二つとも、いりませんわ
出国を翌日に控えた朝、レグリエ王室から一通の書簡が届いた。
セラフィーナは朝食を終えたばかりで、自室の執務机には旅費の帳簿と持ち出す資産の一覧が広げられている。
王家の封蝋を確かめてから開封すると、国外退去後の扱いについて三つの条件が記されていた。
第一に、国外滞在中、レグリエ王国へ対する軍事行動へ加担しないこと。
第二に、王太子妃教育その他の公務を通じて知り得た国家機密を、許可なく第三国へ提供しないこと。
第三に、レグリエ王国の外交上または経済上の利益を著しく害する行為へ関与しないこと。
これらを遵守する場合、両国関係が十分に安定した後、将来的な帰国許可について検討する余地を残す。
最後には、セラフィーナ本人の署名欄があった。
彼女は一度読み終えてから、三項目目だけをもう一度読んだ。
その間に父が訪れた。
同じ文書が公爵家当主宛てにも届いたらしく、父の手にも王家の封筒がある。
「読んだか」
「ええ」
「三つ目には署名するな」
随分早かった。
セラフィーナは少し笑う。
「お父様と意見が一致しましたわね」
「範囲が広すぎる。国外へ出した人間へ、今後もレグリエの利益を優先しろと言っているのと変わらん」
その通りだった。
第一項目に問題はない。
セラフィーナは軍を集めて国境を越える予定など持っていないし、仮に今後誰かと軍事について話すことがあっても、レグリエへ攻め込まないという約束だけなら不利益は小さい。
第二項目も同じだった。
正式な立場を通して知った秘密を腹立ち紛れに売るような真似は、王家のためではなく自分自身の信用のためにしない。
けれど第三項目は違う。
何をもって王国の利益を害したとするのかが書かれていない。
例えばグランデルの商人と正当な契約を結び、その商人がレグリエの競合より安く品を売れば、結果だけを見て経済上の利益を害したと言うこともできる。
グランデルの役人から意見を求められて答え、その政策がレグリエへ不利に働けば、外交上の利益を害したと解釈する余地もある。
しかも期限がない。
「最初の二つには署名します」
セラフィーナは新しい紙を用意した。
「三つ目については、禁止する行為と期間を具体的に定めていただければ、その内容を見て改めて判断すると返しますわ」
父が眉を上げる。
「全部突き返すかと思った」
「なぜ?」
「怒っているからだ」
「怒っていることと、必要な約束まで拒むことは別ですもの」
その程度で判断を雑にするつもりはなかった。
むしろ今後、王家と何かを争うことになった時こそ、守った約束は多い方がいい。
破った約束が一つもなければ、相手がこちらを責めるために使える材料も減る。
セラフィーナは返書を書いた。
第一項目及び第二項目については遵守を約す。
第三項目については、適用範囲と期間が明示されていないため現状では同意できない。
具体的条件が提示された場合には改めて検討する。
それだけだった。
恨み言は書かない。
追放に対する抗議もない。
国への忠誠を誓う言葉もない。
父が読み終える。
「綺麗なものだな」
「何が?」
「怒っている女の手紙には見えん」
セラフィーナは穏やかに笑った。
「怒っている女の手紙に見せる必要がございまして?」
父が一瞬だけ黙った。
それ以上は聞かなかった。
返書を届けるため、王宮から来ていた使者が呼ばれた。
書類を受け取った男は、その場で内容を確認するよう命じられていたらしい。
第三項目へ署名がないことに気づくと、困ったように顔を上げた。
「恐れ入ります、アルディエール公爵令嬢。第三条へのご署名が確認できません」
「ええ。理由も返書へ記しております」
「こちらは、将来的な帰国許可を検討するための条件と伺っております」
「承知しておりますわ」
「ご署名がなければ、帰国について不利になる可能性がございますが」
「それも承知しております」
使者は少し待った。
