返事はいたしません
その封筒を見た瞬間、セラフィーナには差出人が分かった。
レグリエ王家の印章があるからではない。
封蝋を見る前から分かっていた。
宛名の文字。
アルディエールの綴りで、最後の一画だけ僅かに長く流す癖。
幼い頃から何度も見てきた筆跡だった。
マルタが銀盆を両手で持ったまま、セラフィーナの返事を待っている。
「通常の国際郵便です。監察局にも到着記録が残っています」
「開封は?」
「されておりません」
セラフィーナは頷いた。
グランデルへ入ってから、国外通信についての条件はすでに確認している。
登録の必要がある通信と、単に記録だけが残る通常郵便は別。
王太子から追放された元婚約者へ届いた手紙だからといって、グランデル側が勝手に内容を読む権利まではない。
封蝋にも乱れはなかった。
「ありがとう。置いてくださいませ」
「はい」
マルタが机の右端へ銀盆を置く。
そのすぐ横には、今朝届いた市場からの書類があった。
比較重量を記した試験帳票。
三商会分の売買記録。
昨日の遠方商会からの発注書。
そして、若い書記が頼んでいた輸送記録の写し。
一番上に王太子の手紙が載ったことで、その机だけを見れば妙な光景になった。
一国の王太子から届いた私信と、穀物袋の重量と荷車の記録。
少し前までなら、どちらを先に開くか考える必要すらなかっただろう。
セラフィーナは市場の書類を一枚だけ脇へ移し、封筒を手に取った。
だからといって、アドリアンの手紙を後回しにしたかったわけでもない。
読まない理由はなかった。
必要以上に避ける方が、まだ彼へ振り回されているようで気に入らない。
封蝋を切る。
便箋を開いた。
最初の一文を読む前に、彼が何を書いているのか、いくつか予想できた。
無事に着いたか。
屋敷に不自由はないか。
同行した者たちは元気か。
必要なものがあれば知らせてほしい。
そして最後には、返事がほしい。
実際、ほとんどその通りだった。
セラフィーナへ。
まず、無事にグランデルへ到着したと報告を受けた。
長い旅だったと思う。君も、同行した者たちも、体調を崩していないだろうか。
滞在先については、こちらで聞ける範囲のことしか分からない。
必要な家具や書籍、薬、衣服など、不自由しているものがあれば知らせてほしい。
王家を通すべきものは正式に手配するし、そうでないものについても、できる限り力になりたいと思っている。
そこまで読んだところで、セラフィーナの指が止まった。
書き方まで予想通りだった。
アドリアンは、自分の行為をなかったことにはしていない。
「僕は悪くなかった」とも書いていない。
追放ではないと誤魔化してもいない。
しかし、彼の中では依然として、自分がセラフィーナを気遣うことと、彼女を国外へ出す決定へ賛成したことが同時に成立している。
実際、成立するのだろう。
人間の感情は契約書ではない。
矛盾した二つが同じ場所にあっても不思議ではない。
彼は本当に心配している。
それくらいは分かる。
むしろ、分かりすぎる。
文章の順番だけで、どこまで考えて書いたのか想像できた。
最初に体調。
次に生活。
政治の話は出さない。
謝罪を繰り返せば、かえって返事を強いるように見えると考えたのかもしれない。
「帰ってきてほしい」と今すぐ書くのも避けている。
セラフィーナがまだ怒っていることくらい、アドリアンにも分かっている。
だから一番答えやすいところから始めた。
無事か。
困っていないか。
必要なものはないか。
長年の関係を切らずに済むように、細い糸だけ残そうとしている。
上手な手紙だった。
だから腹が立った。
セラフィーナは続きを読んだ。
国境の状況は落ち着きつつある。
ノルディアとの実務協議も再開されている。
ただ、君に政治の話をすることが今よいことなのか、自分には分からない。
今は、君が無事でいることだけを知りたい。
