商人は帳面を一度見た。


そして、棚の奥から書類を何枚か取り出した。


「急ぎじゃない注文ならいくつか。乾燥豆、油種、布地。量がまとまったところで一緒に出すつもりです」


「なぜまとめるのです?」


「その方が運賃が安いからですよ」


答えはすぐ出た。


セラフィーナの中で、それまで別々だったものが同じ場所へ置かれる。


荷はある。


売り先もある。


荷車もある。


だが荷物が少なければ、一台を新しく雇うほどではない。


一方、荷車は商品を届けたあと、空で同じ方向へ帰っている。


双方とも間違っていない。


商品をまとめてから荷車を雇う商人も合理的。


帰り荷が決まっていなければ待たずに帰る御者も合理的。


その二つが、互いを知らない。


「もし今日、その町へ空で戻る荷車があるとしたら?」


商人の目が動いた。


「どこの?」


「先ほど麦を下ろした商会の車です」


「本当に空で?」


「少なくとも、先ほど見た時点では」


商人は帳場の奥へ声をかけた。


「東向けの注文、持ってこい」


動きが早い。


ここから先はセラフィーナより商人の領分だった。


どの商品なら今日積めるか。


在庫があるか。


先方との契約条件はどうなっているか。


急に発送して受け取りに問題がないか。


商人と店員たちが次々に確認する。


セラフィーナは口を挟まなかった。


数分後、商人が三枚の注文書を並べた。


「乾燥豆ならいける。向こうの商会が受け取れる。油種は検品がまだ。布は量が半端だ」


「では豆ですわね」


「ただ、運賃次第です」


「御者の方とお話しなさってくださいませ」


商人は一瞬、セラフィーナを見た。


「あなたが決めるんじゃない?」


「なぜわたくしが?」


「いや……話を持ってきたのはあなたでしょう」


「わたくしは、空の荷車があるとお伝えしただけですわ。いくらなら運ぶかは御者の方が決めることでしょうし、その金額で頼むかはあなたが決めることでしょう?」


商人は少し黙った。


その後、


「まあ、それはそうですが」


と答えた。


御者を呼ぶ。


二人の交渉は早かった。


通常、一台をこの市場から東の町まで新しく手配するより、御者はかなり安い額を提示した。


それでも御者にとっては、空で帰れば何も得られない道である。


荷役に時間がかかりすぎず、馬の負担を超えない量なら、その金額でも十分に利益になる。


商人側も計算する。


昨日作った比較重量の欄が、ここでまた使われた。


乾燥豆はこの市場の単位で記録されている。


注文書は東の町の単位。


以前なら、どれほど積めば注文数量を満たすのかを換算表から確認し、荷車へ載せる量を改めて計算する。


今日の帳票には、すでに比較重量がある。


注文書側の量も同じ基準へ一度直せば、必要な量はすぐ出た。


若い書記が計算を手伝おうとしたが、商人の方が早かった。


「この量なら載る」


御者が荷台を見て、


「載るな。余裕もある」


と答える。


「この運賃なら?」


「いいですよ。ただし今から積んで、遅くとも一刻以内には出たい」


「十分だ」


決まった。


あまりに普通に。


誰も歓声を上げなかった。


制度改革の式典もない。


王命もない。


たった今まで別々の仕事をしていた二人が、条件を見て、それぞれ自分に得があると判断しただけだった。


セラフィーナはそれを見ていた。


これで一台。


しかも小さな荷である。


国の物流が変わったなどと言うには、あまりにも小さい。


だが、昨日まで仮説だったものが一つ現実になった。


帰り荷が存在しないのではない。


少なくともこの経路には、運びたい者も、運べる者も存在していた。


ただ、時間内に互いの条件が出会っていなかった。


荷積みが始まる。


空だった荷台へ乾燥豆の袋が並んでいく。


御者は縄の状態を確かめ、積み方について店員へ指示を出す。


荷崩れすれば自分の責任にもなる。


その顔は、さきほどまで質問へ答えていた時とは違い、完全に仕事のものだった。


