監視役はよく見ている
グランデルで迎えた最初の朝、セラフィーナは昨日受け取った監察条件書をもう一度開いた。
今日することは、町を見ること。
衣食住に必要な物を買い足し、レグリエから持ち込んだ貨幣の一部をグランデルの貨幣へ換え、長く暮らすことになった場合に使える商店や業者を確認する。
どれも日常生活の範囲であり、監察局へ許可を求める必要はない。
ただし、大きな資金移動へ発展する可能性があるなら事前に知らせておいた方が後から説明する手間が少ない。
セラフィーナは書記へ一枚の紙を渡した。
「今日の予定だけ、監察局へ届けてくださいませ」
書記が目を瞬いた。
「申告が必要なのですか?」
「買い物だけなら不要ですわ。ただ、両替は金額によって対象になる可能性があります。どこから大口扱いになるのか確認しておいた方がよいでしょう?」
「承知しました」
必要でない報告まで大量に送れば、相手の仕事を増やす。
だから必要性が曖昧なものだけ先に確認する。
十分もしないうちに返答が来た。
当面の生活費として常識的な範囲を両替するだけなら事前申告不要。
その額を大きく超える場合には記録が必要。
具体的な基準額も添えられていた。
「分かりやすいですわね」
セラフィーナは紙を保管箱へ入れた。
自分が守るべき線が明確なら、越えないことは難しくない。
屋敷を出る時、門の近くには監察局の人間が一人いた。
アルノー本人ではなく、昨日も詰所にいた若い補佐官だった。
こちらを隠れて見る気はないらしく、目が合うと普通に会釈する。
セラフィーナも同じように返した。
マルタが小声で尋ねる。
「ずっとついて来るのでしょうか」
「監察ですもの」
「気になりませんか?」
「昨日も申し上げたでしょう?好きではありませんわ」
セラフィーナは歩きながら答えた。
「でも、あの方がいなくなったところで、わたくしの用事は何も変わりません」
それ以上は話さなかった。
監察官へ見られているから清廉に振る舞うのではない。
今日する予定だったことを、そのままするだけだった。
屋敷から町の中心までは歩いて十分ほどだった。
国境に近い町だからか、街道沿いには宿屋と馬具店が多く、商店の看板にもレグリエで見慣れた文字が混じっている。
行商人の馬車も目立った。
昨日、国境から来る途中で見た印象と同じだった。
物がない国には見えない。
少なくとも、この町には品物がある。
それ以上の結論はまだ出さなかった。
最初に向かったのは両替商だった。
レグリエ貨幣のままでも国境付近なら支払いに使えるが、日々の買い物まで外国貨幣で続ければ、店ごとに換算方法が変わって面倒になる。
店の外には、その日に扱う主要貨幣の換算表が掲げられていた。
セラフィーナは立ち止まり、ざっと目を通す。
レグリエ金貨。
ノルディア銀貨。
グランデル国内の金貨と銀貨。
それぞれ買値と売値が書かれ、その横へ手数料が記されている。
数字を覚えてから店へ入った。
主人はセラフィーナを見ると、一瞬だけ目を見開いた。
服装だけでも貴族だと分かる。
その後ろには護衛と侍女がいて、店の外には監察局の補佐官までいる。
「アルディエール公爵令嬢でいらっしゃいますか」
噂はすでに届いているらしい。
「ええ。レグリエ貨幣をこちらの貨幣へ換えたいのですが」
「もちろんでございます」
主人は急に愛想を良くした。
持ち込んだ額を聞き、計算板を使って交換後の金額を示す。
セラフィーナはそれを見た。
外に掲示されていた換算率より悪い。
手数料を加味しても合わなかった。
「こちらは、何か追加の費用が含まれております?」
主人の笑みがほんの少し固くなる。
「外国から持ち込まれた貨幣ですので、鑑定費が必要となります」
「レグリエ金貨には一律で?」
「はい。最近は国外貨幣の扱いも難しくなっておりますので」
セラフィーナは店の入口を振り返った。
「外の掲示には、鑑定費込みと書いてあったと思いますけれど」
主人も入口を見る。
看板はそこにある。
「そちらは通常のお取引の場合でございまして」
「今日は通常ではない?」
穏やかに尋ねた。
主人の視線が一瞬、店の外にいる監察局の補佐官へ向かう。
「公爵令嬢ほどのお客様になりますと、扱う額も大きくなりますので」
