↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/29

君ならわかってくれる

アドリアンからの手紙が届いたのは、日付が変わる少し前だった。


王家の正式な使者ではない。


幼い頃から何度も私信を届けてきた従者が、公爵邸の門へ一通だけ預けていったという。


封蝋も王太子の紋章ではなかった。


昔から見慣れた、アドリアン個人のもの。


表には、これも何度見たか分からない筆跡で、


『セラフィーナへ』


とだけ書かれている。


わたくしはそれを受け取ったあと、すぐには開かなかった。


机の上には、三日後の出国へ向けて片付けなければならない仕事が残っている。


救護院について母へ引き継ぐ帳簿。


自分名義の資産のうち国外から管理できるもの。


王都へ置いていく書籍。


グランデルへ持ち出す宝飾品。


王太子妃教育のため王家から貸与されていた資料。


婚約を失っても、帳簿は勝手に閉じてくれない。


祖国から追い出されることになっても、荷物は勝手に荷造りを済ませてはくれない。


だから仕事をした。


一枚ずつ確認し、署名し、分ける。


その間も、白い封筒だけは視界の端にあった。


普段のわたくしなら、分からないことを長く放置しない。


読むだけで得られる情報なら、早く得た方が選べる手段は増える。


読まずに置いておくことに、実務上の利益などない。


それでも今夜だけは、開くのを後回しにした。


理由も分かっていた。


何が書かれているかが怖いのではない。


読み終えた自分が、あの方をどこまで嫌いになるのか。


それを知るのが少し怖かった。


最後の帳簿を閉じる。


部屋にはわたくし一人。


呼び鈴へ手を伸ばせば、誰かを呼ぶことはできる。


けれど、その必要はなかった。


白い封筒を手に取る。


読まずに燃やすこともできた。


ただ、それではあの方が何を考え、何を選び、どんな言葉で自分を正当化したのかを知らないままになる。


相手を憎むなら、正確に憎みたかった。


自分に都合のよい想像を相手へ被せて怒るほど、わたくしは親切ではない。


封を切った。


中には三枚の便箋が入っていた。


アドリアンは昔から、面と向かって上手く言えないことほど手紙では長く書く。


十二歳の時、わたくしの誕生日を忘れかけた際にも、謝罪より先に、


なぜ忘れかけたのか。


を延々と説明した。


あの時は、随分かわいらしい人だと思った。


今は同じ癖を見ても、何もかわいくなかった。


最初の一枚を開く。


『セラフィーナ。


今日のことについて、まず謝らなければならないと思っている。


本当なら直接話したかった。


でも今の僕が君の前へ行けば、王太子として言うべきことと、僕自身が言いたいことを上手く分けられる自信がない。


だから手紙にする。


最初に知っておいてほしい。


僕は君を疑ったことがない。


薬のことも、ノルディアへの内通も、今まで君について流れた噂も、少なくとも僕は君がやったとは思っていない。


父上も、君が犯罪を犯したから追放したわけではない。


君が悪かったからこうなったわけではない。


それだけは信じてほしい』


そこで一度、読むのを止めた。


笑うところなのかもしれない。


笑えなかった。


君が悪かったからではない。


その言葉を、今日自分を国外へ追い出す決定へ賛成した男が書いている。


王家は大広間で、わたくしの無実を証明した。


そしてその直後、


罪の有無はもう重要ではない。


と言った。


今度はアドリアンが私信で、


君は悪くない。


と教えてくれるらしい。


随分丁寧な国だった。


無実であることを二度も確認してから追放してくれる。


わたくしは便箋を机へ置きかけて、やめた。


まだ早い。


最後まで読む。


『ノルディアの最終条件を聞いた時、僕も最初は反対した。


三か月の国外滞在ならまだしも、婚約まで解消して帰国期限も決めないなんて、前日に君へ話したこととは違いすぎると思った。


だから別の案をいくつも出した。


婚約を維持して婚姻だけを遅らせる案も、君を王宮政治から外したまま国内へ残す案も、アルディエール領で過ごしてもらう案も出した。


どれも受け入れられなかった。


ノルディア側は、君が将来の王太子妃である限り意味がないと言った。


君個人が何をしたかではなく、君が僕の隣へ戻れる立場そのものが問題なのだと』


ここまでは、今日までに知ったことと大きく変わらない。


ノルディアが欲しかったのは、一時的な留守ではない。


将来、わたくしがまた王太子の隣へ戻れる可能性そのものを削ること。


理解できる。


敵国の側から見れば、合理的ですらある。


ノルディアはわたくしの祖国ではない。


わたくしを守る義務もない。


自国の利益になる条件を要求した。


腹は立つ。


けれど、筋は通っている。


本当に腹が立つのは、その次だった。


『それでも父上は迷っていた。


君を期限も決めず国外へ出せば、アルディエール公爵家が王家へ反発する可能性がある。


ノルディアとの緊張を下げる代わりに、国内で王家と公爵家が対立するなら意味がないと父上は言った。


場合によっては、ノルディアの条件そのものを断るべきだとも考えていた。


そこで僕が、君はそんなことをしないと伝えた。


君は自分一人のために王国を割るような人じゃない。


公爵閣下の力を使って自分の婚約を守らせたりもしない。