落ち着いた時で構わない。
短くてもいい。
返事をもらえたら嬉しい。
最後には署名。
アドリアン。
王太子としての正式な称号ではなく、昔から私信で使ってきた名前だけだった。
セラフィーナは便箋を机へ置いた。
読み終えてすぐ、怒りは湧かなかった。
もうあったからだ。
新しく燃え上がる必要がないくらい、底にきちんと残っている。
以前に届いた手紙とは違う。
あの手紙は、なぜ自分を切ったのか説明するものだった。
彼はそこで、自分をよく知っているからこそ国王へ保証したと認めた。
セラフィーナは国を割らない。
家族を王家へ向けない。
国境、鉄、軍馬、交易を前にすれば、自分一人の婚約を優先しない。
全部、合っていた。
その理解があったから、アドリアンは安心して自分を差し出せた。
あれほど深く傷つけられた相手から、
今度は必要なものがあれば知らせてほしい。
と届く。
彼に悪意はない。
それも分かる。
悪意があった方が、まだ単純だったかもしれない。
「セラフィーナ様」
マルタの声で、セラフィーナは顔を上げた。
まだ彼女がいた。
銀盆を下げるべきか迷っているらしい。
「失礼いたしました。お一人になられますか?」
「いいえ。大丈夫ですわ」
セラフィーナは便箋をもう一度畳んだ。
元と同じ折り目へ戻す。
封筒にも戻した。
乱雑には扱わない。
捨てる理由もない。
これは私信であると同時に、王太子本人から届いた記録でもある。
本人が今、自分との関係をどう考えているのかを示す資料としても価値はある。
それ以前に、何年も隣にいた男から届いた手紙だった。
感情があるから保存してはいけないという理屈もない。
「受領日を記録して、私信の保管箱へ」
「承知しました」
マルタが封筒を受け取ろうとして、少しだけ迷った。
その動きで、次に何を聞きたいのか分かった。
セラフィーナは待った。
マルタは結局、自分から尋ねた。
「お返事は、いかがなさいますか?」
「いたしませんわ」
言葉にしてみても、迷いはなかった。
マルタが目を伏せる。
「……承知しました」
それだけで下がろうとしたため、セラフィーナの方が少し意外だった。
「理由は聞かないのですね」
マルタが足を止める。
「お聞きしてよろしいのでしょうか」
「いいえ」
「では、聞きません」
答えがあまりに素直で、セラフィーナは僅かに口元を緩めた。
「よくできました」
「ありがとうございます」
マルタが今度こそ封筒を持って退出する。
扉が閉じる。
部屋に一人になると、思ったより静かだった。
セラフィーナはペンへ手を伸ばした。
市場から届いた書類の余白へ日付を書く。
そのまま、少し手が止まる。
返信しない。
それだけなら簡単だった。
けれど、自分の中に何もないわけではない。
アドリアンの筆跡を見れば、幼い頃の記憶が出てくる。
王宮の書庫で隣に座っていたこと。
まだ文字の崩し方が今ほど整っていなかった頃。
課題の答えを間違え、悔しそうに消していたこと。
セラフィーナが問いを一つ変えると、自分で答えへ辿り着いて嬉しそうにしていたこと。
褒めれば、王太子として抑えようとしても僅かに表情が明るくなった。
成長してからも同じだった。
難しい外交案件を自力でまとめた時。
地方貴族同士の対立を、どちらも潰さず収めた時。
「どうだった?」
とは聞かない。
けれどセラフィーナを見る。
だから彼女が、
「よくできました」
と言う。
それだけで満足したように次の仕事へ戻っていた。
全部、本物だった。
嘘だったことにすれば楽なのかもしれない。
政治婚でしかなかった。
自分は利用されていただけだった。
最初から信じていなかった。
そう思えれば、手放しやすい。
だが事実ではない。
アドリアンは自分を愛していた。
自分も彼を大切にしていた。
将来、隣にいるものだと考えていた。
