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一人で済むのなら

王太子妃教育を止められた翌日も、王都そのものは何も変わらなかった。


朝になればパン屋は店を開け、通りには荷馬車が入り、アルディエール公爵邸にもいつも通り商人と書簡が届く。


変わったのは、セラフィーナの予定表だけだった。


本来なら午前中に王宮で受けるはずだった外交史の講義が消え、午後の王妃との儀礼確認もなくなった。


空いた時間には、救護院から届いた帳簿を確認した。


以前なら予定の合間に処理していた仕事なので、時間が余ったというより、順番が変わっただけだった。


「ずいぶん静かですわね」


書類をまとめながら言うと、向かいに座っていたエルンストが顔を上げた。


「何がでしょう」


「王宮です」


昨日は、


王太子妃教育を停止する。


王宮の公的行事へ出るな。


噂について自分から説明するな。


と立て続けに決めておきながら、それ以降は何の連絡もない。


「旦那様は朝から王宮におられます」


「知っています」


父には北方情勢に関する会議への出席要請が届いていた。


セラフィーナへは届いていない。


アルディエール家そのものを排除しているわけではなく、やはり外されているのは自分だけだった。


「お父様から何か?」


「ございません」


「なら、待ちましょう」


知らない会議について想像だけで答えを作る必要はない。


セラフィーナは次の帳簿へ手を伸ばした。


昼を過ぎても父は戻らなかった。


代わりに、王宮からアドリアンが来た。


先触れを受けた時、セラフィーナは少し意外に思った。


昨日別れ際に、


何とかする。


と言っていた。


何か報告できることができたのかもしれない。


応接室へ入ってきたアドリアンは、昨日ほど疲れてはいなかった。


ただし、安心している顔でもない。


「急に来てすまない」


「構いませんわ。今日は予定が空いておりますから」


アドリアンが僅かに顔をしかめた。


皮肉として言ったつもりはなかった。


事実だった。


「お茶は?」


「もらう」


二人分の紅茶が運ばれる。


侍女が下がり、扉が閉じるまで、アドリアンは何も話さなかった。


セラフィーナは待った。


この男は難しい話をする時、最初の一言を決めるのに時間が掛かる。


昔からそうだった。


「今日も北方の会議をしている」


「お父様が出ておりますわね」


「ああ」


「殿下はこちらにいらして大丈夫なの?」


「少し抜けてきた」


かなり珍しい。


それだけ自分と話す必要があるらしい。


「何をお聞きになりたいのです?」


アドリアンが一度カップへ視線を落とした。


「もし」


そこで止まる。


「仮の話なんだけど」


「はい」


「君一人が、しばらく王都を離れることで、今の状況を落ち着かせられるとしたら」


セラフィーナは少しだけ目を細めた。


「しばらく、とは?」


「まだ決まってない。でも、例えば三か月」


「どこへ?」


「そこも決まっていない。アルディエール領か、場合によっては国外」


昨日より一段進んでいる。


王宮へ出るな、ではない。


王都から離れる。


さらに国外まで候補に入っている。


「ノルディア側から?」


「向こうから出た話もある」


「どこまでが?」


アドリアンが少し困った顔をする。


「全部は話せない」


「でしたら、わたくしも全部を判断できませんわね」


責めたわけではない。


情報がないのだから当然だった。


アドリアンも分かっているらしく、頷いた。


「分かってる。だから今すぐ答えを決めてほしいわけじゃない」


「では?」


「条件だけ聞きたい」


セラフィーナは紅茶へ手を伸ばした。


まだ温かい。


「具体的にお願いします」


アドリアンが少し息を吐いた。


「君一人が三か月ほど王都を離れる。その間、王太子妃教育は止める。でも婚約はそのまま。爵位も財産も当然変わらない。アルディエール家にも何の処分もしない」


「国外の場合は?」


「王家が安全を保証する」


「帰国は?」


「三か月を目安に戻す」


「目安では困りますわ」


「じゃあ、三か月を上限にする」


セラフィーナはそこで初めて少し考えた。


今言われた条件だけなら、大きな損失ではない。


三か月。


婚約維持。


家への処分なし。


帰国期限あり。


犯罪を認める必要もない。


王太子妃教育が三か月遅れた程度なら、取り戻せる。


「それで何が変わるのです?」


そこが最も重要だった。


「ノルディアは?」


アドリアンは少し身を乗り出した。


「国境近くの演習規模を縮小する話が出ている」


「確約?」


「まだ交渉中だ」


「鉄は?」


「今季の契約を急に変えないよう、王家から商人へ働きかける可能性がある」


「軍馬は?」


「遅れてる分を優先して出す案が出てる」


いずれも決定ではない。