続く言葉を期待しているらしい。
セラフィーナは何も足さなかった。
帰りたいから条件を狭くしてほしいとも。
帰るつもりがないから拒否するとも。
言わない。
沈黙に耐えきれなくなったのは使者の方だった。
「……それでも、第三条には?」
「現状では署名いたしません。何を禁止されるのか分からない契約へ署名する習慣がございませんので」
声は柔らかかった。
使者に責任はない。
困らせる理由もなかった。
「王室から具体的な条件をいただければ、内容はきちんと拝見いたします」
「承知いたしました」
使者は返書を持って退出した。
扉が閉まる。
これで王家が用意した三本の紐のうち、二本だけはセラフィーナ自身の意思で結ばれた。
残り一本は結ばれていない。
それだけのことだった。
けれど王家が欲しがったのは、おそらくその一本の方だった。
軍を率いて祖国へ攻め込まない。
機密を売らない。
そんな約束より、国外にいるセラフィーナが今後もレグリエより強くなるものへ手を貸さないという保証の方が、遥かに使い道がある。
だから曖昧に書いた。
狭く書けば、狭くしか使えないからだ。
セラフィーナはそこまで考えたが、父へ説明はしなかった。
必要がない。
「帰る道を狭くしたぞ」
父が言う。
「そうですわね」
「気にならないのか」
少し考える。
「今は、帰る道より自由に歩ける道の方を広くしておきたいですわ」
それだけ答えた。
父は娘を見たが、それ以上は問わなかった。
昼前になって、マルタが一枚の薄い通信紙を持ってきた。
ノルディアからの新しい指示だった。
普段はほとんど白紙にしか見えない紙である。
マルタが専用の顕字薬を指先へ薄く塗り、紙の隅にある小さな印へ触れると、それまで何もなかった紙面へ文字が浮かび上がる。
薬品そのものが情報を運んでいるわけではない。
通信紙へ組み込まれた術式を開き、遠隔側から送られた短い文字を見える状態にするための鍵だった。
侍女が大仰な通信具を隠し持つ必要もなく、短い報告や指示なら素早く往復させられる。
マルタがこれまでノルディアとの連絡へ使っていたものだった。
以前からの同行命令に加え、セラフィーナがレグリエ国外へ出た後の対応について、内容が増えている。
『対象は王家及び王太子に対し、強い失望または反感を抱いている可能性が高い。感情を否定せず、発言を収集せよ』
そこから先が新しかった。
『対象がレグリエとの関係修復を望んでいないと判断した場合、ノルディア王国は対象個人を敵視していない旨を伝達してよい』
さらに続く。
『本人が希望する場合、安全な居所、相応の身分及び生活上の保障を用意できる可能性がある。レグリエへの反感を利用するような露骨な接触は避け、本人の意向を慎重に確認すること』
随分丁寧だった。
無能な相手なら、
祖国に捨てられたのでしょう、こちらへ来なさい。
くらいは言ったかもしれない。
ノルディアはそこまで雑ではない。
追放直後の人間へ露骨な勧誘をすれば警戒されると分かっている。
時間を置く。
不満を聞く。
自分たちは敵ではないと示す。
その後に安全と身分を提示する。
筋の通った接触方法だった。
そして指示は、そこで終わっていなかった。
マルタがもう一度、顕字薬のついた指を紙へ触れさせる。
下段へ新たな文字が浮かんだ。
『グランデル入国後、現在の通信紙は使用するな。対象への同行及び観察を優先し、現地連絡員から接触があるまで送信を保留せよ』
セラフィーナはその一文を読み、マルタを見る。
「使えなくなるのですか?」
「いいえ。通信そのものは届くそうです」
「では、なぜ?」
「グランデルでは、国外へ直接つながる魔術通信は登録と監察の対象になると聞いています。これを届け出ずに使えば、秘密通信として問題になる可能性があるそうです」
なるほど。
技術的に通信できなくなるわけではない。
使えば危険になる。
それだけだった。