彼が国王になった時、どのように支えるかまで考えていた。
だからこそ許さない。
どうでもよい男なら、ここまで腹は立たない。
セラフィーナは目を閉じることなく、机の木目を見ていた。
「あの方は、わたくしのものだったのに」
声にしたのは、それだけだった。
恋人を奪われた女の言葉として聞けば、おそろしく幼稚かもしれない。
だが彼女自身の感情としては、これ以上正確なものがなかった。
幼い頃から隣にいた。
自分が育てた部分もある。
癖も知っている。
考え方も知っている。
何を褒めれば喜ぶかも知っている。
どんな王になりたいのかも知っていた。
その男が、自分を最も理解しているという自負を使って、自分の選択だけを奪った。
それなのに今も、
困っているなら助けたい。
返事がほしい。
と思っている。
彼の中では、自分はまだ手の届く場所にいるのだろう。
国外へ出ても。
婚約を切っても。
王宮から外しても。
傷ついても。
時間が経てば、また話せる。
そう思っている。
それは以前に届いた手紙からも分かっていた。
今日の手紙は、それを改めて証明しただけだった。
セラフィーナはペンを持ち直した。
返信を書こうと思えば、いくらでも書ける。
無事です。
住居にも不自由はありません。
使用人も元気です。
お気遣いありがとうございます。
この程度なら数行で済む。
礼儀としても不自然ではない。
むしろ長年の関係を考えれば、返す方が普通かもしれない。
だから書かない。
怒らせたいからではない。
焦らせたいからでもない。
返事を餌に、アドリアンを操作するためでもない。
今の自分には、彼へ返事をする義務がない。
それが一番大きかった。
婚約者ではない。
王太子妃候補でもない。
北方政策を共に考える相手でもない。
レグリエ王宮へ仕える立場ですらない。
それらを終わらせると決めたのは、自分ではなかった。
ならば、終わった関係の一部だけを、相手の都合で残す必要もない。
政治的立場は失わせる。
婚約もなくす。
帰国も自分だけではできない。
しかし心配だから返事はほしい。
そこだけ以前と同じでいてほしい。
随分と都合のよい話だった。
もちろん、アドリアン本人にその自覚はないだろう。
だから説明してあげる必要もない。
セラフィーナは新しい紙を一枚取り出した。
宛名を書く。
アドリアンではない。
昨日、試験へ参加した三商会のうち、街道商人の商会名。
市場役を経由して届いた確認への返答だった。
比較重量の記載について、次の取引でも使いたい。
市場側で問題がないなら継続してよいか。
という内容。
セラフィーナは必要な範囲だけ答える。
自分には許可する権限はないこと。
試験参加時に合意した条件の範囲なら、少なくとも自分から中止を求める理由はないこと。
正式な継続については市場役へ確認すべきこと。
短い返書を書き終え、封をする。
続いて二通目。
中規模商人からは、別地方の商品でも比較欄を使えるかという質問。
これにも答える。
元の正式数量を消さない。
比較値だけを契約上の数量として扱わない。
検定済みの基準を使う。
その条件を守るなら、試すこと自体は可能だろう。
ただし商品によって重量だけでは品質を比較できないため、麦と同じ結果になるとは限らない。
それだけ。
未来まで保証しない。
三通目は市場役へ。
試験帳票の写しを受け取ったことへの礼。
今後も数日分の記録を見たいという依頼。
書き終える頃には、机の右端にあった未処理の書類がかなり減っていた。
扉が叩かれる。
若い書記が入ってきた。
「失礼いたします。昨日お願いしていた輸送記録の写しが届きました」
「ありがとう」
受け取る。
書記は机の上に並んだ封書を見た。
「もう三通もお返事を?」
「急ぎではございませんけれど、今日返せるものを明日まで置く理由もありませんもの」
「そうですね」
書記が頷く。
