第4章 第12話 水の戻る道
職人は、大石に触れる前に、周りの小石を拾った。
持ち上げた石の下から、水が少し勢いを増して流れ出す。
「石を全部どけるのは後だ。先に、溢れた水の逃げ道を作る」
もう一人の職人が、荷車から上げた道具を並べた。
長い鉄棒と、太い縄。それから、綱を少しずつ引くための小さな巻き上げ機だった。
ルナはカイルと板を運んだ。
職人の指すところへ置くと、割れた水路の縁が隠れる。
「石はこっちへ動かす。板を置いたら、二人とも縄の外へ出てくれ」
「はい」
ルナは長杖を拾い、カイルと一緒に足場を移った。
下では、護衛たちが交代で盾を構えている。
岩背獣は道の中央へ戻るたびに行く手を遮られ、また小さな二頭のそばへ退いていた。
ユニは家畜を落ち着かせながら、職人が使う道具を荷車から降ろしていた。
鉄棒が石の下へ入る。
綱が張り、巻き上げ機が低く鳴った。
石が動いたのは、ほんの少しだった。
職人はその隙間へ木を差し入れた。棒の位置を変え、また合図をする。
ぎり、と綱が鳴る。
石の下から、濁った水が噴き出した。
「来ました!」
「よし。いったん止めよう」
石は木の支えに載ったまま動かなくなった。
カイルが額を拭う。
「荷車に積める道具で、こんなのも動くんだな」
「少しずつならな」
職人は綱を確かめ、流れのそばへしゃがんだ。
*
水は戻り始めたが、谷の奥へはまだ届かなかった。
ルナは斜面の途中から、乾いた溝を見ていた。
水音が近づいてきたと思ったのに、下で止まっている。
代わりに、街道の石槽へ向かう溝が濡れ始めた。
「そっちなんだ……」
岩背獣が顔を上げた。
鼻先が、石槽の方へ向く。
アレッタが盾を持ち直した。
「車をもう少し下げて!」
ユニが御者へ声をかける。
ルナは上を振り返った。
「谷の方には、水が入りません!」
職人が石のそばから顔を上げた。
「分かれ目が埋まってるのかもしれん」
「見に行ってもいいですか?」
「獣が近い。護衛に聞いてくれ」
アレッタは仲間へ前を任せ、斜面の端まで来た。
「あの溝だね。ここを通ろう。道には出ないで」
ルナは彼女のあとに続いた。
分かれ目には、平たい石が斜めに差し込まれていた。片側には新しい板の跡があり、谷へ向かう側には土と枯れ草が詰まっている。
職人も下りてきて、石を確かめた。
「谷側は、流れる幅が狭くなってるな。水が戻っても、このままじゃ石槽の方へ流れてしまう」
ルナは溝の先を見た。
草に隠れながら、谷の窪地へ続いていた。
「こっちを開ければ、水場まで流れますか?」
「途中も確かめる必要はあるが、通せるはずだ」
「先に、そちらへ流したいです」
ルナは石槽を見た。
水が落ちるたび、岩背獣が一歩ずつ近づこうとしている。
「街道だけに水が戻ったら、この場所から離れなくなるかもしれません」
アレッタが頷いた。
「谷の方を先にしよう。車を通すのは、それからだ」
*
職人が水を分ける板を差し込んだ。
石槽へ向かう流れが細くなる。
ルナは小さな熊手を借り、足場から届く枯れ草を引き上げた。泥の塊が取れると、溝の底に並んだ石が見えた。
水が入ってくる。
だが、少し先で溢れた。
「そこにも詰まってる!」
カイルが指した。
ルナは足場を移り、熊手を伸ばした。
引き上げた草の根へ泥が絡み、思ったより重い。柄を短く持ち直し、石の縁へ引き寄せた。
塊が外れた。
水が、乾いた底を走っていく。
ルナは立ち上がった。
濡れた筋が、草の向こうへ伸びている。
その先で、小さな水音がした。
「届きました!」
*
岩背獣の三つの頭が、同じ方へ向いた。
アレッタが仲間へ合図を送る。
「谷側を空ける。追わずに下がれ」
盾を持った護衛が、ゆっくり道の内側へ寄った。
大きな一頭が首を伸ばす。
槍が退くと、獣は足を一つ進めた。
また止まり、人々を見る。
誰も近づかなかった。
やがて、水音へ向かって歩き始めた。
小さな二頭があとを追う。
荷車の桶には、見向きもしなかった。
親が水へ口をつけると、小さな一頭はその横へ身体をねじ込んだ。
「そんなに急がなくても……」
ルナが呟く。
もう一頭は反対側へ回り、三頭が並んで頭を下げた。
アレッタが盾を下ろした。
地面へ置くと、底から乾いた土が崩れた。
ユニが水筒を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
アレッタは受け取り、ようやく肩を動かした。
ルナも熊手を置いた。
柄を握っていた指が、すぐには開かなかった。
*
午後、最初の荷車が谷を通った。
岩背獣は窪地のそばから頭を上げたが、追ってはこなかった。
大石は道の外へ据えられ、水路には仮の板が残った。職人は翌日も来て、溝を直すという。
ルナとカイルは、使い終えた道具を車へ戻した。
「水がないままなら、また降りてきただろうな」
カイルが言った。
ルナは谷の奥を見た。
硬い背中が、草の向こうへ半分隠れている。
近づきたいとは思わなかった。あそこで水を飲めていれば、それでよかった。
にゃん吉君が車の縁へ下りた。
泥のついたルナの手元を覗き、顔を上げる。
「にゃん吉君は、汚れなかったね」
白い身体の下には、砂が少しだけついていた。
「……少しはついたか」
ユニが布を差し出した。
「先に、ルナの手を拭きましょう」
泥が爪の間へ入り、熊手を握った掌が赤くなっている。
「明日、筋肉痛かもしれません」
「明後日に来ることもある」
アレッタが言った。
「それ、嫌ですね」
彼女が笑った。
*
翌朝、町に預けていた薬草を積み直し、ルナたちはカイルの荷車で谷を渡った。
窪地の水は、昨日より澄んでいた。
谷の向こうの診療所では、荷を確かめた女性の肩から力が抜けた。
「別の薬でつないでたけど、こっちを待ってる人もいたんだ。ありがとう」
ルナは最後の包みを棚のそばへ置いた。
カイルが帳面に印をもらう。
「仕事、終わり」
「お疲れさまでした」
ユニが言った。
「ああ。今日はこの町に泊まるんだろう? 夕飯は俺が出す」
ルナはユニを見た。
ユニはもう、何かを聞こうとしていた。
「この町の名物は何ですか?」
カイルが笑った。
「宿の主人に聞こう。俺より詳しい」
荷を下ろした車は、来たときより軽い音を立てた。
ルナはその横を歩きながら、留め具の緩んだ腰の鞄の蓋を押さえた。
収納バッグにしまった手帳には、谷へ水を戻した分かれ目を描いてある。
今夜は、その先も書いておこうと思った。