「今日お願いするのは、先ほど申し上げた額だけですわ」
監察局から、事前申告を要しない通常範囲だと確認済みの額でもある。
大口ではない。
主人も、その程度の金額で特別な鑑定作業など必要ないことは分かっているはずだった。
セラフィーナは抗議を続けなかった。
「分かりました。では、その条件を書面でいただけますか?」
主人の表情が変わった。
「書面、ですか」
「ええ。換算率と手数料と、通常掲示とは別に必要となる鑑定費を記載したものを」
「そこまでなさらなくとも、信用していただければ」
「信用するために記録があるのでしょう?」
責める口調ではなかった。
セラフィーナにとって、契約条件を書かせるのは特別な行為でもない。
主人は何か言おうとしたが、外の補佐官をもう一度見たあと、
「少々お待ちください」
と奥へ引っ込んだ。
戻ってきた時には計算が変わっていた。
「確認いたしましたところ、今回は通常の掲示条件でお受けできるようでございます」
随分早く鑑定費が不要になった。
マルタの眉が僅かに動いた。
セラフィーナは笑わなかった。
「そうですか」
「はい。先ほどは私どもの確認不足で」
「では、先ほどの条件は取り消しということですね」
「もちろんでございます」
主人が新しい計算を示す。
今度は掲示と一致している。
十分に妥当な金額だった。
そのまま交換しても損はない。
けれどセラフィーナは金貨を戻した。
「ありがとうございました。他のお店も見てから決めますわ」
主人が慌てる。
「公爵令嬢、お待ちください。こちらでさらに手数料を」
「必要ありません」
「ですが」
「最初のお話も、今のお話も、どちらも正式な契約前ですもの。条件を比べて選ぶことに問題はございませんでしょう?」
正しかった。
値切っていない。
脅してもいない。
公爵家の名で処罰を要求してもいない。
ただ、最初に提示された条件が好ましくなかったので、他店を見ると決めただけだった。
主人にそれを止める権利はない。
店を出る。
少し歩いたところでマルタが耐えきれなくなったように口を開いた。
「最初から、高く取ろうとしていましたよね?」
「その可能性は高いでしょうね」
「怒らないのですか?」
「なぜ?」
「追放されたから、土地勘もないと思って」
「それで実際に高い条件へ同意していたなら、こちらにも確認不足はございますもの」
マルタは納得できない顔をした。
「でも、騙そうとした方が悪いです」
「ですから、契約しませんでしたわ」
それで十分だった。
あの店へ罰を与える必要はない。
一度余分に取ろうとした商人が、一件の大きな取引を失った。
その結果が気に入らなければ、次から別の条件を出せばよい。
「それに」
セラフィーナは少し先の店を見る。
同じように両替の看板が出ている。
「最初の店だけで決めなかったおかげで、この町の相場も少し分かりますでしょう?」
二軒目では、外の掲示と同じ条件が最初から提示された。
鑑定費という別名の料金もない。
ただし、最初の店より売値と買値の差が僅かに大きかった。
三軒目は両者の中間だったが、一定額以上なら手数料を低くする仕組みがあるという。
セラフィーナは三軒とも条件を書いてもらった。
最終的には二軒目を選んだ。
最大額だけを見るなら三軒目の方が安くなる。
けれど今日換える程度の額なら、二軒目の方が条件がよかった。
大金を一度に替える必要もない。
資金の置き場所を一つへ集中させる理由もなかった。
最初の店から追いかけてくる者はいない。
セラフィーナは予定していた額だけを交換し、受取証を確認して書記へ渡した。
少し離れた場所で、監察局の補佐官が何かを書いている。
見れば分かる。
見られている。
それでも、セラフィーナは何も言わなかった。
昼前まで町を歩いた。
食料品。
紙。
インク。
使用人たちの日用品。
必要な物を順に買う。
その途中で、セラフィーナは同じ種類の商品でも店によって表示の仕方が違うことに気づいた。
ある店では布を長さで示し、別の店では一巻単位で値を付けている。
穀物袋にも、見慣れない印がいくつかあった。
「これは何の印です?」
穀物店で尋ねる。
店主が袋の端を示した。
「この町の計量所の印ですよ」
「こちらは?」
