↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/30

白薔薇を悪女と呼ぶ日

王家からの返事は、書面では来なかった。


前日にセラフィーナが提出した条件書について、了承とも修正要求とも告げられないまま、翌朝早く王宮から使者が訪れた。


正午、大広間へ出頭すること。


服装は正式な宮廷礼装。


アルディエール公爵夫妻のうち、公爵については同席を求める。


それだけが記されていた。


セラフィーナは使者から書面を受け取り、一度読み終えてから母へ渡した。


母の顔色が変わる。


「大広間なの?」


「そう書かれておりますわね」


「昨日は、三か月だけ外国へ行く話だったのでしょう?」


「その条件なら検討すると申し上げました」


「では、それを受けるために?」


母の声音には、そうであってほしいという願いが混じっていた。


セラフィーナは少し考えてから、正確なところだけ答えた。


「分かりません」


大広間を使う理由はいくつか考えられる。


正式な決定を公示するため。


国内の有力者やノルディア使節を立ち会わせるため。


あるいは、後から双方が発言内容を違えて説明できないよう、多数の証人を置くため。


どれか一つとも限らない。


ただ、昨日までの交渉を続けるだけなら、これほど大きな場所は必要なかった。


母が書面を握ったまま尋ねる。


「あなたは、もう同意したの?」


「いいえ」


「本当に?」


「ええ」


セラフィーナは母の目を見た。


「わたくしは、何にも同意しておりません」


本人一人。


三か月まで。


婚約継続。


帰国保証。


家族や使用人への不利益なし。


ノルディア側の譲歩と同時履行。


それらを満たすなら検討する。


そう書いた。


自分の署名もある。


今日、何を提示されても、その事実だけは動かない。


父はすでに宮廷礼装へ着替え始めていた。


機嫌が悪い。


「昨日の文書の写しは持ったか」


「もちろん」


「王家が妙なことを言ったら、俺が止める」


「止められる内容ならお願いいたします」


「止められない内容だったら?」


セラフィーナは父を見る。


「まず聞きますわ」


父は何か言いたそうだったが、結局それ以上は問わなかった。


正午前。


王宮の大広間へ続く扉が開いた。


その時点で、セラフィーナは昨日より状況が遥かに進んでいることを理解した。


人が多すぎる。


国王と王妃。


アドリアン。


外務、財務、軍務の高官。


王都にいる主要貴族。


宮廷付きの聖職者。


王室書記。


主要都市から王都へ来ていた代表者。


大商会や慈善組織から招かれた者までいる。


そして、ノルディア使節団。


通常なら壁際に控えるだけの人間まで、後方の傍聴席へ入れられていた。


少人数の交渉ではない。


今日ここで語られたことを、王都へ持ち帰る人間を意図的に集めている。


これは、決定を伝える場所だった。


それ以上に。


決定がどのように見えるかを、社会へ固定する場所だった。


もう一つ目につくものがある。


エステルの席。


ノルディア使節団の後方ではない。


使節団代表の近く。それでいて王族からもよく見える前列へ置かれている。


数日前まで、親善客として王妃の側に招かれていた時とは違う。


今日は明確に、ノルディア側の重要人物として扱われていた。


エステル本人は何も誇示していない。


セラフィーナと目が合うと、小さく礼をする。


勝ち誇った笑みもない。


憐れみもない。


セラフィーナも同じように返した。


父と並んで指定された席へ座る。


アドリアンは壇上近くにいた。


目が合った。


彼の顔には、昨日セラフィーナの部屋へ来た時にはなかった緊張がある。


今日の内容をある程度知っている可能性は高い。


それ以上は決めない。


国王が席を立った。


大広間が静まる。


「本日は、レグリエ王国とノルディア王国との間で継続していた北方関係の調整、およびそれに付随して生じた王宮内の一連の問題について、王室の決定を伝えるために集まってもらった」


