第4章 第1話 二本目の道
アステリアを出た列車は、南へ向かって走っていた。
窓の外に並んでいた建物が、低い山と畑に変わっている。石垣のそばで働く人が顔を上げ、列車へ片手を振った。
ルナも小さく振り返した。相手に見えたかどうかは分からない。
「誰かいましたか?」
「畑の人。もう見えなくなっちゃった」
向かいのユニが窓へ目を向ける。その頭上には、にゃん吉君が浮いていた。
「ワン」
「にゃん吉君も見た?」
白い顔は通路の方を向いている。
「……そっちは車掌さんだよ」
ルナは笑って、膝の上の地図を畳んだ。
南の港を目指す。その先で海を渡れば、古い魔法の記録を残すエルフの街へ行ける。けれど、途中の町を全部通り過ぎるつもりはなかった。
気になった場所があれば降りる。
アステリアの駅で、自分でそう決めたばかりだ。
森が途切れたとき、窓いっぱいに湖が現れた。
水辺に赤茶色の屋根が集まり、小さな桟橋が何本も伸びている。沖を行く舟の後ろに、細い白い筋が残っていた。
「あの湖のそば、歩いてみたいな」
「次の駅から行けそうですね」
次の駅を知らせる声が流れた。
ラウネ。
地図にあった名前が、急に行きたい場所になった。
「降りよっか」
「はい」
ユニはもう席を立つ準備をしていた。
*
ラウネの駅員は、窓の向こうの湖を見て降りたと聞くと、少し笑った。
「なら、天気のいい日に来たな。北の岸まで行けば山もよく見える」
「次の列車は夕方ですよね?」
「そうだ。泊まるなら宿は広場の裏に二軒ある」
ルナは壁の案内図を見た。湖沿いの道と、北の森を抜ける道が、途中でつながっている。
「一周できますか?」
「湖は大きいぞ。半日では無理だ。北の散歩道なら行って帰ってこられる。ただ、夕方になる前に森を出なさい」
「暗くなるからですか?」
「道が増えることがある」
駅員の指が、森の中の一本線に止まった。
「二本に分かれたら右へ。左へは入らない。この町の決まりだ」
「……地図にない道が出るんですか?」
「そうだ。入った者が、湖の向こうや、遠い町から帰ってきたという話がある。どこへ出るか分からんから禁足地になってる」
ルナは地図へ顔を近づけた。
エルフの街には、古い魔法の記録があるという。その記録に残るような何かが、この森にもあるのだろうか。
「今も調べている人はいるんですか?」
「ときどき来るよ。だが、出ない日はただの道だ。あんたたちは観光だろう。知らずに入り込むなよ」
「はい。教えてくれてありがとうございます」
外へ出ると、湖から冷たい風が吹いた。
岸へ続く道の先に、北の森が見えている。
ルナは駅で見た案内図を思い出した。一本しか描かれていなかった道が、二本になる。
「気になりますか?」
ユニが尋ねた。
「うん。出ない日は普通の道だって、言ってたよね」
「今日は、まだ分かりませんね」
「入らずに見られるところまで、行ってみたい」
昼の湖畔を抜けると、遊歩道には木陰が増えてきた。ルナは水筒と携帯灯を確かめ、北へ向かった。
*
森の入口には、駅員が話したとおりの立札があった。
『道が二つに分かれた場合、左道へ入ることを禁ず』
道は明るく、少し先まで見通せた。ルナはときどき振り返り、町の屋根が見えることを確かめながら進んだ。
引き返そうと足を止めたとき、夕方を知らせる鐘が鳴った。
その音が途切れたとき、ルナは目を見開いた。
「……ユニちゃん」
「はい。二本あります」
右へ下る土の道。その隣に、白い幹の木々へ続く道がある。
ついさっきまで、そこには草が生えていた。
ルナは分かれ目の手前にしゃがんだ。土を踏み越えずに、左の道を見る。木の陰は明るく、道の奥だけが昼間のようだった。
風は吹いているのに、向こうから葉の擦れる音が届かない。
「魔法なのかな」
「ここから見ただけでは、分かりません」
ルナは収納バッグへ手を添えた。エリスから受け取った記録も、そこに入っている。
答えを知っている人に会えば、何か分かると思っていた。今は、まだ誰にも教わっていないものが目の前にある。
この道が自分の魔法と関係している証拠はない。それでも、世界には知らない仕組みがあると、初めて目の前で見せられた気がした。
「……見ただけで帰ったら、ずっと考えそう」
ユニは急かさずに待っていた。
「左へ行きたい。でも、この道を通って戻れるとは限らないんだよね」
「別の場所へ出た人がいると聞きました」
「うん。どこへ続いているのか、まだ分からないものね」
ルナは町の方を振り返った。駅へ戻り、夕方の列車に乗ることもできる。誰もこちらへ来いとは言っていない。
「ユニちゃんは、一緒に来てくれる?」
「はい。私も、向こうを見てみたいです」
その返事を聞いて、ルナは立ち上がった。
「じゃあ、離れずに行こう。にゃん吉君も」
「ワン」
左の土を踏んだ。
何歩か進んでから振り返ると、分かれ道はまだ見えた。だが、湖の鐘はもう聞こえなかった。
白い木々の間を、三人は進んだ。
足元の湿った落ち葉が減り、乾いた土に変わっていく。前方の光が広がるにつれ、ルナは歩く速度を落とした。
木々の最後の隙間から見えたのは、水面ではなかった。
草原が、どこまでも続いていた。
その向こうには、知らない黒い山が連なっていた。