国境にいる兵士や、鉄や馬の値段を負担する人たちと自分の立場を比べれば、最後には国全体を優先する。


僕が知っているセラフィーナなら、そうすると伝えた』


指が止まった。


文字が読めなくなったわけではない。


意味も分かる。


だからもう一度読んだ。


『そこで僕が、君はそんなことをしないと伝えた』


昨日。


わたくしはアドリアンへ言った。


次からは、わたくしが何を選ぶかを、わたくしより先に決めないでくださいませ。


あの方は謝った。


悪かった。


次は先に聞く。


そう言った。


その翌朝には。


わたくしの婚約。


祖国。


家族。


将来。


そのすべてへ関わる決定について、


本人へ聞く前に、


彼女なら抵抗しません。


と国王へ保証していた。


便箋を机へ置いた。


音はほとんどしなかった。


窓は閉まっている。


時計の針が進む音だけが聞こえる。


怒ると声が小さくなることは、自分でも知っていた。


今は声だけではなかった。


身体まで静かだった。


胸の奥だけが異様に熱い。


その熱を皮膚一枚で押さえているような感覚がある。


何かを投げれば楽になるだろうか。


便箋を破れば。


机の上のインク壺でも壁へ叩きつければ。


少しは。


そう考えた。


次の瞬間には、その考えにさらに腹が立った。


どうして、あの方のために自分の物を壊さなければならないの。


机は悪くない。


インク壺も悪くない。


便箋だって証拠としては価値がある。


怒りに任せて財産を壊すほど、わたくしは安くない。


もう一度手紙を持ち上げた。


指先は震えていた。


『僕は、君なら理解すると父上へ伝えた。


僕が一番君を知っているから、そこは信じてほしいとも言った。


君が公爵家へ王家との対立を求めることはないし、君自身も無謀な抵抗はしない。


だから国内の混乱は避けられる。


それならノルディアの条件を受けても、王国全体の損失は最も小さくできる。


僕はそう説明した。


父上は、その後に受諾を決めた』


そこで全部繋がった。


国王陛下は、最後まで迷っていた。


ノルディアの提示した利益が不足していたからではない。


演習縮小。


鉄価格。


軍馬。


通商再開。


国だけを見れば、十分な値段だった。


止まっていた理由は、


わたくしを追い出した後、アルディエール家が敵へ回る可能性。


国内最大級の公爵家が王家へ反発し、有力者がそこへ続けば、北方を落ち着かせる代わりに国内が割れる。


それならノルディアの要求を断る。


まだ、その選択肢が残っていた。


条件を弱める余地もあった。


少なくとも。


わたくし自身へ、


この条件でも受けるか。


と尋ねる余地は残っていた。


その最後の障害を。


アドリアンが消した。


わたくしなら抵抗しない。


わたくしなら家族を巻き込まない。


わたくしなら、自分一人より国全体の損失を優先する。


その判断が。


正しい。


ことまで含めて、許せなかった。


あの方は間違っていない。


わたくしは父へ、


王家を倒してください。


などとは言わない。


自分の婚約一つを守るために、国境へ兵を置き続けろとも言わない。


鉄が上がる。


軍馬が遅れる。


交易が止まる。


何万人という人間が、わたくし一人の立場を守るために費用を払う。


そんな状態を望む人間ではない。


だからこそ。


王家にとって。


わたくしは理想的な犠牲だった。


怒っても国を焼かない。


父を止める。


家族を守る。


兵士を盾に取らない。


無実でも、全体の損失を見れば自分を引く。


ずいぶん安全だ。


随分、捨てやすい。


「……そう」


声が出た。


自分の声なのに、少し遠く聞こえた。


あの方は、わたくしをよく知っていた。


その理解を得るまで、何年掛かったと思っているのだろう。


幼い頃から隣にいた。


わたくしが何を嫌うか。


何を喜ぶか。


何を譲れるか。


何だけは譲れないか。


家族をどう思っているか。


王国をどう見ているか。


何かを守る時、どこまで損を許容するか。


誰かを切る時、何を最後まで残そうとするか。


アドリアンは知っていた。


わたくしも、自分を知られることを許した。


信頼していたから。


その知識が今日。


わたくしを守るためではなく。


わたくしを安全に処分できると保証するために使われた。


指の震えが少し大きくなった。


便箋の端が鳴る。


それでも握り潰さない。


まだ終わっていない。


『君が怒っていることは分かっている。


僕が約束を破ったことも分かっている。


昨日、次は先に君へ聞くと言ったのに、今日また聞く前に判断した。


そこは言い訳できない。


ただ、時間がなかった。


父上が決断しなければ、ノルディア側は交渉を打ち切ると言っていた。


僕には、君ならどうするかが分かった。


だから答えた。


そのやり方が君を傷つけたとしても、王太子として同じ場面へ戻れば、僕はたぶん同じ答えを選ぶと思う』


今度こそ、笑った。


声は出なかった。


唇だけが少し歪んだ。


本当に。


よくできましたこと。


幼い頃のアドリアンは、難しいことがあるたびにわたくしへ答えを聞いた。


わたくしは答えを渡さなかった。


何が足りないと思います?


その案で困るのは誰?


半年後には何が起きる?


別の方法は?