決定。


相談ではない。


セラフィーナはその一語だけを覚えた。


だが、続いて立ち上がったのは外務侯爵ではなく、王室書記だった。


手には数枚の公文書がある。


「決定に先立ち、王室調査の結果を確認いたします」


大広間に小さなざわめきが走る。


セラフィーナは書記を見る。


父も僅かに姿勢を変えた。


王室書記が読み上げる。


園遊会でエステル・オルセーヌ公爵令嬢に危害が加えられたとする疑惑について。


セラフィーナ・アルディエール公爵令嬢による加害行為を証明する物証は確認されなかった。


エステル本人の署名証言にも、セラフィーナから意図的な危害を受けたとの申告はない。


座席配置を利用してエステルを侮辱したとする件について。


当日の席次は王妃宮の儀礼担当が決定しており、セラフィーナ本人が配置変更を要求した記録はない。


贈答品返却を利用してノルディア側を侮辱したとする件について。


返却は王宮規則に基づく手続きの範囲内。


文面にも侮辱的記載なし。


その他、ここ数日王都で流れていた複数の噂についても、現在までにセラフィーナ本人の違反行為を裏付ける証拠は確認されていない。


最後に王室書記が明確に読み上げた。


「以上により、現時点においてセラフィーナ・アルディエール公爵令嬢に、刑事上または宮廷規則上の違反は認定されないものといたします」


一瞬、大広間が静かになった。


それから囁きが広がった。


「やはり……」


「では、噂は違ったのか」


「オルセーヌ公爵令嬢自身が否定していたものな」


「白薔薇がそんなことをするとは思えなかった」


父が小さく息を吐いた。


ほんの僅かだった。


安堵したのだろう。


セラフィーナは壇上を見た。


国王は立ったまま。


アドリアンも座ったままではいるが、表情は緩んでいない。


それを見て、セラフィーナは父ほど安心できなかった。


無実を確認するだけなら。


今日ここへこれほど多くの人間を集める必要はない。


国王が再び口を開いた。


「今読み上げた通り、アルディエール公爵令嬢へ犯罪行為は認定されていない」


そこで一度言葉を切る。


「しかし、本件において、もはや重要なのは罪の有無だけではない」


ざわめきが止まった。


父の顔から、先ほど浮かびかけた安堵が消えた。


セラフィーナは動かなかった。


なるほど。


そういう順番なのですね。


先に無実を公表する。


そのあとで。


無実でも切る。


そうすれば王家は、犯罪者を捏造して追放したことにはならない。


「一連の疑惑は事実として立証されなかった。しかし、それらを契機として両国の政治的不信が顕在化したこともまた事実である」


国王の声は落ち着いていた。


「ノルディア王国との協議においても、アルディエール公爵令嬢が今後王太子妃として北方外交の中心へ立つことについて、重大な懸念が示された」


父が椅子の肘掛けを強く握る。


国王は続ける。


「疑惑が虚偽であったとしても、それによって生じた国家間の不信まで即座に消滅するわけではない」


その言葉に、大広間の一部が僅かに頷いた。


別の場所から、


「だが、それでは……」


という小さな声も聞こえた。


国王は止まらない。


ノルディア側との協議の結果。


国境付近で行われている軍事演習について、規模を現在の半分以下へ縮小。


合意成立後、主力部隊の一部を演習地域から撤収。


次期鉄取引について、現行価格を大きく変更しない。


遅延している軍馬について、十日以内に優先出荷。


延期が検討されていた通商実務協議についても日程を再設定。


大広間に別のざわめきが生まれた。


今度は意味が違う。


数字。


軍。


鉄。


馬。


交易。


誰にでも分かる利益だった。


北方へ置いている兵を減らせる。


軍事費が下がる。


鉄価格の不確定要素が消える。


軍馬不足を避けられる。


交易も戻る。


ノルディアは曖昧な友好を差し出したのではない。


具体的な値札を置いている。


セラフィーナは静かに聞いていた。


一つずつ、自分の値段を読み上げられているようだった。


演習縮小。


鉄。


軍馬。


通商。


随分と分かりやすい。


自分一人を差し出せば、それが手に入る。


国王が最後に言った。


