一列だけ足しましょう
市場役が用意した部屋には、三人の商人が集まっていた。
全員が穀物を扱っているが、規模も商売の仕方も違う。
一人は、この市場と周辺の村を中心に売買する商人。
一人は、複数の地方から品を仕入れている中規模の商人。
もう一人は、東西の街道を使って遠方まで荷を出す商人だった。
セラフィーナが三人を選んだわけではない。
昨日、試験への協力を市場役へ頼み、条件に合う者へ声をかけてもらっただけだった。
断っても不利益はない。
参加しても特別な便宜はない。
試す期間も短い。
失うものは、帳簿へ一列増やす手間と、最初に商品を量る時間くらい。
だから三人とも来た。
善意ではない。
何か得になるかもしれないからである。
セラフィーナには、その方がよかった。
「最初に確認いたしますけれど、皆様が普段お使いの数量は何も変えません」
机の上には、昨日まで使われていた取引帳票と、セラフィーナが若い書記に作らせた試験用の帳票が並んでいる。
違いは、一列。
それだけだった。
「こちらの市場で一袋なら、これまで通り一袋と書いてくださいませ。十袋なら十袋。税の計算も契約も、今まで通りです」
地元中心の商人が帳票を持ち上げた。
「じゃあ、この横の欄は?」
「比較するためだけの数字ですわ。市場で検定されている分銅を使って、実際にはどの程度の重さかを書きます」
「その数字で売るわけじゃない?」
「売りません」
「税も?」
「変わりません」
「じゃあ、何のために?」
「他所の商品と比べるためです」
商人はまだ納得していない。
当然だった。
自分の市場では一袋の意味を全員知っている。
わざわざ別の数字を横へ書く理由がない。
セラフィーナは説得しなかった。
「役に立たなければ、数日でおやめくださいませ」
「それだけ?」
「ええ」
「こっちは帳面を書く手間が増えるんですが」
「ですから、嫌なら参加なさらなくて結構ですわ」
男が目を瞬いた。
市場役も少し困った顔をした。
協力を求める側が、ここまであっさり断ってよいと言うとは思っていなかったらしい。
東西の街道を使う商人が、低く笑った。
「公爵令嬢の頼みじゃなかったのか」
「お願いではありますけれど、命令ではございませんもの」
「それじゃ、誰も使わなかったら?」
「失敗だったと分かりますわね」
セラフィーナは平然と答えた。
「それも結果の一つでしょう?」
その言葉で、三人の空気が少し変わった。
少なくとも、この外国令嬢が自分の思いつきを市場へ押しつけに来たわけではないことは伝わったらしい。
部屋の隅ではアルノーが記録を取っている。
レオナールも来ていた。
彼は市場側から試験の報告を受け、自分の目で見ることにしたようだった。
口は出さない。
止める必要も、助ける必要もないと判断しているのだろう。
その態度もセラフィーナには都合がよかった。
試験用の帳票を作るため、三人が持ってきた商品の一部を市場の計量台へ移す。
袋には、それぞれ地方の印がある。
市場役と計量担当が正式な分銅を確認し、順番に量る。
セラフィーナ自身は秤へ触れなかった。
どの分銅が正式か。
秤をどう扱うか。
その仕事は現地の担当者の方が詳しい。
彼女がするのは、出てきた数字がどこへ繋がるのかを見ることだった。
若い書記が帳票へ記入していく。
当地の正式数量。
価格。
産地。
そして比較重量。
地元商人の商品は、当然ながら比較欄がなくても地元の人間には分かる。
しかし別地方から来た袋を横へ置くと、話が変わった。
中規模商人が二枚の帳票を見比べる。
「こっちの方が一袋は安いが……」
指で比較重量を追う。
「同じだけ買うなら、こっちの方が高いのか」
「昨日、わたくしも同じことをしましたの」
セラフィーナが答える。
「値札だけでは分かりませんでしたわ」
「でも俺たちは、慣れてりゃ大体分かりますよ」
「ええ。皆様は」
商人が顔を上げる。
セラフィーナはそこで止めた。
その先は言わなくても分かる。
この市場に慣れている者なら、袋の印を見ればおおよその違いを知っている。
では、別の土地から来た買い手は。
毎回この市場へ来るわけではない商人は。
初めてこの地方の商品を仕入れる者は。
彼らまで同じ知識を持っているとは限らない。
街道商人が帳票を眺めた。
「遠方へ出す時には使えるかもしれんな」
地元商人が鼻を鳴らす。
「向こうでまた向こうの単位に直すんだろ。手間が一つ増えるだけじゃないか」
「そうなる可能性もございます」
「否定しないんですか」
「まだ試してもおりませんのに、なぜ否定できますの?」
地元商人は何も言わなくなった。
セラフィーナは三人の反応を覚えた。
誰が正しいかは、まだ分からない。
地元商人の言う通り、単に数字を増やしただけで終わる可能性もある。
遠方の商人には便利でも、地元取引では邪魔になるかもしれない。
商品の種類によっては、重量だけ比べても意味がないものもある。
だから範囲を限定した。
だから短期間にした。
使い方まで決めなかった。
紙の上に一列増やしただけなら、失敗しても捨てれば済む。