彼はアドリアンから手紙が届いたことを知らない。
知らなくてよいことだった。
セラフィーナは輸送記録を開いた。
昨日、帰路の荷台が空になっている車を見た。
だから、公開されている範囲で記録を取り寄せた。
すぐに答えを出すつもりはない。
ただ見る。
街道名。
積荷。
出発地。
到着地。
往路と復路。
何台か並べていくと、やはり気になるものがある。
満載で来て、ほとんど空で帰る荷車。
一台ではない。
しかし、それだけで無駄とは決められない。
帰りに運べる商品がないのかもしれない。
資格の違いかもしれない。
通行料かもしれない。
積み替え時間の問題かもしれない。
商品の情報が間に合わないのかもしれない。
仮説はいくつか作れる。
今はそれでよい。
書記が向かいに座り、記録の整理を始める。
しばらくして、マルタが戻った。
「セラフィーナ様。先ほどのお手紙は記録を付け、保管箱へ収めました」
「ありがとう」
「それから、こちらを発送してよろしいでしょうか」
セラフィーナが書いた三通を指す。
「ええ。お願いします」
マルタは封筒を重ねながら、一瞬だけ動きを止めた。
三通ある。
どれも今日届いた仕事への返事。
それなのに、王太子の手紙への返書はない。
何か思っただろう。
けれど口にはしなかった。
それでいい。
セラフィーナも説明しない。
誰に返事を書くかまで、他人に理解してもらう必要はなかった。
その頃、レグリエの王宮では、アドリアンが執務机へ向かっていた。
北方関連の報告書が積まれている。
ノルディア軍の演習縮小。
鉄価格。
軍馬の出荷予定。
中断していた通商協議。
婚約を解消したことで得られたものは、確かにあった。
国境の緊張は少し下がった。
数字も改善している。
王太子として見れば、何も得ずにセラフィーナを手放したわけではない。
だからこそ、彼は自分の判断を、
すべて間違いだった。
とは思っていなかった。
思えるはずもない。
目の前には、その判断によって守れたものが実際にある。
それでも、書類を一枚処理するたび、ときどき視線が机の端へ向かう。
そこには何もない。
グランデルからの私信は届いていなかった。
発送してまだ日が浅い。
国を跨ぐ普通の手紙だ。
届くまでにも時間がかかる。
届いてすぐ返事を書くとも限らない。
セラフィーナは怒っている。
当然だった。
アドリアンはそれを理解している。
だから急かすつもりはない。
「殿下」
側近に呼ばれ、アドリアンは顔を上げた。
「何だ」
「次の北方会議ですが、オルセーヌ公爵令嬢側から時刻の確認が来ています」
「予定通りで構わない。こちらの資料も先に送っておいてくれ」
「承知しました」
側近が退出する。
アドリアンはまた書類へ目を戻した。
エステルは有能だった。
話も早い。
ノルディア側の事情もよく理解している。
今後の外交窓口として重要になる。
それとセラフィーナは別だった。
比べる必要もない。
セラフィーナは今、グランデルにいる。
少し距離ができただけだ。
状況が落ち着けば話せる。
今は、まだ。
そう考え、次の文書を開いた。
グランデルでは、その同じ時間に、セラフィーナが輸送記録の一行へ指を置いていた。
「この荷車、往路は満載ですのね」
若い書記が確認する。
「はい」
「復路は?」
「空荷、とあります」
隣の行も同じ。
さらにその下も、積載量はかなり少ない。
セラフィーナは数字を見ながら、ごく僅かに笑った。
昨日までは、一袋の重さだった。
今日は、一列の数字が商談を一つ早めた。
そして今、その一列とは別のところで、また何かが見え始めている。
机の奥にある保管箱には、アドリアンからの手紙が一通。
返事はない。
机の上には、グランデルの荷車の記録。
こちらには、まだ答えがない。
けれどセラフィーナが次に時間を使いたいと思ったのは、どちらなのか。
考えるまでもなかった。