「以上を踏まえ、レグリエ王室も両国関係の安定に必要な措置を取る」


父が低い声で、


「まさか」


と呟いた。


国王はまっすぐセラフィーナを見る。


「セラフィーナ・アルディエール公爵令嬢」


名を呼ばれ、セラフィーナは立ち上がった。


「はい」


「王太子アドリアンとの婚約を、本日をもって解消する」


今度こそ大広間が揺れた。


「無実だったのでは?」


誰かが思わず声を上げた。


すぐ近くでは、


「国のためだろう」


と低く返す者がいる。


別の声。


「罪もない娘を?」


「王太子妃に必要なのは罪がないことだけではない」


「では噂を流せば誰でも追い出せるではないか」


一斉に声が重なる。


王室書記が静粛を求めた。


国王は表情を変えない。


「また今後、北方外交およびノルディア王国に関係する王宮上の政策決定、公式行事、外交折衝から、そなたを除外する」


婚約だけではない。


「さらに、両国関係が十分に安定したと王室が判断するまでの間、レグリエ王国外で生活することを求める。帰国については、王室の許可を必要とするものとする」


今度は、さきほどより大きな声が上がった。


「追放ではないか!」


「しかし国境の兵が下がる!」


「だからって――」


「アルディエール家はどうなる?」


「白薔薇が本当に無実なら、なぜ?」


「無実かどうかはもう問題ではないと言われただろう」


その言葉が、別の誰かの口から繰り返された。


無実かどうかはもう問題ではない。


便利な言葉だった。


王が言った瞬間から、他の人間も使える。


セラフィーナは最後まで聞いた。


期限がない。


帰国時期もない。


本人が何をすれば戻れるのかという条件もない。


昨日提示した三か月とはまるで違う。


父が立ち上がった。


「陛下」


声だけで怒っていると分かる。


「いま王家自身が、娘に罪はないと確認したばかりでしょう」


「確認した」


「その直後に婚約を解消し、国外へ追い出すのですか」


「これは刑罰ではない」


「名前を変えれば何になる!」


父の声が大広間へ響いた。


「罪を犯していないと公に認めた娘を、外国が嫌がったから国外へ捨てる。何と呼べばよろしいのです!」


国王は答えた。


「国家の外交措置だ」


父が笑った。


怒りしかない笑いだった。


「随分便利な言葉ですな」


周囲の空気がさらに荒れる。


王室側の貴族の一人が眉をひそめる。


別の地方貴族は父へ同情するように視線を向けている。


ノルディア使節団は静かだった。


セラフィーナが尋ねた。


「陛下。確認してもよろしいでしょうか」


父が何か言おうとしたが、セラフィーナは僅かに手を上げた。


国王が彼女を見る。


「申せ」


「わたくしには罪がない」


「現在までの調査では、犯罪または宮廷規則違反は認定していない」


「エステル様へ意図的に危害を加えた証拠もない」


「ない」


「席次についても、贈答品についても?」


「違反はない」


「では、そのすべてを王家として公に確認した上で、それでもわたくしを国外へ出す」


「そうだ」


「理由は、わたくしが罪を犯したからではない」


「違う」


「わたくしがこの国へ残るより、国外へ出た方が外交上利益になるから?」


一瞬。


国王は答えなかった。


だが、ここで曖昧にすれば、今まで読み上げた数字が全部意味を失う。


「国家としては、そう判断した」


大広間のどこかから息を呑む音がした。


セラフィーナは頷く。


無実は証明された。


だからこそ、もう疑いようがなかった。


自分は罪によって追放されるのではない。


値段が付いたから売られるのだ。


「承知いたしました」


国王が僅かに表情を緩める。


セラフィーナはそのまま続けた。


「ただし、今の『承知いたしました』は、ご決定を聞いたという意味です。妥当だと思ったわけでも、同意したわけでもございません」


空気がまた張る。


「それから昨日、わたくしが提出した条件書について確認させてくださいませ」


外務侯爵が書類を取る。


「本人一名の国外滞在であること。三か月以内。婚約継続。帰国保証。家族や使用人への不利益なし。ノルディア側の措置との同時履行。この内容であれば検討すると提出しました」