セラフィーナはもう一度、通信紙へ目を落とした。
ノルディアも、国外ならどこでも同じ通信手段が使えるなどとは考えていないらしい。
それでもマルタへ同行を命じた。
毎日報告を受けることより、自分の生活圏へ自然に入り込んでいる観測者を失わない方を優先したのだろう。
一度離れた侍女を、追放後にもう一度セラフィーナの側へ送り込む方が遥かに難しい。
数日、あるいはそれ以上通信が止まるとしても、対象の近くで見続けられる人間を残した方が価値がある。
情報機関としては妥当な判断だった。
「現地連絡員という方をご存じですの?」
「いいえ」
マルタは首を振った。
「誰なのかも、どのように接触してくるのかも知らされていません」
それも妥当だった。
末端の情報員へ、別の情報員の身元まで渡す理由はない。
「では、接触があった場合は、一人で判断しないでくださいませ」
マルタが顔を上げる。
「セラフィーナ様へ?」
「ええ。あなたはもう、ノルディアからの命令を隠してわたくしの側にいる必要はございませんでしょう?」
「……はい」
「でしたら、何か来た時に考えればよろしいですわ」
今から存在するかどうかも分からない連絡員への対処を決める必要はない。
それより、目の前の通信紙に書かれた勧誘の方が現実だった。
だからこそ、セラフィーナは少し笑った。
「どういたしましょう」
マルタが尋ねる。
「何を?」
「報告です」
「あなたが実際に見たことを書いてくださいませ」
「その……王家や殿下に対するお気持ちについても?」
「わたくしが何か申しました?」
マルタは考えた。
「いいえ」
「なら、書くことはございませんでしょう?」
「そうですね」
嘘はつかせない。
怒っていないと書かせる必要もない。
けれど怒っているはずだというノルディアの推測へ、こちらから正解を渡してやる必要もなかった。
「出国準備が予定通り進んでいること。同行者が確定していること。王家から書簡が届いたことは、あなたも見ておりますから書いて構いません」
「内容は?」
「知りませんでしょう?」
「はい」
「でしたら、届いたという事実まで」
マルタが通信紙の報告欄へ書き込んでいく。
これが、レグリエ国内から送る最後の定期報告になる。
明日グランデルへ入れば、今の通信紙は止める。
少なくとも、ノルディア側から別の経路が示されるまでは。
それでもマルタ自身はセラフィーナの側に残る。
ノルディアが欲しがっているのは、セラフィーナの感情だった。
祖国へ怒っている。
王太子を憎んでいる。
帰る気がない。
そのどれか一つでも確信できれば、勧誘の時期を計りやすくなる。
けれど今送られるのは、出国準備が進んでいるという事実だけだった。
追放まで成功させた国が、肝心の追放された女の感情だけは手に入れられない。
それを面白いと思った自分に、セラフィーナは気づいた。
「セラフィーナ様」
マルタが書く手を止めた。
「何かしら?」
「このお話を、もし本当にノルディアからされたら」
言葉を選んでいる。
「行かれますか?」
セラフィーナはマルタを見る。
以前なら、こうした質問の裏にある理由を先に考えただろう。
家族がノルディアにいるからか。
自分の立場を心配しているのか。
単なる好奇心か。
今は、そこまで探る必要を感じなかった。
マルタは勝手に答えを決めず、本人へ聞いた。
それで十分だった。
「正式なお話をいただいた時にお返事しますわ」
「今は決めない?」
「まだ申し出すら受けていないことになっておりますもの」
マルタは少し恥ずかしそうに頷いた。
「そうでした」
「ええ」
それで会話は終わるはずだった。
けれどマルタの視線が、机の端へ置かれた王家の封筒に向いた。
「レグリエからも、何か条件を?」
「帰国についてのお話です」
「戻ることができるのですか?」
「将来、条件を満たせば検討するそうですわ」
マルタは少し黙った。
