第4章 第3話 噴水で待つ人
朝の食堂で、ルナは出されたパンを持ち上げた。
中から、緑色の豆が一つ落ちた。
「あ」
「皿の上で割った方がいいよ」
宿の主人が湯気の立つ椀を置く。
「昨日のうちに言っておけばよかったね。ここのは具を詰めて焼くんだ」
ルナは慌てて皿へ戻した。隣のユニは、最初からパンを皿の上で二つにしている。
「ユニちゃん、上手だね」
「こちらに切れ目があります。そこから開くと、こぼれにくいですよ」
ユニはパンの端を示してから、小さく分けた一切れを空いた皿へ載せた。にゃん吉君が椅子の上から顔を近づける。
「熱くなくなってからですよ」
「ワン」
主人が小さな匙を貸してくれた。ルナは落ちた豆を皿へ戻し、教わった切れ目からパンを開いた。
豆は柔らかく、塩気のある肉と混ざっている。外側のパンを椀の汁に浸して食べると、朝から身体が温まった。
昨夜は疲れていて、窓の外を見る余裕もなかった。今は広場へ向かう荷車の音や、通りで呼び交わす声がよく聞こえる。
「今日は、いろいろ聞けるといいね」
ルナが言うと、ユニは匙を置いて頷いた。
*
ギルドの受付には、昨日と同じ女性がいた。
「おはよう。眠れた?」
「はい」
「ならよかった。ミレア、来たよ」
奥の机から、一人の女性が立ち上がった。
茶色の髪に短い角があり、脇には地図の筒を抱えている。ルナを見るより先に、机の上の紙を重ねて紐で縛った。
「白い森を通ってきたというのは、あんたか」
「ルナです。こっちはユニちゃんと、にゃん吉君」
「ミレアだ。古い道や建物の調査をしている」
案内された机には、石橋の図が広がっていた。壊れたところを直すために、昔の図面と比べているらしい。
ルナは昨日の話をもう一度した。
「もともとは、エルフの街へ行くつもりだったんです。古い魔法の記録が残っていると聞いて」
「その途中で、ラウネへ降りたのか」
「はい。そこで、あの道を見つけました」
ミレアが尋ねたのは、道を見つけた時間と、木の色が変わった場所だった。ルナは覚えているところまで答え、分からないところでは首を横に振った。
「海を越えた道の記録は、私は知らないな」
ミレアは筆を置いた。
「古い転移施設なら残っている。だが、話を聞く限りでは、あんたたちは建物に入っていない」
「普通の森だったんです。少なくとも、最初は」
「その森がこっちにない以上、すぐに調べ直すのも難しいか」
ルナは机の端へ目を落とした。
そこで何日も調べれば、元の道を見つけられるかもしれないと思っていた。けれど、草原に戻っても、同じ場所に立つことしかできない。
ミレアが地図の筒を持ち直した。
「一人、会わせたい奴がいる。私より昔を知ってる」
「この町の人ですか?」
「今はいるはずだ。市場へ行こう」
受付の女性が手を振る。
「魔神様によろしくね」
ルナは立ち止まった。
「……今、何て?」
「歩きながら話す」
ミレアは先に扉を開けた。
*
市場では、魚と香草の匂いが混ざっていた。
浅い桶に水を流す店の隣で、赤い粉を量り売りしている。頭に大きな角のある男性が通れるよう、屋根の布は高く張られていた。
「魔神様って、怖い人ですか?」
「怒らせなければな」
「怒らせたことがあるんですか?」
「借りた本を返し忘れた」
ルナは思っていた話と違って、返事に困った。
ミレアは焼いた木の実を売る店で足を止める。
「今日、来たか?」
「さっき買ってったよ。噴水の方じゃないかな」
「助かる」
代金を払っていた客が、こちらを振り返った。
「人間の子? 魔神様に用かい」
「はい。たぶん……」
「話が長くなるなら、先に昼飯を食べときな」
その人も、特に怖がってはいなかった。
広場へ出ると、水音が聞こえた。
噴水の縁に、黒に近い紫色の髪をした女性が座っている。膝には紙袋。小さな木の実を取り出し、指先で殻を割っていた。
「遅かったな」
女性はミレアを見て言った。
「こっちは仕事を片づけてきたんだ」
「そりゃご苦労」
灰色の瞳が、ルナへ移る。
「お前が左の道を選んだ子か」
ルナの足が止まった。
ミレアから目を離し、もう一度女性を見る。
「……話してあったんですか?」
「いや。この話はまだしていない」
ミレアも女性を見ていた。
女性は木の実を一つ口へ入れ、空いた場所を示した。
「座れ。そろそろ、その辺に水が飛ぶ」
ルナが脇へ寄った直後、噴水の向こうで子供が桶をひっくり返した。石畳を洗っていたらしい。水が走り、さっきまでルナが立っていた場所を濡らした。
「ごめんなさい!」
「こっちは平気だ」
女性は手を振った。
ルナは濡れた石と、彼女の顔を交互に見た。
「今のも、知ってたんですか?」
「少し先のことが見えるんだ。時々な」
答えは、あまりにも普通だった。
「じゃあ、私たちが来ることも?」
「今朝、ここにいるお前が見えた。白いのを連れて、左の道の話をしていた」
にゃん吉君が噴水の上へ浮き上がった。
「ワン」
「それで、待ってたんですか?」
「木の実を買いに来たついでだ」
ミレアが小さく笑った。
「だったら、私に言っておけば探さずに済んだだろ」
「そうしても、ここへ連れてきたか?」
「連れてきたな」
「じゃあ同じだ」
ルナはまだ座れずにいた。
未来を見た。
研究院で教わった話にも、地図にもなかったことが、また一つ目の前にある。
「私が来た理由も、分かりますか?」
女性は今度はすぐに首を横に振った。
「森の仕組みは知らん。見えたのは、ここに来たお前だ」
その返事に、ルナはようやく息を吐いた。
「全部が見えるわけじゃないんですね」
「全部見えたら、ミレアに本を貸したりしない」
「それは返すと言ってるだろ」
ルナは堪えきれずに笑った。
女性も笑い、紙袋を差し出す。
「ヴェラだ。魔神様なんて呼ぶなよ」
ルナは木の実を一つ受け取ってから、噴水の縁に座った。