「確認している」


「ノルディア側へはどのように?」


外務侯爵が答える。


「アルディエール公爵令嬢が、両国緊張を緩和する目的で、本人に限定した一時的な国外移動について理解を示している、と伝達した」


セラフィーナはほんの少し目を細めた。


「随分便利に短くなりましたのね」


大広間が静まった。


「わたくしの文書には、『以上は本人一名の一時的移動のみを条件とする』とも書いたはずです」


「把握している」


「婚約継続も」


「ああ」


「三か月以内も」


「把握している」


「帰国保証も?」


「承知している」


「では、それらの条件が外された後、本人へ再確認せず、王家が受諾した?」


国王が答えた。


「今朝、王室として受諾方針を決定した」


父が唇を噛む。


大広間の後方から、


「本人は了承していなかったのか」


という声が聞こえた。


別の者が、


「では、昨日から合意済みだったという話は……」


と囁く。


誰がそう広めていたのか。


今それを追う必要はない。


セラフィーナは次にアドリアンを見る。


「殿下も、ご存じでした?」


短い沈黙。


「ああ」


「いつから?」


「昨夜、最終案が出た」


「今日の決定へ賛成なさった?」


アドリアンは逃げなかった。


「ああ」


その一言だけは、まっすぐだった。


胸のどこかに、小さな音がした気がした。


今は調べなくていい。


「わたくしに罪がないことも、ご存じでした?」


アドリアンの表情が僅かに変わった。


「知っている」


その答えの方が痛かった。


「では、わたくしがエステル様を害したと信じたからではない?」


「違う」


「わたくしを悪女だと思ったからでも?」


「違う」


大広間が静かになった。


誰もが二人の会話を聞いている。


アドリアンは一度息を吸った。


「君に罪がないことは分かっている」


「ええ」


「でも、国境の兵を下げられる。鉄と軍馬も安定する。交易も戻る。今の条件なら、国全体の損失をかなり減らせる」


「だから、無実のわたくしを国外へ?」


「そんな言い方をしたいわけじゃない」


「では、どういう言い方なら内容が変わりますの?」


アドリアンは答えられなかった。


セラフィーナは声を荒らげない。


怒っているほど、言葉は正確になった。


「昨日、殿下は次からわたくしに先に尋ねると仰いましたわね」


「分かっている」


「今回は尋ねなかった」


「時間がなかった」


「昨夜から正午まで?」


アドリアンの喉が動く。


「王家だけの問題ではなかった」


「わたくしの人生は含まれていなかった?」


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味です?」


アドリアンは黙った。


やがて、苦しそうに言う。


「君なら、国のために考えてくれると思った」


昨日の会話が重なる。


君ならそうすると思った。


君なら国を割らない。


君なら家族を巻き込まない。


君なら自分より国を選ぶ。


全部、セラフィーナについて正しい理解だった。


「わたくしが拒絶するとは思われなかったのですね」


「君は、国境の兵や交易を放って、自分だけを優先するようなことは選ばない」


確信がある。


それがひどく冷たかった。


父が壇上を睨んだ。


「娘がまともな人間だから、利用したのか」


「公爵」


国王が低く制する。


父は止まらない。


「反乱しない。国を割らない。民を盾に取らない。家を暴走させない。だから、無実でも追い出せると?」


「これは一人の婚姻だけの問題ではない」


「だから一人なら踏みにじってよいのですか!」


今度こそ広間のあちこちから声が上がった。


「公爵の言う通りだ」


「しかし北方の兵が動けば死ぬのは別の人間だ」


「なら何の罪もない娘が払えと?」


「国家とはそういうものだろう」


「それを本人へ聞きもしないのか」


「王太子殿下が国を選んだのだ」


「婚約者を売っただけではないか」


「言葉が過ぎる!」


混乱が広がる。


国王が立ったまま手を上げた。


「静粛に」


声は大きくなかった。


それでも王の声だった。


少しずつ人々が黙る。


セラフィーナは国王へ向き直った。


「もう一つ」


「申せ」


「期限を定めず国外へ置き、本人の意思だけでは帰国できず、王室の許可を必要とするのでしたら、通常は追放と呼ぶのではございませんか?」


外務侯爵が口を開く。


「公爵令嬢、これは懲罰的追放ではなく――」


「懲罰かどうかではなく、状態のお話ですわ」


国外へ出る。


期限なし。


帰国には王室許可。


それを別の言葉で呼ぶ意味は何か。


国王が答える。


「公式文書上は、国外での一時滞在措置とする」


「期限のない一時、なのですね」


誰も答えなかった。


後方から小さく、


「追放だろう」


という声が聞こえた。


別の誰かが、


「言葉を変えただけだ」


と続けた。


すぐに、


「王家の決定に口を慎め」


という声も重なる。


セラフィーナは繰り返さなかった。


十分だった。


その時、ノルディア側の席からエステルが立ち上がった。


「陛下。発言をお許しいただけますか」


国王が頷く。


エステルは壇上ではなく、セラフィーナへ向き直った。


「セラフィーナ様」


声には震えも喜びもない。


「このような結果を、わたくしは望んでおりませんでした」


数人の視線がエステルへ集中する。


「園遊会のことも、お席のことも、贈り物のことも、わたくし自身はセラフィーナ様が悪意を持ってなさったとは考えておりません。先ほど王室から確認された内容にも異存はございません」