隣の袋には別の形がある。
「東の領から来た品です。向こうの計量印ですね」
「同じ大きさの袋ではないの?」
「少し違います」
店主は特に困った様子もなく答える。
「中身で計算し直せますから、珍しくはありませんよ」
セラフィーナはそれ以上質問しなかった。
珍しくない。
今は、その事実だけ覚えておけばいい。
違う印がある理由も、それがどの程度不便なのかも、まだ知らない。
一軒の穀物店だけで国全体の仕組みを分かったつもりにはならなかった。
午後には屋敷へ戻った。
門を入る前に、監察局の補佐官が近づいてきた。
「本日の行動について、いくつか確認してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「最初の両替商についてですが、何か申し立てをなさる予定はありますか」
「いいえ」
補佐官が少し意外そうにする。
「通常掲示と異なる条件を提示されたと認識しておりますが」
「わたくしもそう思います」
「では、なぜ?」
「契約しておりませんもの」
被害は出ていない。
提示条件を断っただけだ。
「もし監察局側で問題だと思われるなら、あなた方の権限で確認なさってください。わたくしから処罰を求めることはございません」
補佐官は手元の帳面へ何かを書いた。
「提示された条件を書いた書面は?」
「いただけませんでした。正式な契約条件へ変更されたので」
「承知しました」
質問はそこで終わった。
監察官側が何をするかは彼らの問題だった。
セラフィーナは、両替商を利用して監察局へ恩を売ろうとも思わない。
逆に見逃してやったという形で商人へ恩を売る気もない。
どちらも今のところ価値が分からない。
だから余計なことはしない。
屋敷へ入ると、午前中に買った品の帳簿が書記によってまとめられ始めていた。
セラフィーナは受取証を一枚ずつ渡し、
「監察対象にならない普通の支払いでも、当面は全部残しておきましょう」
と言った。
書記が顔を上げる。
「監察局へ提出するためですか?」
「求められた時に説明できるようにするためです。提出を求められなければ、こちらの帳簿として使えばいいでしょう?」
どちらに転んでも無駄にならない。
それがいい。
「分かりました」
書記が作業へ戻る。
セラフィーナも机へ座り、今日見たことを短く書き留めた。
両替条件は店ごとに差がある。
外国貨幣は普通に扱われている。
穀物袋の計量印が地域ごとに違うらしい。
それだけだった。
原因を書かない。
改善案も書かない。
今はまだ、何も知らないからだ。
夕食前に、アルノー本人が屋敷へ来た。
事前連絡はなかった。
昨日決めた規則の範囲内なので、セラフィーナは普通に応接室へ通した。
「本日の確認です」
「どうぞ」
アルノーはまず、両替額を確認した。
事前申告基準より下。
受取証あり。
交換先も営業登録された両替商。
問題はない。
次に、町で会話した人物について聞く。
両替商。
穀物店主。
紙屋。
どれも政治的接触ではない。
「最初の両替商で、非公開の条件提示があったと報告を受けています」
アルノーが言った。
補佐官はよく見ていたらしい。
「非公開というほどではありませんわ。掲示より高い費用を求められただけです」
「通常条件ではないことは認識していた?」
「ええ」
「なぜ、その場で監察担当へ知らせなかったのです」
セラフィーナは少し考えた。
質問の意味を取り違えないためだった。
「わたくしの監察と、町の商取引監督は別のお仕事ではありません?」
アルノーは黙る。
「わたくしが規則違反を求められたなら、その場でお伝えしました。でも、単に高い条件を出されたので契約しなかっただけなら、まずは商人と客の問題でしょう?」
「監察官を利用して値段を下げようとは思わなかった?」
「それをしたら、監察ではなく護衛付きの値引き交渉になってしまいますわ」
アルノーの表情がほんの少し変わった。
セラフィーナは続けない。
自分が正しいと説明して褒めてもらう必要はない。
アルノーは手元の記録を見る。
「その後、三店舗を比較して二店目を選んだ」
「はい」
「最も安い店ではなく?」
「今日の交換額では二店目が最も安かったので」
「三店目は一定額以上なら手数料が低い」