問いを置いた。


自分で考えさせた。


間違えれば一緒に理由を見た。


正解へ辿り着けば褒めた。


最近では、わたくしが一つ問いを置くだけで、その先まで自力で進めることも増えた。


嬉しかった。


将来この人が王になるなら、悪くないと思った。


好きな女一人のために国家を曲げる王にはなってほしくない。


そう思って育てた。


今日。


アドリアンは望んだ通りの王太子になった。


愛している女。


国境の兵士。


鉄。


軍馬。


交易。


全部を同じ盤へ置いた。


そして、国家全体の損失が最も小さい手を選んだ。


さらに。


その女を切った場合に起きる国内反発まで計算し、


誰より正確な情報を出した。


彼女は反乱しません。


家族も止めます。


理解します。


自分より国を選びます。


わたくしが教えた判断力で。


わたくしを切った。


「よくできました」


声に出した。


静かな部屋に、あまりに似合わない言葉が落ちた。


十二歳のアドリアンなら、その一言で嬉しそうにした。


今なら、どんな顔をするだろう。


国境の兵より。


鉄より。


馬より。


通商より。


わたくし一人を失う方が安かった。


その計算は、間違いではない。


だからこそ許せなかった。


愚かだったなら。


見限れた。


エステルに心を奪われていたなら。


馬鹿な男だと軽蔑できた。


ノルディアに完全に騙されていたなら。


怒りの向け先を分けられた。


けれどアドリアンは考えた。


別案も出した。


わたくしの無実も信じていた。


今でも愛している。


そのうえで。


自分自身の判断として。


わたくしを捨てた。


誰にも奪われていない。


あの方自身が。


自分で手を離した。


わたくしは椅子から立った。


窓まで歩いた。


戻った。


意味のない動き。


普段ならそんなものに時間を使わない。


今は身体を少しでも動かさなければ、何かもっと大切なものを壊しそうだった。


呼び鈴が目に入る。


父を呼べば、一緒に怒るだろう。


母なら何も聞かずそばにいてくれる。


マルタなら温かい紅茶を用意するかもしれない。


誰も呼ばなかった。


慰められたくなかった。


この怒りを薄められたくなかった。


今日は。


これはわたくしのものだった。


最後の一枚を見る。


『今は君に許してほしいとは言えない。


でも、これで僕たちが終わりだとも思っていない。


ノルディアとの関係が落ち着けば、必ず君を帰せるよう父上へ働きかける。


追放を永遠に続ける理由はなくなるはずだ。


婚約についても、すぐ元へ戻せるとは言えないけれど、僕は諦めていない。


僕の気持ちは変わっていないし、今でも君を愛している。


待っていてほしいなんて言える立場じゃないことも分かっている。


それでも、僕たちはこれまでずっと一緒だった。


この一度のことで、それまでの全部がなくなるとは思いたくない。


いつか状況が変わった時には、もう一度話したい。


君なら分かってくれると、僕は信じている』


読み終えた。


一度。


二度。


最後の一行だけを見る。


『君なら分かってくれる』


そこで。


怒りの形が変わった。


それまでは熱だった。


今度は刃物のように細く、冷たくなった。


アドリアンは。


まだ。


わたくしを失ったつもりがない。


今は仕方がない。


国を守るため。


だから一度切る。


でも状況が落ち着けば帰せる。


自分は愛している。


わたくしも事情を理解する。


長い付き合いがある。


だから、いつか話せる。


条件が整えば婚約だって戻せるかもしれない。


自分から捨てたくせに。


まだ自分の手の届く場所にあると思っている。


「ふざけないでくださいませ」


声は静かだった。


けれど、今度は明確に怒っていた。


「ふざけないで」


もう一度。


誰もいない。


敬語を崩す必要はない。


声を荒らげる必要もない。


それでも身体の内側では、今まで感じたことがないほど激しい怒りが燃えていた。


国を選んだことを責めているのではない。


王太子なら国を選ぶ。


それは分かる。