そして、ためらいながら尋ねた。
「では、レグリエへ戻るか、ノルディアへ行くか、ということですか?」
セラフィーナは一瞬、本当に意味が分からなかった。
理解したあとで、可笑しくなった。
マルタを笑ったのではない。
あまりにも綺麗に、二国が用意した形そのものだったからだ。
片方は、
戻りたければ言うことを聞きなさい。
もう片方は、
捨てられたのならこちらへ来なさい。
王家もノルディアも、自分たちが示した席のどちらかへセラフィーナが座ることを前提としている。
違う国。
違う目的。
違う方法。
それでも、選択肢を作る側は自分たちだと思っているところだけは同じだった。
アドリアンまで含めれば、もっと分かりやすい。
彼は彼で、
いずれ戻ってくる。
という席をまだ空けている。
セラフィーナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「二つとも、いりませんわ」
マルタが目を瞬く。
「……二つとも?」
「ええ」
それ以上は説明しなかった。
レグリエへ二度と戻らないという宣言ではない。
ノルディアへ永久に近づかないという意味でもない。
ただ、今差し出されている二つの未来を、どちらも選ばない。
それだけだった。
「では、どちらへ?」
「明日はグランデルへ参りますでしょう?」
「はい」
「でしたら、まずはそこを見ます」
マルタは少し考えたあと、
「分かりました」
と答えた。
本当に分かったかどうかは重要ではない。
セラフィーナ自身にも、まだ分かっていないのだから。
グランデルで何ができるのか。
何をしたいと思うのか。
誰と出会うのか。
その国が、レグリエとノルディアに対してどの程度の力を持っているのか。
知らない。
情報がない以上、答えもない。
マルタが部屋を出たあと、セラフィーナは机に残った二通の紙を眺めた。
王家の書簡。
ノルディアの通信。
王家は国外へ追い出した後まで、帰国許可という餌で自分の行動を縛ろうとした。
ノルディアは追放へ追い込んだ女を、今度は使える資産として拾えるかもしれないと考えている。
そしてアドリアンは、自分から手放したくせに、状況が変わればもう一度話せると思っている。
皆、それぞれ理屈は通っていた。
王家は国益のため。
ノルディアも国益のため。
アドリアンも王太子として国を守るため。
だから何だというのだろう。
理屈が通っていれば、何をされた人間も最後には納得して元の場所へ収まるとでも思っているのだろうか。
胸の奥に、冷たい怒りが戻ってきた。
アドリアンの手紙を読んだ夜のように、手は震えない。
あの時よりむしろ静かだった。
静かなまま、王宮の尖塔を思い浮かべた。
王冠。
玉座。
国王の前で読み上げられた国外退去命令。
罪はないと言われながら、国家の都合で一人だけ切り離された大広間。
そのすべてを、炎の中へ放り込んだところを想像した。
王冠が熱で歪み、玉座が崩れ、あの場所から自分の人生を決めた者たちが、何一つ残らない床を見下ろしている。
悪くない。
次にノルディアを思う。
国境へ並べた兵。
止めた鉄と軍馬。
他国の宮廷へ入り込ませた情報網。
一人の令嬢を王太子の隣から排除するために使われた、そのすべての力。
旗も。
威信も。
自分たちは他国を動かせるという自負も。
何もかも灰になるところまで壊してしまえたなら、きっと随分気分がいい。
アドリアンについては、もっと単純だった。
迎えに来れば戻ると思っている未来を、跡形もなく壊してやりたかった。
国を守った。
君も分かってくれた。
時間が経った。
だから、また一緒になれる。
そんな結末がこの世に存在しないことを、どうしようもなく理解させたい。
自分が選んで捨てたものは、あとから好きな時に拾い直せるものではない。
あの方には、それを骨の髄まで覚えていただきたい。
考えているうちに、セラフィーナは自分が笑っていることに気づいた。