完璧だった。


追放されるセラフィーナを、公の場で庇っている。


「両国の関係がここまで大きな問題となったことを、わたくしも残念に思います。わたくしの滞在が一つのきっかけとなったのであれば、なおさらです」


大広間のどこかで、


「オルセーヌ嬢はお優しい」


という声がした。


その隣から、


「ご本人がここまで庇っているのに、なぜアルディエール嬢は……」


と続く。


意味がいつの間にか反転している。


エステル本人は、


セラフィーナが悪い。


とは一言も言っていない。


それどころか否定した。


それでも、


被害を受けたと言われた女が庇っている。


という構図だけが残れば、庇われる側に何かあるように見えてしまう。


上手い。


セラフィーナは素直にそう思った。


全部本心でも成立するのが、さらに上手かった。


「ありがとうございます、エステル様」


エステルが僅かに息を止める。


「園遊会での件については、エステル様ご本人の署名入り証言も王宮へ残っておりますものね。今のお言葉と記録が一致していて安心いたしましたわ」


ほんの一瞬だけ、エステルの笑顔が静止した。


すぐに戻る。


「ええ。もちろんですわ」


「わたくしも、記録は大切だと思っておりますの」


それだけで終えた。


エステルの現在の言葉を否定していない。


むしろ肯定した。


ただし今後、


本当はセラフィーナを恐れていた。


被害を訴えていた。


などと別の意味を足せる余地は狭くなった。


今日の敗北をひっくり返すほどではない。


だからこそ、この程度でいい。


王室書記が正式文書の続きを読み上げる。


婚約解消。


王太子妃教育の終了。


王宮の政治・外交活動から除外。


国外退去。


帰国には王室許可。


爵位維持。


アルディエール家の財産、領地、地位への処罰なし。


セラフィーナ個人の財産も没収しない。


使用人や関係慈善施設への連座処分なし。


さらに、


「本措置は、セラフィーナ・アルディエール公爵令嬢への犯罪認定または刑罰を意味しない」


という一文まで入る。


無実。


そして追放。


二つが同じ文書に並ぶ。


読者に説明するまでもなく、異常だった。


出国期限は七日。


そこまで読み上げられたところで、セラフィーナが尋ねる。


「出国について、一つお願いがございます」


「申せ」


「七日は必要ございません。三日で結構です」


今度はアドリアンまで驚いた。


「セラフィーナ」


「長く残れば、両国関係を落ち着かせるという本日のご決定にも反するでしょう?」


それだけではない。


自分を追い出すと決めた王都へ、一週間残る理由がない。


準備には三日。


足りない荷物は後から送らせればよい。


「行き先は?」


国王が尋ねる。


「グランデル王国を希望いたします」


ノルディアではない。


それだけは最初から選ばない。


レグリエとノルディア双方に接しながら、今回の交渉へ直接参加していない第三国。


少なくとも現在の滞在先としては適切。


国王は外務侯爵と短く確認し、条件付きで認めた。


受け入れ照会を急ぐ。


グランデル側が拒絶しない限り、そこを滞在先とする。


セラフィーナは礼をした。


「ありがとうございます」


さらに確認する。


「本日読み上げられた、アルディエール家、使用人、救護院その他の慈善事業へ処分を及ぼさないという点は、正式文書へ明記していただけますか」


「明記する」


「わたくしの国外退去理由について、犯罪認定を伴わないことも」


「すでに記載させた」


「ありがとうございます」


名誉が守られるわけではない。


今日これだけ人を集めた以上、


婚約を解消され。


王宮を追われ。


国外へ出された。


という事実の方が強く広がる。


人は判決文の細部より、結果を覚える。


だからこそ、せめて公文書だけは残す。


いつか、


悪事が明らかになったので追放した。


と王家自身が言い換えることだけは難しくしておく。


式が終わろうとした時、国王がエステルへ向き直った。