セラフィーナはそこへ近づかなかった。


任せるべきところで、専門家の手を邪魔する理由はない。


レオナールが来たのは、荷積みが半分ほど終わった頃だった。


市場役から話を聞いたらしい。


空だったはずの荷車を見て、セラフィーナへ視線を向ける。


「今度は何をした?」


「何も」


「その答えで済むと思ってるのか」


「空で帰る方へ、荷物を運びたい方がいるとお伝えしただけですわ」


レオナールは荷台を見る。


次に商人。


御者。


最後にセラフィーナ。


「運賃は?」


「お二人で決めました」


「荷物は?」


「商人の方が選びました」


「量は?」


「御者の方が積めると判断なさいました」


「お前は?」


セラフィーナは少し考えた。


「空で帰る理由を聞きました」


レオナールの眉が寄る。


「それでこうなった?」


「今回は」


「最初から、帰り荷にも比較重量を使うつもりだったのか?」


問いは昨日までとは少し違った。


以前なら、


思いついたのか。


だった。


今は、


どこまで考えていたのか。


を確かめようとしている。


有能な人間ほど、同じ驚き方を繰り返さない。


セラフィーナは正直に答えた。


「候補にはございましたわ」


「候補?」


「比較できる数字があれば、売買以外にも使えるでしょうとは考えておりました。でも、空荷が多いことは昨日まで知りませんでしたもの」


「じゃあ、この荷車を見てから?」


「正確には、輸送記録を見てからですわね」


レオナールはしばらく黙る。


「どこまで考えてる?」


「今お話ししたところまでですわ」


「本当に?」


「ええ」


嘘ではない。


少なくとも、確定していることはそこまでだった。


同じような空荷が他の経路にもあるのか。


なぜあるのか。


全部が同じ理由なのか。


通行税が原因の場所。


資格が原因の場所。


商品相性が原因の場所。


情報不足だけが原因の場所。


おそらく違う。


今日一台埋まったからといって、


全国の帰り便を埋めればよい。


などと結論するつもりはなかった。


ただし、一つ分かったことはある。


グランデルでは、


物がない。


のではない。


少なくとも時々、


物と運ぶ手段が同じ場所にあるのに、互いを見つけていない。


レオナールが荷積みを眺めながら言った。


「今日のこれは、運賃が安くなったのか?」


商人が横から答えた。


「新しく一台頼むよりは、かなり」


御者も言う。


「こっちは空で帰るよりいいですからね」


「買い手は?」


「予定より早く届く。それで文句を言う相手じゃないですよ」


三人とも得をしている。


それでも誰かが損をしていないか、セラフィーナは考えた。


本来、後日この荷を運ぶはずだった別の運送業者は存在した可能性がある。


しかしまだ契約はされていない。


商品がまとまった後に手配する予定だっただけ。


特定の仕事を横取りしたわけではない。


一方で、この形が大量に増えれば、運賃相場へ影響する可能性はある。


そこまで行けば別の問題になる。


今考える必要はないが、無視してよいものでもない。


一つの改善は、別の誰かの条件を変える。


それが社会だった。


だから、小さく試す。


御者が最後の縄を締め終えた。


荷台にはまだ余裕がある。


それでも、初回としては十分だった。


商人が受取用の文書を渡す。


御者が内容を読む。


数量と荷物を照らし合わせる。


そして御者がふと、試験帳票の比較重量欄を指した。


「これ、向こうでも見せていいんですよね?」


商人が答えるより先に、セラフィーナは市場役を見る。


これは自分が許可することではない。


市場役は意図を察した。


「正式な数量は元の欄だ。比較欄は参考値。その扱いなら問題ない」


「じゃあ持ってきます」


御者は文書を折り畳み、荷台の前へしまった。


昨日、一人の買い手が見積もりを比べるために作った一列が、今日は御者の手元へ渡った。