随分と酷いことを考えている。
けれど、反省する気にはならなかった。
むしろ初めて形になった感情が、ようやく正しい場所へ収まったような感覚があった。
彼女は怒っている。
傷ついている。
そして、許す気がない。
なら、それを無理に綺麗な感情へ直す必要はない。
自分を裏切ったものを全部焼き払ってしまいたい。
今の気持ちだけを言えば、それが最も正確だった。
ただし。
それは願望であって、計画ではない。
王宮を本当に燃やしたところで、父も母もレグリエに残っている。
市井の人間まで巻き込めば、自分を追放した者ではなく、何も選んでいない者へ損失が広がる。
ノルディアを闇雲に傷つければ、マルタの家族も、その計画に何も関わらなかった人間も被害を受ける。
何より、敵へ自分が何を望んでいるか教えてしまえば、相手は守るべき場所を知る。
怒鳴って宣戦布告をするなど、親切すぎた。
セラフィーナは王家の書簡へ指を置いた。
今朝、王家は第三項目へ署名を求めた。
署名しなかった。
それだけで、少なくとも国外での経済活動全般を王家が自由に拘束できるという約束は成立していない。
次にノルディアの通信を見る。
彼らはセラフィーナの怒りを利用したがっている。
だから、その怒りを渡さなかった。
今頃、マルタから届く報告には、
出国準備は予定通り。
同行者確定。
王家から書簡受領。
それだけが並ぶ。
追放されたばかりの女が何を思っているのか、最も知りたいところだけが空白になる。
そして、それが今の通信紙から送る最後の報告になる。
明日からノルディアは、すぐにはこちらの様子を聞けない。
それでも観測者だけは自分の隣へ残そうとしている。
合理的だった。
だからこそ、油断する理由にはならない。
二国とも、自分たちの目的は達したと思っている。
レグリエは国内の火種を国外へ出した。
ノルディアは王太子の隣から危険な女を排除した。
今はそれでいい。
勝ったと思っている相手へ、負けているかもしれないと教える必要はない。
セラフィーナはそこで初めて、復讐という言葉を自分の中で否定しなかった。
これまでは、怒りだった。
アドリアンへ後悔してほしいという願いだった。
王家へ腹を立て、ノルディアを不快に思っていただけだった。
今は違う。
いつか必ず。
今日まで自分を好きに扱えた理由そのものを、彼らから奪う。
何をどう奪えばよいのかは、まだ知らない。
王冠なのか。
金なのか。
兵なのか。
信用なのか。
人なのか。
それら全部なのか。
今の情報では分からない。
だから決めない。
明日から行く国を、自分の目で見てから決めればいい。
使えるものがなければ、別の道を探す。
時間が必要なら待つ。
一度で届かないなら、一つずつ積み上げればいい。
方法は何でもよかった。
最後に、彼ら自身が分かればいい。
セラフィーナ・アルディエールを切ったこと。
彼女なら抵抗しないと決めたこと。
追い出した後なら拾えると値踏みしたこと。
その一つ一つが、自分たちで選んだ始まりだったと。
その時に王権が今の形では残っていなくても、セラフィーナは困らない。
ノルディアが他国を脅せるだけの威信を失っていても、惜しいとは思わない。
アドリアンが、自分の知っていた未来を二度と取り戻せない場所に立っていたとしても、助けるつもりはなかった。
むしろ。
そこまで行って初めて、少し満足できる気がした。
胸の中へ浮かんだその感覚に、セラフィーナは静かに目を細めた。
悪女。
王宮では、そう呼ぶ者がいた。
随分早くから正解を言っていたのかもしれない。
もっとも。
彼らが思っているような悪女とは、少し違う。
嫉妬で他国の公爵令嬢へ薬を盛る女でもない。
婚約を奪われた腹いせに、王子へ泣きつく女でもない。
自分から剣を持って王宮へ乗り込む女でもない。
そんなことをするより。
相手が自分で選び、自分で失い、自分で間違いに気づく方がずっといい。