「オルセーヌ公爵令嬢」


「はい、陛下」


「今回の件で貴女にも負担をかけた。今後もノルディアとの親善日程には予定通り参加してもらいたい。両国関係を落ち着かせるためにも、協力を願う」


エステルは深く礼をした。


「わたくしでお役に立てるのでしたら、喜んで」


王妃も頷く。


「あなたまで王宮から遠ざける必要はありませんもの。これまで通りいらっしゃい」


「ありがとうございます」


静かな会話。


けれど結果は明白だった。


無実と認められたセラフィーナは王宮から出される。


同じ騒動の中心にいたエステルは残る。


セラフィーナは婚約を失う。


エステルはノルディアとの親善を担う重要人物として王家の近くに残る。


まだ誰も、


次の王太子妃。


などとは言っていない。


そんなことを判断する段階でもない。


それでも、今日エステルの政治的位置が上がったことだけは確かだった。


そして彼女は、自分から一度もセラフィーナを責めていない。


勝者として、非常に美しかった。


悔しいかどうかは、また別の話だった。


国王が閉会を告げる。


静粛を求められていた人々が、一斉に立ち始めた。


そこで押さえ込まれていた声が戻った。


「白薔薇が追放された」


「無実だったでしょう」


「無実でも国を危険にしたのでは?」


「本人が何をしたというんだ」


「ノルディアがあそこまで譲歩したんだぞ」


「では外国が嫌いだと言えば、王太子妃を追放できるのか?」


「園遊会で何かあったのは本当なのでしょう?」


「証拠はないと今読み上げたではないか」


「火のないところに煙は――」


「その煙が作られた可能性を調べたんじゃないのか」


「王家が決めたなら理由はある」


「理由なら聞いただろう。鉄と馬だ」


「言葉を慎め!」


声が重なる。


誰が何を言っているのか分からなくなる。


その中で、一人の若い令嬢が友人へ囁く声が聞こえた。


「結局、白薔薇というのも見せかけだったのかしら」


別の声が応じる。


「ノルディアの方があれほど庇っていらっしゃるのに」


さらに、


「白薔薇の悪女、だったということね」


その言葉だけが妙にはっきり耳へ届いた。


反対側から、すぐ別の声が飛んだ。


「ふざけないで」


年若い女性だった。


救護院関係者らしい服装をしている。


「セラフィーナ様が何人助けたと思っているの」


別の男も言う。


「この数年、アルディエール家がどれだけ救護院へ金を入れたと」


「慈善をしたから政治的に正しいとは限らないだろう」


「だから何をしたんだ!」


「追放された、それが答えじゃないのか」


「今、罪はないって王家が言っただろ!」


悪女。


違う。


国のため。


無実だ。


王家が決めた。


犠牲にされた。


白薔薇。


悪女。


声が混ざる。


王宮警護が人々の間へ入り、退出を促し始める。


誰かがセラフィーナへ同情の目を向ける。


誰かが距離を取る。


誰かが好奇心で見る。


誰かが、本当に恐ろしい女を見るような目をする。


数分前まで同じ大広間で、


罪は認定されない。


と正式に読み上げられた女へ。


結果だけが、事実を食い始めていた。


追放された。


だから、何かあったのだろう。


婚約を切られた。


だから、王太子妃に相応しくない女だったのだろう。


外国が要求した。


だから、何か危険な女なのだろう。


王家は彼女の無実を証明した。


同じ王家が彼女を追放した。


多くの人間にとって、二つを同時に理解するより、


悪女だったから追放された。


と一つにまとめる方が簡単だった。


セラフィーナは足を止めなかった。


背後からエステルの声が響く。


「そのような呼び方はおやめくださいませ」


先ほどの令嬢たちが黙る。


エステルは穏やかな声で続けた。


「本日は罪を裁く場ではございませんでしたでしょう?王室からも、セラフィーナ様に違反は認められなかったと正式に示されました。証拠のないことまで悪く仰るのは違うと思いますわ」