分かってしまう。


わたくしが怒っているのは。


選ぶ前に、わたくしの答えまで勝手に使ったこと。


捨てたあとで、いつか拾い直せると思っていること。


そして。


わたくしがその傲慢さまで理解して許すと思っていること。


だった。


国を優先しても理解する女。


約束を破られても事情を理解する女。


追放されても国を恨まない女。


時間が経てば戻ってくる女。


愛していると言えば、最後には分かってくれる女。


「随分、便利な女ですこと」


笑った。


今度の笑みには、先ほどとは違うものが混じっていた。


怒り。


侮蔑。


そして。


ほんの少し。


楽しさ。


わたくしは、人のことをかなりよく理解できる方だと思う。


欲しいもの。


恐れているもの。


守りたい自尊心。


どういう人間だと思われたいか。


どこまでなら損を飲むか。


何を失うと焦るか。


それを使って、人を望む方向へ動かすこともできる。


けれど。


相手が最後に何を選ぶかまで、自分の所有物だと思ったことはない。


選択肢を置く。


本人に選ばせる。


その方が、強いから。


自分で選んだ人間は、他人に命じられた人間より長く動く。


なのにアドリアンは。


わたくしだけは。


自分が分かっていると思った。


国王陛下も、それを信じた。


ノルディアも、わたくしが大きく抵抗しないと読んだ。


皆。


わたくしの答えを先に盤へ置いて。


その上で自分たちの手を選んだ。


胸の奥から。


ひどく、醜い願いが上がってきた。


後悔してほしい。


違う。


そんな程度では足りない。


もっと。


もっと深く。


今日の判断を、一生の中で何度も思い返してほしい。


夜にふと昔を思い出す程度では足りない。


新しい妻を迎えたあと。


王になったあと。


国が豊かな時も。


苦しい時も。


何かを決めるたびに。


あの日。


自分が何を手放したのか。


少しずつ理解してほしい。


国を守るためにわたくしを切ったのなら。


その国の中で。


わたくしがいた頃には起きなかったことが一つずつ起きればいい。


以前なら、小さいうちに繋いだ問題。


見落とさなかった摩擦。


先に拾った人材。


防げた損失。


取れた商機。


それらが一つずつ手から零れる。


最初は偶然だと思えばいい。


次も偶然。


仕方がない。


誰でも見落とす。


そうやって自分を納得させればいい。


そのうち数が増える。


一つ一つは説明できる。


官僚も有能。


王太子も有能。


誰も致命的な失敗はしていない。


それでも。


何かが少しずつ高くつく。


一日遅い。


一週間遅い。


余分に金が掛かる。


人が一人離れる。


商人が一つ別の国へ店を出す。


若い者が帰ってこない。


そしていつか。


偶然ではないと気づく。


あの日。


追い出したものの大きさへ。


自分自身で辿り着く。


想像した瞬間。


胸の奥が。


ほんの少し。


軽くなった。


それに気づいた時。


わたくしは笑っていた。


小さく。


誰にも見せない笑い。


「……まあ」


醜い。


そう思った。


そして。


だから何だというのだろう。


わたくしを傷つけた男が。


自分の間違いを思い知る未来を想像して。


少し楽しい。


それがそんなに悪いことだろうか。


いいえ。


たぶん悪い。


けれど。


今夜くらい。


善良な女でいる義務など、誰が決めたの。


今日、大広間では。


わたくしを悪女と呼んだ人間がいた。


違うと怒ってくれた人もいた。


王家は無実だと証明した。


そして追放した。


あれだけ大勢が。


わたくしが悪女なのか。


そうではないのか。


勝手に議論していた。


誰も知らない。


わたくし自身が、今。


自分を傷つけた相手が後悔する未来を想像して。


少し愉快だと思っている。


その事実だけが。


妙に心地よかった。


「白薔薇の悪女、でしたか」


口にしてみる。


悪くない。


少なくとも。


聖女よりはずっと正確だった。


人を殺したいとは思わなかった。


そんなものはつまらない。