ただ、昨日まで何も譲る気配のなかったノルディアが、交換条件を示し始めている。


その交換条件の一つが、自分だった。


「わたくしが三か月消えれば、ノルディアは少し大人しくなるかもしれない」


「そういう言い方をすると最悪だな」


「内容は違いまして?」


アドリアンは答えなかった。


違わないのだろう。


セラフィーナはカップを置いた。


「それだけなら、検討できます」


アドリアンがすぐ顔を上げた。


「本当に?」


「条件が今おっしゃった通りなら」


念を押す。


「三か月を上限。婚約維持。爵位と財産はそのまま。アルディエール家、使用人、救護院その他へ今回のことを理由とした不利益を広げない」


「ああ」


「わたくしが罪を認めた形にも、処罰された形にもしない」


「もちろんだ」


「国外なら、滞在国の了承を正式に取る。わたくし自身にも滞在先を選ぶ余地をくださいませ」


「それも話せる」


「そして、ノルディア側の譲歩は、わたくしが出た後に検討するのではなく、同時に実行されること」


アドリアンが少し笑った。


「やっぱりそこまで言うと思った」


「先にこちらだけ払う理由はありませんもの」


「分かってる」


条件を並べてみても、受け入れられないものはない。


むしろ、これだけ明確に限定できるなら悪くなかった。


自分一人が三か月王都を離れる。


それだけで国境の兵が減り、鉄と馬の問題が少しでも軽くなるなら、国全体へ負わせる費用より安い可能性が高い。


「本当に、それだけで済むのでしたら」


セラフィーナは言った。


「わたくしは構いませんわ」


アドリアンの肩から、目に見えて力が抜けた。


その反応が気になった。


「随分安心なさるのね」


「ああ」


「まだ仮のお話でしょう?」


「そうだけど」


アドリアンはカップへ触れた。


少し迷ってから続ける。


「父上が、一番そこを気にしてたから」


「何を?」


「アルディエール家が反発すること」


セラフィーナの指が止まった。


「お父様が?」


「君を王太子の周囲から外す話を進めれば、公爵家が王家への圧力だと受け取る可能性があるって」


それは当然だった。


実際、昨日父はかなり怒っていた。


「それで?」


アドリアンは少しだけ視線を逸らした。


「僕は、君はそんなことをしないと思うって言った」


セラフィーナは黙った。


「そんなこと、とは?」


「国を割るようなこと」


アドリアンは言葉を選んでいる。


「君が自分の立場を守るために、公爵家の力を使って王家と正面から争うことはないと思うって」


室内は静かだった。


庭から鳥の声が一度聞こえた。


「いつ、おっしゃったの?」


「昨日の夜」


セラフィーナはアドリアンを見る。


昨日の夜。


つまり。


今こうして自分へ、


三か月離れられるか。


と尋ねるより前。


「わたくしに確認する前に?」


「セラフィーナ」


「責めておりません。順番を確認していますの」


アドリアンの表情が少し曇る。


「……前だ」


「そう」


「でも、君が絶対に受け入れるって言ったわけじゃない」


「何と?」


「君なら、まず国全体の損失を考えるだろうって」


胸の奥に、細い棘が入ったような感覚があった。


痛いというほどではない。


まだ。


「それから?」


アドリアンは黙った。


「まだあるのね」


「君は、アルディエール家まで巻き込んで自分の立場を守るような選び方はしないって」


なるほど。


セラフィーナは少しずつ理解した。


国王は、ノルディアとの交渉だけを見ているわけではない。


セラフィーナを外交上の譲歩へ使った場合に、国内で何が起きるかも考えている。


王国最大級の公爵家が王家へ反発すれば、国外の緊張を下げる代わりに国内の緊張を作ることになる。


それでは意味がない。


だから、


セラフィーナ本人が抵抗するか。


公爵家を動かすか。


それが重要だった。


そしてアドリアンは。


本人へ尋ねる前に、


その危険は小さい。


と王家へ伝えた。


「間違っていました?」


アドリアンが尋ねた。


セラフィーナはすぐには答えなかった。


難しいところだった。


結果だけなら。


間違っていない。


現に、条件が本当に今聞いた通りなら、セラフィーナは受け入れてもいいと判断した。


父に王家と争わせるつもりもない。


だからこそ、嫌だった。


「今回のお話については」


セラフィーナは静かに答えた。


「結果としては、殿下の予想通りですわね」


アドリアンの表情が少し緩む。


「でも」


その緩みが止まった。


「次からは、わたくしが何を選ぶかを、わたくしより先に決めないでくださいませ」


「決めたつもりじゃ」


「王家へ伝えたのでしょう?」


強い声にはしなかった。


「わたくしは公爵家を動かさない。国全体の損失を考える。自分の立場を守るために国を割らない、と」


「それは」


「全部、よくご存じですわ」


実際、よく知っている。


