第4章 第2話 海を隔てた町
草が、同じ方向へ一斉に倒れた。
森を出たルナの頬を、乾いた風が撫でていく。
見覚えのあるものを探した。湖も、赤茶色の屋根も、列車の線路も見つからない。
「……こんなところ、地図にあったかな」
振り返った。
白い森がなかった。
ついさっき足を踏み出した場所には、背の低い草が生えている。少し離れたところに丸い岩が一つ。向こうには緩やかな丘が続いていた。
ルナは二歩戻った。
長杖の先で草を分ける。湿った落ち葉も、木の根もなかった。
「……道が、なくなっちゃった」
別の場所へ出るとは聞いていた。けれど、道そのものがなくなるところまでは、想像できていなかった。
ユニが隣へ来た。
「ユニちゃん。ラウネには、戻れる?」
「はい。行った場所ですから」
ルナは息をついた。
白い森を通って戻ることはできない。けれど、ラウネへ帰れなくなったわけではなかった。
「戻りますか?」
ルナはもう一度、草原を見渡した。
遠くに黒い山がある。知らない鳥が、草の間から飛び立った。
「……その前に、ここがどこなのか知りたいな」
「では、人に尋ねましょう」
「うん。道があれば……」
草原の低いところに、二本の轍が見えた。
にゃん吉君がそちらへ進み、丘の手前で振り返った。
「ワン」
車輪の音が聞こえる。
丘の陰から、荷車がゆっくり現れた。
*
荷車を引いている獣には、足が六本あった。
幅の広い背が揺れるたび、荷台の籠がかたかた鳴る。御者台に座る男には黒い角が二本あり、後ろから顔を出した女性の頬には細かな鱗があった。
ルナは道の脇で手を上げた。
「すみません!」
男が手綱を引く。
「どうした。車が壊れたのか?」
「いえ。あの……ここは、ラウネから遠いんですか?」
「ラウネ?」
男が女性を振り返った。女性も首を傾げる。
「知らないね。どっちにある町?」
「湖の町です。列車が通っていて、アステリアの南に……」
説明しながら、ルナは二人の顔を見た。
町の名前にも、森の話にも、心当たりはなさそうだった。
「ここは魔大陸の東の街道だぞ」
男が言った。
「……魔大陸?」
「ああ。人間の船が来るのはずっと西だ。あんたら、どこから入った?」
ルナは、今歩いてきた草原を見る。
海を渡っていない。
舟にも船にも乗っていない。
「森を、歩いてきたんです」
うまく言葉が続かなかった。
女性が荷台から降り、ルナの目の高さにかがんだ。
「喉は渇いてない?」
「水は持ってます」
「そう。なら一口飲んで、落ち着こうか。話を聞いてくれるところまで連れていくよ」
疑って笑われると思っていた。
けれど、女性は荷台の籠をずらして場所を空けた。
「ここに座れる。二人とも乗りな」
ルナは頭を下げ、ユニと並んで荷台へ乗った。
六本の足が、ゆっくり動き始める。
「その子は乗らないの?」
女性がにゃん吉君を見た。
「たぶん、そのままついてくると思います」
「ワン」
「楽な旅をしてるねえ」
その言い方に、ルナは少し笑えた。
*
町の壁が見えてくる頃には、空が薄い橙色になっていた。
道端には、皮の厚そうな紫の実を積んだ露店がある。角の曲がった老人が値段を告げると、荷籠を背負った若者が一つ手に取り、首を横に振った。
「高いよ」
「大きいだろう」
「大きければいいってもんじゃない」
やり取りを聞いて、ルナはもう一度露店を見た。
知らない姿の人たちが、知っているようなことで言い合っている。
門では、見張りが冒険者証を確かめた。
「人間か。珍しいな。仕事で?」
「いえ、旅です」
「そうか。困ったら中央通りのギルドへ行け。今日ならまだ開いている」
それだけ言って、通してくれた。
荷車を降りると、連れてきてくれた女性が大きな建物を指した。
「あの看板がギルドだよ。私たちは荷を下ろしに行くから」
「ありがとうございました。助かりました」
「今度は町の名前を確かめてから出かけな」
男が笑って手を振った。
ルナは去っていく荷車を見送ってから、ユニへ向き直った。
「……来られたね」
「はい」
「でも、魔大陸だって」
口にしても、まだ実感がなかった。
白い森を出ただけで、海の向こうに来てしまった。
立ち止まりかけたルナの横を、小さな子供が駆け抜けた。手に持ったパンから、焼けた豆の匂いがした。
「お母さん、浮いてる!」
「人を指ささないの」
「でも、白いのが!」
にゃん吉君が子供を見た。
「ワン」
子供は笑い、母親は困ったように会釈した。
ルナも会釈を返す。
それから、ギルドの扉を押した。
*
受付の女性は、ルナの話を途中で遮らなかった。
列車を降りたこと。二本になった道。左へ進み、白い森を抜けたこと。
「戻るときには、森がなくなっていたんです」
話し終えると、女性は棚から地図を出した。
ルナが知っている地図より、ずっと広い範囲が描かれている。
「アステリアはこの辺りだね。あなたの話した湖の町は、詳しい図がないと見つけられないけど」
女性の指が海を越え、大きく離れた陸地へ移った。
「今いるのが、ここ」
ルナはその間を見つめた。
こんな距離を歩いたはずがない。
「この大陸からは、船でも戻れますか?」
「戻れるよ。西の港から人間の大陸へ渡る航路がある。この町からは乗合の車を何度か乗り継ぐことになるけどね」
女性が指で道筋を辿った。
町から町へ。
西の港から、海の向こうへ。
白い森を通らなくても、二つの大陸を行き来する人がいる。
「途中にも、町があるんですね」
「あるよ。港へ荷を運ぶ道だからね」
ルナは地図へ少し身を寄せた。
知らない名前が、街道に沿って並んでいた。
「ただ、森を歩いて海を越えた話は、私には分からない。古い道を調べている人がいるから、明日紹介しようか」
「お願いします」
ルナは答え、隣のユニを見た。
「今日は、この町に泊まってもいい?」
「はい」
「明日、その人の話を聞いてみたい」
ユニが頷いた。
にゃん吉君は受付台の横から、開かれた地図を覗いていた。
ルナも、もう一度その地図を見た。
ラウネへ戻る前に、知りたいことができていた。