死ねば終わる。


後悔もしない。


理解もしない。


謝罪もできない。


自分の判断が間違っていたと気づくこともない。


それでは足りない。


生きていてほしい。


王になってもいい。


立派な王になればいい。


国を守ればいい。


人々から愛されても構わない。


そのうえで。


それでも。


自分が捨てたものだけは。


二度と取り戻せないと知ってほしい。


何度成功しても。


何を守っても。


その一つだけは戻らない。


そちらの方が。


ずっと美しい。


そう考えた自分を。


わたくしは止めなかった。


ただし。


今すぐ何かをするつもりもなかった。


怒りに任せて復讐方法を決めるほど愚かではない。


レグリエをどうするか。


ノルディアをどうするか。


アドリアンへ何を失わせるか。


今夜の感情だけで決めれば。


後で選択肢を狭める。


それは嫌だった。


三日後には国外へ出る。


まず。


レグリエの外へ立つ。


外から祖国を見る。


王宮の中では見えなかったもの。


アルディエール公爵令嬢として見れば当然すぎて、疑わなかったもの。


それを確認する。


ノルディアも同じ。


今まで敵国として見ていた。


今度は。


自分を国から追い出すために、どこまで費用を払った国なのか。


何を恐れ。


何を欲し。


何なら手放す国なのか。


外から見れば、もっとよく分かる。


グランデルについては。


まだ何も知らない。


だから見る。


利用できるなら利用する。


気に入らなければ別へ行く。


そこまで考えて。


怒りの底に。


別の感情が少し生まれた。


自由。


だったのかもしれない。


王太子妃になる未来は失った。


王宮での席も失った。


祖国へ自由に帰る権利も失った。


その代わり。


今後、何を選ぶかについて。


もう王太子の妻として。


将来の王妃として。


レグリエのために。


という答えを先に置く必要がない。


誰かが自分の答えを知っていると言うのなら。


一度。


その前提ごと壊してみるのも面白い。


アドリアンについてだけは。


今夜の時点でも結論が出た。


待たない。


戻らない。


迎えに来ても。


それを理由に人生を戻さない。


謝ったから。


後悔したから。


まだ愛しているから。


その程度で以前の席を返すつもりはない。


そこで初めて。


自分があの人との未来を、どれほど当然のものとして扱っていたのかに気づいた。


恋だったのか。


今でも簡単には答えられない。


でも。


愛着はあった。


保護欲もあった。


自分が育てたという自負もあった。


所有欲も。


あった。


この先もずっと隣にいる。


それだけは疑っていなかった。


王になったアドリアンの隣に立つ。


難しい顔で資料を読む姿を見る。


必要なら一つだけ問いを置く。


答えへ辿り着けば、


よくできました。


と笑う。


年を取る。


どちらが先に白髪になるか。


考えようと思えば自然に想像できた。


そんな未来を。


欲しかった未来。


だと意識したことすらない。


最初からあると思っていたから。


王太子という地位を所有していたつもりはない。


国王になる人間が国のものであることくらい理解している。


けれど。


眠れていない朝には紅茶へ砂糖を一つ増やすこと。


考え込むと右手の親指へ触れる癖。


本当は褒めてほしい時ほど、何でもない顔で報告へ来ること。


一度腹を立てると、言い返す前に右の眉が少し上がること。


そういうものは。


わたくしだけが知っているものに近かった。


その人も。


そこへ積み重なった時間も。


これから積み重なるはずだった時間も。


どこかで。


わたくしのものだと思っていた。


その未来を。


アドリアンは今日。


自分で手放した。


なのに。


状況が落ち着けば。


また戻せると思っている。


そこで。


とうとう涙が落ちた。


便箋の端へ一滴だけ染みができる。


それを見た瞬間。


今度は泣いたことに腹が立った。


どうして。


わたくしが。


あなたのために泣かなければならないの。