「よくご覧になっていますのね」
嫌味ではなかった。
本当にそう思った。
監視役は、ただ後ろから歩いていただけではないらしい。
何を見て。
何を聞き。
どの条件で取引が成立したかまで確認している。
アルノーは褒められたとも受け取らなかったようだった。
「それが仕事です」
「良いことですわ」
そこで会話は終わった。
アルノーは帳簿の提出を求めなかった。
必要ないからだろう。
かわりに、
「明日以降も通常の買い物について報告は不要です。今回確認したのは入国直後だからです」
と告げた。
「分かりました」
「国外通信については?」
「まだ行っておりません」
「使用予定は?」
「通常郵便については、家族への到着報告を出します。魔術通信は方式を確認してからにします」
「誰宛てです」
「父と母へ」
事実だけを答えた。
ノルディアのことは聞かれていない。
自分から足す必要もない。
アルノーは数項目を書き、立ち上がった。
「今日は以上です」
「お疲れさまでした」
監察官が出ていく。
扉が閉まってから、マルタが小さく息を吐いた。
「何だか、尋問されているみたいです」
「半分はそうでしょうね」
「嫌ではないのですか?」
「嫌ですわよ」
セラフィーナは素直に答えた。
「でも、きちんと見てくださる方ならまだ扱いやすいでしょう?」
マルタが首を傾げた。
「扱いやすい?」
「見ていないことまで決めつける方より、という意味です」
それだけだった。
アルノーを味方にしようとは考えていない。
味方にする必要もない。
敵である必要もなかった。
ただ、見たことを見た通りに扱う人間なら、その方が良い。
セラフィーナは今日の帳簿へ最後の受取証を挟んだ。
同じ頃、町の監察局臨時執務室では、アルノーが最初の定期報告を書いていた。
レグリエから受け取った資料は机の左側に置かれている。
『高い政治的影響力を有する』
『使用人、商人、慈善関係者に対する強い人心掌握能力』
『国外退去後の政治的行動には注意を要する』
表現は慎重だった。
犯罪者とは書かれていない。
それでも、読む者が警戒するには十分な内容だった。
アルノーも警戒していた。
今もしている。
今日一日で信用したわけではない。
公爵令嬢一人が規則を守って買い物をした程度で、危険性が消えるはずもない。
ただ。
事実として記録しなければならないことがあった。
監察条件に自ら確認を入れ、曖昧な権限だけを修正したが、監察そのものの解除は要求していない。
通常の買い物について不要な特権を要求していない。
両替商から不利な条件を提示された際にも、監察官の立場を利用して値下げさせていない。
複数店舗を比較し、自分で契約先を選んだ。
全取引に受取証を残している。
国外通信は登録条件を確認するまで停止している。
アルノーはそこまで書いた。
最後に、報告欄の一つへ目を移す。
『現時点で確認された危険行動』
ペンが止まった。
何も書かなければ、見落としたと思われるだろうか。
だからといって、政治的影響力が高いというだけで、今日していない行動を書くわけにもいかない。
しばらく考えたあと、アルノーは一行だけ記した。
『本日、監察条件への違反及び回避行動は確認されず。引き続き観察を要する』
それで報告を閉じた。
味方になったわけではない。
疑いを捨てたわけでもない。
ただ監察官として、存在しなかった事実を書くつもりはなかった。
翌朝その報告がセラフィーナへ知らされることはない。
彼女自身も、アルノーが何を書いたのか知ろうとはしなかった。
知らなくてよかった。
町で何を買い、誰と話し、何を選んだか。
見たい者には、これからいくらでも見せればいい。
セラフィーナが隠したいのは、そういうものではなかった。
彼女はまだ、レグリエにもノルディアにも何一つ手を伸ばしていない。
それでも昨日までと違い、彼らを許して元の場所へ戻る未来は、もう彼女の中に存在していなかった。
監視役はよく見ている。
だからこそ、いつか最初に気づくのも、彼なのかもしれない。
この女が何かを隠しているから危険なのではなく、隠す必要のある違反をほとんど何もしないまま、それでも誰より遠い場所へ進んでいける女なのだということに。