セラフィーナはその様子を覚えておく。


自分から、


輸送にも使ってください。


とは一度も言っていない。


必要だから、使う人間が勝手に持っていく。


その方がよい。


荷車が市場を出る頃には、午後の日差しが街道を照らしていた。


昨日見た時には空だった道を、今日は商品が進んでいく。


若い書記が隣で、その後ろ姿を見送る。


「一つの欄で、ここまで使えるのですね」


「一つの欄だから、ではございませんわ」


「違うのですか?」


「使う方々が、自分に必要な使い方を見つけただけですもの」


セラフィーナが作ったのは、乾燥豆の輸送計画ではない。


荷車の運行規則でもない。


ただ、違う場所の数量を比べられるようにした。


その数字を商人が価格比較へ使った。


今日は積載判断へ使った。


明日は別の誰かが、別の目的に使うかもしれない。


逆に、もう使われないかもしれない。


そのどちらでも構わない。


役に立つものは残る。


役に立たないものは消える。


残すために命じるより、残したいと思われる方が安い。


屋敷へ戻ると、セラフィーナは今日の結果を帳簿へ記録させた。


特別な成功として大きく囲ませたりはしない。


一台。


一件。


乾燥豆。


帰路。


運賃。


出発時刻。


それだけ。


若い書記が書き終わったあと、


「明日も空の荷車を探しますか?」


と尋ねた。


セラフィーナは首を振った。


「いいえ」


「続けないのですか?」


「今日、確かめたかったことは確かめられましたもの。同じことをわたくしたちが一台ずつ繰り返してどうするのです?」


「では、これで終わり?」


「この一台については」


若い書記は帳簿を見る。


「市場の方々が自分で続けるかを見るのですね」


セラフィーナは少しだけ笑った。


「続ける価値があると思えば」


価値がなければ終わる。


価値があるなら、セラフィーナが毎朝荷車を探さなくても誰かが続ける。


それを確かめる方が、二台目を自分で埋めるより重要だった。


翌朝。


セラフィーナが朝食を終える前に、市場から一通の書類が届いた。


若い書記が封を開け、目を通す。


途中で顔を上げた。


「お嬢様」


「何でしょう」


「昨日の商人からではありません」


「ええ」


「別の商会です。今日、北寄りの街道へ戻る空車が二台あるそうで……同じように帰り荷を探したいから、比較重量のある商品一覧を見られないかと」


セラフィーナはカップを置いた。


一台目は、自分が繋いだ。


二台目からは違う。


昨日の結果を見た人間が、自分から同じ利益を取りに来た。


それでよかった。


セラフィーナは返書を書くよう若い書記へ指示した。


「市場役へ確認して、試験帳票を公開できる範囲だけお渡ししてくださいませ。ただし個別商会の仕入れ値や契約条件は除いて」


「承知しました」


「それから、わたくしの名前を使って参加を求める必要はない、と添えてください」


書記が一瞬だけ笑う。


「もう求めなくても、参加したいそうです」


「でしたら、なおさら必要ございませんわね」


窓の外では、朝の荷車が街道へ向かっている。


昨日までなら、荷物を届け終えた車が空で戻ることなど、誰にとっても珍しい景色ではなかったのだろう。


誰かが怠けていたわけではない。


誰かが騙していたわけでもない。


それぞれが、自分の仕事だけを見れば正しかった。


セラフィーナは届いた書類へ目を落とす。


一列の数字を加えた。


商人が使った。


御者が使った。


そして今度は、自分が何も言わなくても別の商人が使いたがっている。


盤はまだ小さい。


けれど、自分が一つずつ駒を動かさなくても、そこへ置かれた人間が自分の利益のために動き始めている。


その方が、ずっと面白い。


セラフィーナは次の帳簿を開いた。


「帰り道まで空である必要は、ございませんものね」


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