幼い頃から一緒にいるのだから。


「だからといって、わたくしの答えを先に使ってよいことにはなりませんでしょう?」


アドリアンは何も言わなかった。


セラフィーナも続けなかった。


今なら、それで十分だった。


彼が何を間違えたのかは伝えた。


理解するかどうかは本人の問題だ。


少しして、アドリアンが言った。


「悪かった」


「ええ」


「次は先に聞く」


「そうしてくださいませ」


謝罪を受け取る。


それで終わり。


少なくとも、今は。


「じゃあ、今の条件なら」


アドリアンが言う。


「君は検討できる?」


「はい」


「三か月。婚約はそのまま。家にも触れない」


「それから、帰国を確約してください」


「ああ」


「わたくし一人までです」


アドリアンがこちらを見る。


「一人まで?」


「ノルディアが、次はアルディエール家も王太子から遠ざけろと言い出したら?」


「受けない」


「使用人や救護院へ、わたくしとの関係を理由に圧力を掛けたら?」


「させない」


「なら、明記してくださいませ」


「分かった」


セラフィーナは頷いた。


「本当に、わたくし一人で済むのなら」


それなら、払える。


国境で兵士を何か月も待機させるより。


商人へ余計な費用を負わせるより。


王家と公爵家が争うより。


一人の三か月で終わるなら、安い。


アドリアンはその言葉を、しばらく黙って聞いていた。


やがて、


「ありがとう」


と言った。


セラフィーナは少しだけ眉を上げた。


「まだ何もしておりませんわ」


「分かってる」


「それに、殿下のためでもありません」


「それも分かってる」


本当に分かっているのかは、判断できなかった。


けれど、今はそれ以上追及する必要もない。


アドリアンは会議へ戻るため、公爵邸を出ていった。


その背中を玄関で見送り、セラフィーナは執務室へ戻った。


父が帰ってきたのは、それから一時間ほど後だった。


扉を開けた瞬間の顔で、良い話ではないと分かった。


「お父様」


「アドリアンが来たか」


「ええ」


父の表情がさらに険しくなる。


「何を話した」


「三か月ほど王都を離れる案について」


「受けたのか」


「条件付きでなら検討すると」


父が目を閉じた。


「そうか」


「何か問題が?」


「問題しかない」


父は椅子へ座る前に、首元の留め具を外した。


王宮から戻った直後でも滅多にしない仕草だった。


「会議で、向こうの案を検討することになった」


「ノルディアの?」


「ああ」


「どのような?」


「最初は、お前を王宮政治から外せばいいという話だった」


それは昨日すでに始まっている。


「今日になって、ノルディア側から一段進んだ」


父の声が低くなる。


「国内にいる限り、王太子への影響力が残ると言ってきた」


セラフィーナは黙って聞く。


「だから?」


「一定期間、第三国へ移る案を出してきた」


先ほどアドリアンも、


場合によっては国外。


と言っていた。


そこまでは一致する。


「三か月?」


「まだ決まっていない」


「婚約は?」


「今のところ触れていない」


「アルディエール家は?」


「同じだ」


なら、先ほどの条件から大きく外れてはいない。


「お父様は反対?」


「当然だ」


「なぜ?」


父が娘を見る。


「お前が悪いから出すわけじゃない」


「存じております」


「なのに、外国が嫌がったから王国から一時的にでも出す。そんな前例を作りたいと思うか?」


正論だった。


セラフィーナは少し考える。


「では、お父様はどの程度の費用なら払っても構わないと?」


父が止まる。


「国境警戒。鉄の代替。軍馬の調達。通商協議の停止。全部を長期間続ける場合です」


「それと娘を比べろと言うのか」


「王国は比べますわ」


父親は比べなくていい。


国は違う。


「だからこそ、お父様が会議にいらっしゃるのでしょう?」


公爵として。


父親としてではなく。


父は返事をしなかった。


セラフィーナは続ける。


「わたくしも、追放されたいわけではありません」


「当たり前だ」


「でも、条件を限定できるなら、選択肢から外す理由もありません」


父が苦い顔をする。


「アドリアンと同じことを言うな」


セラフィーナの目が少し動いた。


「殿下は、会議でも?」


「あいつは」


父が一度言葉を切った。


「お前が自分を守るために公爵家を王家へぶつけることはない、と言った」


先ほど本人から聞いた。


「ええ」


「俺は腹が立った」


「でしょうね」


「お前の性格を知っているから何だ。人の娘の答えを勝手に議題へ載せるな」


セラフィーナは少し驚いた。


同じところへ怒っている。


「わたくしも、先ほどそう申し上げました」


「何と?」


「次からは、わたくしの答えをわたくしより先に決めないでください、と」


