第3章 第30話 南へ
翌朝。
宿の部屋で、ルナは寝台の上に広げた荷物を見回した。
「これで全部?」
「はい」
ユニが答える。
腰の鞄には、すぐ使うもの。
大きな荷物には、それ以外。
携帯灯。水筒。雨具。着替え。それから、アステリアで増えた資料。
ルナは一つずつ確かめてから、大きな荷物を閉じた。
長杖を手に取る。
ユニは、いつものように手ぶらだった。
にゃん吉君は、その頭上で浮いている。
「ワン」
「にゃん吉君の荷物は?」
「ありません」
「やっぱり?」
「ワン」
「便利だね」
ルナは腰の鞄を確かめ、荷物を持ち上げた。
「行こっか」
「はい」
*
最初に向かったのは研究院だった。
エリスは朝から研究室にいた。
「今日ですか」
ルナが出発すると伝えると、眼鏡の奥の目が少しだけ細くなる。
「急でした?」
「いいえ。そろそろだとは思っていました」
「分かったんですか?」
「昨日の顔を見れば」
「そんなに出てました?」
「少し」
エリスは机の上から薄い束を取った。
「これを」
「何ですか?」
「今回の測定結果を、持ち出せる範囲でまとめたものです」
ルナが受け取る。
最初の検査から、昨日の比較まで。
日時と測定条件、それぞれの結果が簡単にまとめられていた。
「もらっていいんですか?」
「あなたの記録ですから」
「ありがとうございます」
「ただし――」
「これだけで結論にはならない、ですよね」
ルナが先に言った。
エリスが一瞬だけ黙る。
「……はい」
「もう覚えました」
「助かります」
ルナは笑って、資料を鞄へしまった。
「海の向こうの街、本当に古い記録があるんですよね?」
「あることは確認されています。ただ、あなたに関係するものがあるかは分かりません」
「はい」
「遠いですよ」
「それも聞きました」
「途中で気が変わっても構いません」
ルナはエリスを見る。
「気が変わっても?」
「旅でしょう?」
エリスは当然のように言った。
「途中で別のものが気になれば、そちらへ行ってもいい。あなたが調べたいと思ったときに調べればいいんです」
「そうですね」
ルナは笑った。
「じゃあ、寄り道するかもしれません」
「その方がルナらしいかもしれません」
「私、そんなに寄り道してます?」
エリスは答えなかった。
「してます?」
「出発前に聞くことですか?」
「それはそう」
ルナが笑う。
ユニは少し離れたところで静かに待っていた。
「答えは、まだ見つかりませんでしたね」
エリスが言った。
「はい」
魔法を使えるようになったわけではない。
原因も、まだ分からない。
それでも、検査では確かに短い表示が出た。
その意味を確かめるための記録が、鞄の中にある。
「エリスさん、ありがとうございました」
「何か分かったら、また教えてください」
「はい」
「こちらでも、記録は残しておきます」
「お願いします」
ルナが頭を下げる。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけて」
「ワン」
エリスがにゃん吉君を見る。
「あなたも」
「ワン」
*
研究院を出たあと、ルナたちは中央通りを駅へ向かった。
街はいつもと変わらない。
杖を抱えて歩く学生。
工房へ魔石を運ぶ荷車。
店先で魔道具の値段を交渉している人。
高いところでは、小さな光がいくつも浮かんでいる。
「ルナ」
「ん?」
「あそこにネイがいます」
「え?」
人混みの向こうで、ネイが制服姿の男と話していた。
ルナたちに気づくと、片手を上げる。
「やっぱり今日なんだ」
「知ってたの?」
「研究院で聞いた」
「早いなあ」
ネイがユニを見る。
それから、その頭上のにゃん吉君へ視線を移した。
「模擬戦に入ってこなくてよかった」
「ワン」
「本当にね」
ネイはもう一度ユニを見る。
「あの時、あれだけ見てるだけだったのに」
「はい」
「実際に戦ったら、余計分からなくなった」
「そうですか」
「そう」
ネイは自分の右手へ目を落とす。
「あの日のこと、まだ考えてる」
ルナは少しだけ首を傾げた。
「まだ?」
「うん」
ネイがユニを見る。
「次やったら、今度は止められるかも」
少し考えてから続ける。
「次は違うやり方にする」
「はい」
「……その返事、何か余裕あるね」
「そうですか?」
「ある」
ルナが笑った。
「身体はもう大丈夫?」
「平気。今日は仕事」
「ちゃんと休んだ?」
「休めって言われた」
「言われただけ?」
「休んだ」
「ならよかった」
ネイがルナの荷物を見る。
「で、行き先は決めた?」
「まだちゃんとは」
「そうなんだ」
「駅の路線図を見てから決めようかなって」
「それでいいんじゃない?」
ルナは少し笑った。
「みんな同じこと言うなあ」
「みんな?」
「エリスさん」
「ああ」
ネイも笑う。
少しだけ沈黙が落ちた。
「じゃあ、行くね」
「うん」
「仕事、頑張って」
「ルナも」
「私は旅だけど」
「じゃあ、旅を頑張って」
「それでいいのかな」
「知らない」
「また分からない」
「分からないね」
二人で少し笑った。
ネイはアステリアに残る。
ルナはここを出る。
「またね」
「うん。また」
*
駅には、大きな路線図があった。
アステリアから島の中央を抜け、南へ伸びていく線。
途中から東や西へ分かれる路線もある。
その先には、ルナがまだ知らない町の名前がいくつも並んでいた。
さらに先へ行けば、港へ向かう道もある。
「遠いね」
「はい」
ユニがルナを見る。
「ルナはどうしたいですか?」
ルナは路線図へ目を戻した。
海の向こうには、エルフが多く暮らす街がある。
古い魔法の記録も残っている。
見てみたい。
でも、そこまでの道を全部決めてしまう必要はない。
ルナは、南へ伸びる線を指でなぞった。
「まず、南の港を目指そう」
「はい」
「途中で気になるところがあったら、降りる」
「はい」
「海を渡るかどうかは、その時に決める」
「はい」
ルナはユニを見る。
「全部『はい』だね」
「ルナが決めることですので」
「そっか」
にゃん吉君が頭上で鳴いた。
「ワン」
ルナはもう一度、南へ伸びる線を見る。
最初から全部決まっていなくてもいい。
*
出発の時間が近づき、ルナたちはホームへ向かった。
外を見ると、アステリアの街が広がっている。
研究院の高い建物。
史料院のある通り。
遠くに見える工房の煙。
頭上を流れていく小さな魔法の光。
ここへ来た時と、街は何も変わっていない。
ルナも、まだ魔法は使えない。
「ルナ」
ユニが呼ぶ。
「列車が来ます」
「あ、うん」
ホームへ列車が入ってくる。
扉が開いた。
ルナは一度だけ、アステリアの街を振り返る。
「行こう、ユニちゃん」
「はい」
「にゃん吉君も」
「ワン」
ルナたちは列車へ乗った。
扉が閉まる。
やがて、窓の外の景色がゆっくりと動き始めた。
アステリアが遠ざかっていく。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
列車は南へ向かって走り出した。