午前の作業が終わる頃には、三人分の試験帳票ができていた。
市場役が言う。
「では、数日使ってみて、また――」
その言葉が終わる前に、廊下から職員が顔を出した。
「失礼します。ハルネ街道の商会から、見積もりの問い合わせが三件」
街道商人が眉を上げた。
「今日だったか?」
「予定より早いようです。麦の仕入れ先を探しているそうで」
男が立ち上がる。
「戻らないとまずいな」
市場役が苦笑した。
「ちょうどいいんじゃないか」
セラフィーナもそう思った。
予定していた実験より早い。
しかし条件としては悪くない。
三人とも似た商品を扱っている。
買い手は遠方。
しかも一つの商会が複数の売り手へ同時に見積もりを求めている。
比較欄が役に立つかを見るには十分だった。
ただし、セラフィーナから何か指示する必要はない。
「皆様、普段通りお返事なさってくださいませ」
街道商人が試験帳票を持ち上げた。
「これも送っていいのか?」
「お好きに」
「比較欄まで?」
「そのための試験ですもの」
地元商人は自分の帳票を見てから、首を振った。
「俺はいつもの形式で出しますよ。向こうも商人なんだ。必要なら聞いてくるでしょう」
「承知しました」
セラフィーナは止めなかった。
比較欄を使う者。
使わない者。
両方がいた方が、違いは分かりやすい。
結果が同じなら、欄を増やす価値がない。
それもまた答えだった。
昼を過ぎた頃、最初の返事が来た。
試験用の帳票を送った街道商人へは、そのまま購入希望数量と納期について問い合わせが返ってきた。
中規模商人にも同じだった。
地元商人へ届いた返事だけ、内容が違う。
市場役が読み上げる。
「『提示された一袋あたりの価格について、当方基準へ換算するため、一袋あたりの実重量または公的換算証明を提示されたし』」
部屋が少し静かになった。
地元商人は眉間に皺を寄せた。
「だから、聞いてきただけでしょう。返せば済む」
「そうですね」
セラフィーナは同意した。
質問が一往復増えただけ。
まだ大きな差ではない。
地元商人は計量担当へ確認を頼み、返答を作り始めた。
間違ってはいない。
これまでずっと、その方法で商売をしてきた。
問題なく成立してきたから、今も続いている。
セラフィーナも、そのやり方を笑う気はなかった。
ただ、時計だけが進んだ。
遠方の買い手は一社だけではないらしい。
午後になると、街道商人へもう一通届いた。
提示した数量なら、第一便を三日後に出せるか。
中規模商人へは、価格の微調整を求める返書。
二人とも交渉が次の段階へ進んでいる。
地元商人は、ようやく比較用の重量を確認して送り返したところだった。
若い書記が、その差へ気づいてセラフィーナを見た。
セラフィーナは何も言わない。
まだ決まってはいない。
一往復遅れたからといって、商談を失うとは限らない。
地元商人の方が品質で勝つかもしれない。
値引きするかもしれない。
在庫量で有利かもしれない。
未来は一つではない。
夕方近くになって、三通目の返事が届いた。
市場役が封を切る。
街道商人の方を見る。
「あなたのところへ、第一便分の発注です」
男が口元を緩めた。
「量は?」
読み上げられた数字を聞き、すぐ商売の顔へ戻る。
大口ではない。
しかし試験としては十分な量。
中規模商人には次の便の候補として交渉継続。
地元商人への返事もあった。
市場役が少し困ったように言う。
「今回は、先に条件の揃った二社から検討する、と」
地元商人の顔が固まった。
「価格なら、うちの方が少し安い」
「一袋当たりでは」
街道商人が言いかける。
地元商人が睨んだ。
市場役が慌てて口を挟む前に、セラフィーナが穏やかに言った。
「安いかどうかを、先方が最初の見積もりだけでは判断できなかったのでしょうね」
地元商人がセラフィーナを見る。
「たった一回、確認が遅れただけで?」
「今回については、そう見えますわ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿とは思いません」
セラフィーナは本当にそう思っていなかった。
買い手には複数の候補があった。
同じ日に情報が届いた。
二つは比較できた。
一つは追加確認が必要だった。
なら、比較できる二つから先に話を進める。
十分に合理的である。
「先方は、あなたを嫌って選ばなかったわけではございません。条件の分かる相手から先に話を進めただけでしょう」
「でも、こっちは悪い商品を売ってない」
「ええ」
「値段だって負けてない」
「そうでしょうね」
男の不満は正しかった。
商品は悪くない。
価格も悪くない。
だからこそ、今回の差がはっきりする。
負けたのは商品ではない。
情報が揃うまでの速さだった。
レオナールが、朝からほとんど口を出さずに見ていた場所から言った。
「買い手には、待つ理由がなかった」
地元商人が黙った。
レオナールは責める調子ではない。
「お前の店が悪いんじゃない。他にも買える店があって、そっちは最初から判断できた。それだけだ」