正論。


完全な正論だった。


令嬢たちは謝る。


「申し訳ございません」


「軽率でした」


周囲の何人かが、エステルへ感心した視線を向ける。


追放される女を最後まで庇うノルディア公爵令嬢。


綺麗な構図だった。


エステルはセラフィーナへ向き直る。


「申し訳ございません。お耳に入れるようなことでは」


「エステル様がお謝りになることではございませんわ」


「でも」


「止めてくださって、ありがとうございます」


セラフィーナは素直に礼を言った。


エステルも微笑む。


この場に限れば、エステルの行動は正しい。


だからこそ厄介だった。


正しいことをして得た信用は、簡単には崩れない。


「セラフィーナ様」


エステルが声を落とす。


「グランデルでも、お健やかに」


「ありがとうございます」


「いつか、またお会いできることを願っております」


その言葉だけで本心は判定できない。


全部本心でもおかしくない。


セラフィーナは同じ温度で返した。


「ええ。機会がございましたら」


そこで別れた。


廊下の先には、アドリアンがいた。


「少し話せないか」


セラフィーナは止まる。


「今ですか?」


「ああ。二人で」


少しだけ考える。


そして首を横へ振った。


「今日はやめておきましょう」


「なぜ」


「殿下は、ノルディア側が何をどう受け取るかを重く見て、本日のご決定へ賛成なさったのでしょう?」


アドリアンが黙る。


「でしたら、婚約を解消した直後に二人きりで長時間お話しすることが、どのように受け取られるか分かりませんもの」


自分を切った論理を、そのまま返した。


皮肉を言ったつもりはない。


本当にその通りだった。


だから余計に、アドリアンの顔から言葉が消えた。


「……手紙を書く」


「届きましたら拝見しますわ」


「必ず読んでくれるか」


セラフィーナはアドリアンを見る。


大広間で彼は言った。


君に罪がないことは知っている。


それでも追放へ賛成した。


今度は、


手紙を必ず読む。


という約束が欲しいらしい。


「届いたものを読むかどうかまで、今お約束する必要がございます?」


アドリアンは答えなかった。


セラフィーナは礼をし、父とともに王宮を出た。


馬車へ乗る直前まで、背後から人々の声が聞こえていた。


「悪女」


「違う」


「国を危険にした」


「何もしていない」


「追放されたのだから」


「だから、それが間違っているんだ」


一つの答えにはならない。


それでも今日以降、


白薔薇。


という名前の隣には、


悪女。


という言葉が残る。


王家が悪女と認定したわけではない。


むしろ無実だと公表した。


それでも、公衆の面前から婚約者を切り離し、国外へ出した。


人々へ、


この女には何かある。


と考える材料を与えたのは、王家自身だった。


馬車の扉が閉まる。


父は一言も喋らなかった。


怒りが冷めたのではない。


今口を開けば、王家へ引き返すと言い出すから黙っているのだろう。


屋敷へ着くと、母が玄関まで出ていた。


セラフィーナの顔ではなく、父の顔を見た瞬間に何かを察した。


「どうなったの?」


父は答えられなかった。


セラフィーナが代わりに告げる。


「婚約は解消されました。三日後、グランデルへ参ります」


母の唇が震える。


「三日?」


「わたくしがお願いしました」


「そんなに急いで」


「七日いても、することは同じですもの」


母はしばらく何も言えなかった。


それからセラフィーナを抱きしめる。


幼い頃以来かもしれないほど強く。


「ごめんなさい」


「お母様が謝ることではございませんわ」


「守ってあげられなかった」


その言葉にだけ、少し困った。


守れなかったのは母ではない。


王家は最初から、母へ選択など与えていない。


「大丈夫です」


何が大丈夫なのかまでは言わなかった。


母を落ち着かせた後、使用人への説明は翌朝へ回し、父と二人で執務室へ入る。


扉が閉まるなり、父が机を叩いた。


「俺は王家へ行く」


「行って、何をなさいます?」


「決まっている。撤回させる」


「今日の大広間で正式に宣言したものを?」


「アルディエール家を全部動かせば、無視できん」


事実だった。


王国最大級の公爵家が本気で王家へ対抗すれば、無視はできない。


だからこそ危険。


「お父様」


「止めるな」


「止めます」


父が娘を見る。


「今お父様が家を動かせば、王家は何と呼ぶでしょう?」


答えは分かっている。


婚約を失った娘のために、公爵家が王権へ圧力をかける。