その方が長く苦い。
そして、セラフィーナはその味を知りたいと思った。
そこまで考えてから、彼女は二通の文書をそれぞれ所定の保管箱へ入れた。
燃やさない。
感情と記録は別だった。
王家からの条件。
ノルディアの勧誘方針。
どちらも、後から何かの役に立つ可能性がある。
午後には、王宮の使者がもう一度やってきた。
返書を受け取った王室側から、第三項目についての補足回答を持ってきたという。
父も同席した。
内容は短かった。
具体的な禁止行為を今すぐ列挙することは困難であり、第三項目への署名がない場合、将来の帰国許可について王家が保証を与えることはできない。
つまり。
狭く明文化することはしない。
署名しないなら、帰国を保証しない。
王家の答えだった。
使者が読み終える。
「以上となります。改めてご署名なさる場合には、出国前であれば受理可能とのことでございます」
セラフィーナは一度だけ文書へ目を通した。
「分かりました」
使者が待つ。
「では」
「署名はいたしません」
男が僅かに目を見開いた。
父は何も言わない。
「ですが、帰国の」
「保証いただけないことは理解しておりますわ」
「……よろしいのですか」
随分不思議な質問だった。
セラフィーナは微笑んだ。
「王家は条件をお示しになり、わたくしはそれを受けないと決めました。それだけでしょう?」
誰も騙していない。
誰も強制していない。
互いに条件を見て、互いに選んだ。
それでいい。
使者は困惑を残したまま礼をし、王宮へ戻っていった。
父が扉の閉まった方を見る。
「本当に帰国の保証を捨てたな」
「保証されていないだけです。帰れないと決まったわけではございません」
「強いな、お前は」
「いいえ」
セラフィーナは机へ戻った。
強いからではない。
王家が差し出した帰国の可能性を、もう自分が何をしてでも欲しいものだと思っていないだけだった。
その変化を、王家はまだ知らない。
知らなくていい。
夕方には荷造りがほぼ終わった。
母が何度も追加しようとした衣類を減らし、書籍は必要なものだけを選び直し、資金も現金と換金可能な宝飾品へ分けた。
使用人たちの旅費。
緊急時の医療費。
予定外に宿泊が延びた場合の予備費。
明日の朝には、すべて積み込める。
窓の外では王都に灯りが増えていた。
遠くには王宮の尖塔が見える。
昨夜までなら、そこを見るだけでアドリアンを思い出した。
今日は違った。
王冠が落ちるところを想像した。
一瞬だけ。
それから、セラフィーナはカーテンを閉じた。
今はまだ早い。
どこから落とせるのかさえ知らないものを、落とす方法について考える意味はない。
明日、グランデルへ行く。
まず見る。
人を。
土地を。
金を。
制度を。
何が足りず、何が余り、何が動かず、誰がそれを困っているのか。
復讐のためだけに見るつもりはない。
もし新しい国で暮らすのなら、生活を良くする方が自分にも得だからだ。
その結果として。
いつかレグリエやノルディアより強い何かが育つのなら。
その時に、考えればいい。
セラフィーナは最後の帳簿を閉じた。
レグリエは、彼女を国外へ追い出したことで問題を片付けたと思っている。
ノルディアは、危険な女を王太子の隣から排除し、場合によっては自国へ取り込めると思っている。
アドリアンは、時間が経てば自分のところへ戻ってくると思っている。
三者とも、まだ自分の選択を正しいと思っていた。
それでいい。
その方が、後になって理解した時にはよく効くだろう。
セラフィーナは穏やかに笑った。
彼らへ何をするのかは、まだ決めていない。
けれど、何もせずに許すという未来だけは、もう選択肢から消えていた。
いつか自分を裏切ったすべてが、それぞれ自分で選んだ結果によって崩れ、今日という日へ戻ってくる。
その時まで。
怒りは、消さずに取っておけばいい。