男はすぐには納得しなかった。
それでも反論もしなかった。
自分が詐欺をしたわけでもない。
怠けたわけでもない。
ただ従来通りの見積もりを出した。
先方が追加確認を求めた。
答えている間に、別の相手との話が先へ進んだ。
原因が自分の目の前にあるだけに、誰かを責めにくかった。
しばらくして、男は試験帳票を取り上げた。
「これ、明日も使っていいんですか」
セラフィーナは答えた。
「もちろん」
「試験が終わるまで?」
「その後も使いたければ、市場側とご相談なさってくださいませ。わたくしの帳票ではございませんもの」
男が怪訝そうな顔をする。
「あなたが作ったんでしょう」
「一列増やしただけですわ」
「でも――」
「使うのは皆様でしょう?」
男は口を閉じた。
セラフィーナは、そこで勝ち誇る言葉を重ねなかった。
必要ない。
現実がすでに答えを出した。
使わなくてもよい。
男はそう選んだ。
結果、商談の開始が一歩遅れた。
だから今度は使う。
それも本人の選択だった。
その方が長く残る。
命じられた便利さより、自分で損をしたあとに選んだ便利さの方が、人は手放しにくい。
ただし、そのことまで教えるつもりはなかった。
市場役が試験帳票を三枚並べる。
「これだけで差が出るとは思いませんでした」
「今回、たまたま急いでいた買い手だった可能性もございますわ」
セラフィーナは答えた。
「一件だけで制度の価値を決めるのは早すぎます」
地元商人が意外そうな顔をした。
自分が負けた結果を、そのまま大成功の証拠へ使われると思っていたのだろう。
しかしセラフィーナにとって、都合のよい一例だけを掴んで結論を急ぐ方が危険だった。
今回分かったのは一つ。
遠方の買い手が複数の候補を比較する場面では、最初から同じ尺度へ直した数字がある方が、少なくとも商談を早く進められる。
それだけ。
それでも十分だった。
昨日までは仮説。
今日は結果が一つ増えた。
次は、どこで同じ数字が役に立つかを見ればいい。
レオナールが帳票の一列を指した。
「昨日、これを考えた時に、今日みたいになると思っていたのか?」
「可能性の一つとしては」
「可能性?」
「買い手が比較しやすくなるのは分かっておりました。でも、皆様がすでに十分早く換算できるなら、ほとんど差が出ない可能性もございましたわ」
「じゃあ、分からなかった?」
「ええ」
「それでもやった」
「失敗しても紙が少し増えるだけでしたもの」
レオナールはしばらくセラフィーナを見た。
その視線には昨日より強い警戒がある。
同時に、少し違うものも混じっていた。
評価ではない。
まだそこまで早くない。
ただ、次にこの女が何かを提案した時、少なくとも「外国から来たばかりで何も知らない」とだけ考えることは難しくなった。
その程度。
それで十分だった。
「明日は何を試す?」
レオナールが尋ねた。
セラフィーナは首を傾けた。
「なぜ、明日も何か試すと思いますの?」
「違うのか?」
「まだ決めておりませんわ」
嘘ではない。
すでに目についた数字はいくつかある。
今日の帳票にも、興味深いところがあった。
三人の商人が提出した輸送費。
市場まで荷を運んできた距離。
そして、荷車が帰る時の記録。
ただし、まだ見ていない。
数字だけで決める気もない。
セラフィーナは試験帳票を若い書記へ渡した。
「本日の分は、昨日の帳簿と一緒に保管してくださいませ」
「はい」
「それと、三商会の輸送記録も、公開されている範囲で写しをいただけるか確認を」
レオナールの眉が動く。
「今度は輸送か?」
「まだ分かりませんわ」
「何か見つけた顔をしているが」
「数字が一つ気になっただけですもの」
それ以上は話さなかった。
深い理由は、まだ彼女自身にも確定していない。
確認して違えば捨てる。
合っていれば使う。
それでいい。
屋敷へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
若い書記は馬車の中でも、何度か試験帳票を見返していた。
「本当に一列だけでしたね」
「何がですの?」
「朝、市場へ行く時です。もっと何か変えるのかと思っていました」
税も変えていない。
袋も変えていない。
市場規則も変えていない。
商人へ命令もしていない。
一列。
それだけ。
それでも一件の商談では、返事の順番が変わった。
セラフィーナは窓の外へ目を向けた。
街道を行く荷車が何台か見える。
荷を積んで市場へ向かうもの。
市場から出ていくもの。
その中に、荷台がほとんど空の車が一台あった。
視線だけを向ける。
まだ何も決めない。
ただ覚える。
「大きく変える必要がない時に、大きく変えるのは無駄ですわ」
若い書記が頷く。
「一列で足りるなら、一列でよいと?」
「ええ」
セラフィーナは、空の荷台が遠ざかっていくのを見送った。
そして静かに付け加えた。
「もっとも、一列が一つの仕事しかしてくれないとは限りませんけれど」
若い書記が振り返った時には、セラフィーナはもう別の資料へ視線を落としていた。