父の顔から、ほんの少しだけ険しさが消えた。


「それならいい」


「殿下も謝りましたわ」


「それで許したのか」


「今回については、予想そのものは当たっておりますもの」


父が不満そうな顔になる。


「お前は本当に」


「何でしょう?」


「いや」


続きは言わなかった。


その日の夕方。


王宮から正式な文書は来なかった。


交渉はまだ続いているらしい。


代わりに届いたのは、マルタがいつもの経路で受け取った小さな紙だった。


通信薬液を塗る。


浮かび上がった文字を、セラフィーナとマルタで読む。


『対象の王宮活動停止を確認』


一行目で、セラフィーナは目を止めた。


レグリエ王宮から公式発表は出ていない。


少なくとも一般には。


それでもノルディアの情報網は知っている。


驚くことではなかった。


彼らが交渉相手なのだから。


続き。


『対象が王都またはレグリエ国外へ一時移動する可能性あり。決定された場合は可能な限り同行せよ』


マルタの顔が変わった。


「同行」


「ええ」


さらに読む。


『対象の滞在先、面会者、書簡、現地での政治的接触を継続して報告すること』


セラフィーナは最後まで読んだ。


「随分気が早いですわね」


「まだ決まっていないのに」


「向こうから出した案なら、準備はするでしょう」


合理的ではある。


ノルディアから見れば、セラフィーナを王太子の隣から遠ざけることと、監視をやめることは別問題だ。


国外へ行くなら、その先でも見たい。


末端の情報員を同行させられるなら利用する。


「どうしましょう」


マルタが尋ねた。


「何が?」


「もし、本当に国外へ行くことになったら」


セラフィーナはマルタを見る。


「今決める必要はありませんわ」


「でも、向こうは同行しろと」


「ノルディアが決めることと、あなたが決めることは別でしょう?」


マルタが黙る。


「わたくしについて来る義務もありません。ここへ残ることもできますし、別の勤め先を探しても構いません」


「セラフィーナ様」


「まだ国外へ行くこと自体、決まっていませんもの」


順番を飛ばさない。


今日一日で、他人が自分の答えを先に決めることには少し飽きた。


「報告は?」


「王宮での活動が止まったことは、もう知っているようですから確認して構いません」


「国外移動については?」


「未決定。あなた自身も詳細を知らない。それだけ」


「はい」


マルタが紙を畳みかける。


その途中で止まった。


「セラフィーナ様」


「何かしら?」


「これ」


一番下を指す。


まだ続きがあった。


小さな文字だった。


『対象は公爵家を巻き込む強硬な抵抗を避ける可能性が高い。感情的な説得は不要。実利条件への反応を観察せよ』


セラフィーナはその一文を二度読んだ。


マルタが青ざめる。


「私が」


「何?」


「これまで報告したことから……」


可能性はある。


ただし分からない。


ノルディアの情報源はマルタだけではない。


社交界でのセラフィーナの行動。


公爵家の方針。


王宮での評判。


過去の判断。


そこから同じ結論へ至ったのかもしれない。


「あなたの報告だけとは限りませんわ」


セラフィーナは言った。


「でも」


「今それを決めても意味はありません」


マルタの罪悪感を慰めるためではない。


本当に分からないからだった。


ただ。


少しだけ妙だった。


アドリアンは、


セラフィーナなら公爵家を使って争わない。


と言った。


ノルディアも、


強硬な抵抗を避ける可能性が高い。


と判断している。


別々の相手が、同じ答えへ辿り着いている。


その答え自体は間違っていない。


少なくとも。


今のところは。


「セラフィーナ様?」


「何でもありませんわ」


紙を戻す。


「予定通り報告してください」


「はい」


夜になっても、王宮から最終決定は来なかった。


セラフィーナは寝室へ入る前に、机の上へ一枚だけ紙を置いた。


国外へ出る場合の条件。


三か月を上限。


婚約維持。


爵位と財産の維持。


家族、使用人、救護院への不利益なし。


犯罪や処分として扱わない。


帰国を保証。


ノルディア側の譲歩と同時実行。


今日アドリアンへ伝えたものを、簡潔に書いただけだった。


口頭だけにしておく理由はない。


明日、王宮へ正式に提出する。


これより悪い条件へ変わるなら、改めて判断する。


セラフィーナは最後に一行加えた。


『以上は、本人一名の一時的移動のみを条件とする』


一人で済むのなら。


その言葉は本心だった。


一人が三か月離れるだけで、多くの人間へ掛かる費用や危険を減らせるなら、選択肢にはなる。


ただし。


自分が何を差し出すかは、自分で決める。


そこだけは、当たり前のことだと思っていた。


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