そう思って。


すぐに違うと気づいた。


これは。


アドリアンのためではない。


わたくしのためだった。


自分が持っていたものを失った。


だから悲しい。


それでいい。


「……あの方は」


声が少し震えた。


それがさらに腹立たしかった。


「わたくしのものだったのに」


誰もいない部屋で。


初めて口にした。


言った瞬間。


驚くほど納得した。


美しい感情ではない。


愛情だけでもない。


大切な人を失った悲しみ。


自分から手放された怒り。


自分のものだと思っていた人間が、自分の意思で離れたことへの所有欲。


全部ある。


それでいい。


わたくしは聖女ではない。


大切なものを奪われれば悲しい。


自分から手を離した相手には腹も立つ。


それを許さなければ人格が悪いと言われるなら。


悪くて結構。


むしろ。


今夜だけは、その方が気分がよかった。


涙を拭う。


手紙を見る。


燃やそうと思った。


そのまま燭台へ手を伸ばし。


止めた。


少し考える。


そして。


燃やさなかった。


代わりに机の引き出しから薄い保管紙を一枚出した。


三枚の便箋を重ねて入れる。


封をする。


表へ日付を書く。


今日の手紙だけは。


残しておくことにした。


許すためではない。


思い出へ浸るためでもない。


忘れないため。


アドリアンが。


何を知っていたか。


何を考えたか。


何を選んだか。


そして。


わたくしなら戻ると。


どれほど確信していたか。


全部。


本人の筆跡で残しておく。


怒りは記憶だけに任せると形が変わる。


だから記録した方がいい。


それに。


いつかあの方が。


そんなつもりではなかった。


あの時は他に方法がなかった。


君を失うつもりではなかった。


と自分自身へ言い訳したくなった時。


この手紙は。


とても役に立つ。


その時の顔を想像した。


また少し。


笑った。


今度の笑みは。


自分でも悪い顔だと思った。


悪くない。


引き出しを閉じる。


鍵を掛ける。


その音が。


不思議なくらい心地よかった。


あなたが国を選んだことは、理解しています。


あなたが何を守ろうとしたのかも。


なぜわたくしを選ばなかったのかも。


全部。


よく分かります。


だから。


その選択の結果だけは。


最後までご自分で受け取ってくださいませ。


国を守れて。


わたくしもあとから戻ってきて。


以前と同じように隣へ立つ。


そんな都合のいい結末まで。


一緒に手へ入ると思わないで。


謝ること。


許されること。


もう一度選ばれること。


全部、別。


もし。


それをあの方が理解できないのであれば。


いつか。


分かる形にして差し上げればいい。


無理に教える必要はない。


本人が。


自分で。


辿り着けばいい。


それが一番深く残る。


窓へ歩く。


今度は意味があった。


窓を開ける。


夜気が入る。


泣いた目元へ冷たい風が触れた。


朝になれば冷やせばいい。


仕事もできる。


荷物もまとめられる。


人前ではいつも通り振る舞える。


怒りも。


消す必要はない。


むしろ。


大切に残しておこう。


感情は、使い方を間違えなければ立派な燃料になる。


アドリアンが知っていたセラフィーナ・アルディエールは。


国を割らず。


家族を巻き込まず。


自分より多くの人間を守り。


誰より事情を理解して。


最後には彼のところへ戻ってくる女だったのだろう。


昨日までなら。


かなり正しい。


けれど。


あの方は一つだけ忘れている。


人間は。


同じものを二度選ぶ義務などない。


わたくしを安全に捨てられると証明したその判断によって。


アドリアン自身が。


自分の知っていたセラフィーナを終わらせた。


だから。


次に会う時。


あの方が昔と同じ答えを期待したとしても。


それはもう。


わたくしの知ったことではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。