最悪なら反逆。


そこまでいかなくとも、王家への政治的威圧。


ノルディアは、


やはりセラフィーナとアルディエール家は危険だった。


と言える。


そして今日、


罪がないのに追放された。


と怒っていた人々の中からも、


やはり王家の警戒は正しかった。


と考える者が出る。


「では黙って娘を捨てさせろというのか」


「今、王家へ攻撃するのはおやめくださいと申し上げています」


「同じことだ」


「違いますわ」


セラフィーナは父を見る。


「わたくしを守るために、お父様とお母様まで失うのは嫌です」


計算だけではなかった。


父は言葉を失う。


「領地も、使用人も、救護院もございます。本日、王家から連座しないという文書もいただくことになりました。まずそれを確実に受け取りましょう」


「お前は」


父は苦しそうに顔を歪めた。


「なぜ、そこまで平気な顔ができる」


「平気ではありませんわ」


即答した。


「ただ、今やるべきことがございますもの」


父は椅子へ沈み込んだ。


しばらくしてから、低い声で言う。


「お前は知らないだろうが」


セラフィーナは待つ。


「国王は、最後まで今日の条件を飲むか迷っていた」


「そうなのですか?」


「ノルディアの条件が悪かったからじゃない。国だけ見れば得だ。演習を縮める。鉄を安定させる。馬を出す。交易も戻す。それだけなら飲みたがる」


では、何を迷ったのか。


父の顔を見れば近い。


「アルディエール家ですか」


「ああ」


王太子婚約者を、罪のないまま国外へ出す。


それで国内最大級の大貴族が王家へ反発すれば、北方を落ち着かせる代わりに国内を割る。


それなら、ノルディアとの緊張を抱えた方がまだ安い。


「だから俺は、飲めないと思っていた」


父の拳が震える。


「今朝まではな」


セラフィーナは何も言わない。


「最後の懸念を消した奴がいる」


胸のどこかが、父の言葉より先に答えを知った。


それでも訊く。


「どなたです?」


父は吐き捨てるように名前を言った。


「アドリアン殿下だ」


予想した名前だった。


それでも、実際に聞くと重い。


「殿下が、何と?」


「お前はアルディエール家を王家へ向けない、と」


父の声が低くなる。


「婚約を守るために国を割るような真似はしない。条件が変わっても、国全体の損失を見れば自分より国を選ぶ。俺たちが怒っても、お前自身が止める」


昨日。


アドリアンはセラフィーナへ言った。


君ならそうすると思った。


今日も言った。


君は自分だけを優先するようなことは選ばない。


「それだけじゃない」


父が続ける。


「自分なら、お前に理解させられるとも言ったそうだ」


その言葉に。


今度こそセラフィーナは何も返せなかった。


父が笑った。


笑い声ではなかった。


「王家が一番怖がっていたのは、お前が罪を犯していることじゃなかった」


セラフィーナは父を見る。


「お前が、罪もないのに捨てられたと知って、それでも抵抗することだった」


静かな執務室へ、その言葉だけが落ちた。


罪の有無ではない。


ノルディアの要求だけでもない。


セラフィーナを捨てた結果、アルディエール家が敵になる。


王国が内側から割れる。


それが最後の障害。


そして。


その障害を消したのが、自分を一番よく知っている男だった。


「お前が抵抗しないと、あいつが保証したからだ」


セラフィーナは自分の手を見る。


幼い頃からアドリアンの癖を知っていた。


何を言えば考えるか。


どこで迷うか。


どんな王になろうとしているか。


誰よりよく知っているつもりだった。


向こうも同じだった。


セラフィーナが何を守るか。


何をしないか。


家族をどう扱うか。


国を割るような行為を選ばないこと。


そこまで正しく知っていた。


彼はセラフィーナの無実も知っていた。


善良さも知っていた。


責任感も知っていた。


そして、その全部を。


彼女を守るためではなく。


彼女なら捨てても国を焼かないという保証に使った。


今日、大広間でセラフィーナを悪女と呼んだ者たちは、何も知らなかった。


彼女はそんな人ではないと怒った者たちの方が、ずっと正しかった。


そして王家も。


アドリアンも。


最初からそれを知っていた。


悪女だから捨てたのではない。


悪女ではないと知っていたから、捨てられた。


セラフィーナはそこでようやく理解した。


自分を一番よく知っている男が、自分を最も安全な犠牲に変えたのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。