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願いを魔法に  作者: 由吉
三章

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第3章 第27話 一歩のあと

 一歩。


 ただ、それだけだった。


 ユニの黒いブーツが、静かに前へ出る。


 誰も声を出さなかった。


 領域の中では、風も、空中の砂も、消えかけていた光も動かない。


 ネイが作った《零刻領域》は残っている。


 その中で、ユニだけが一歩進んでいた。


「……」


 ネイの目が大きく開く。


 視線がユニの足元へ落ち、それから周囲へ移った。


「……まだ、残ってる」


 ネイは苦しそうに息を吸った。それでも領域を解かず、指先を震わせながらユニを見る。


「……なんで」


 声が漏れる。


「何で動けるの?」


 ユニは少しだけ首を傾けた。


「歩きました」


「それは見た」


 返事が早かった。


 ルナは思わず口元を押さえる。


「そうじゃなくて。この中で、どうやって歩いたの?」


 ユニは少し考えたように見えた。


「特別なことはしていません」


「……それが一番困るんだけど」


「そうですか?」


「そう」


 ネイは長く息を吐いた。


「もういい」


 右手を下ろす。


 瞬間。


 世界が動き出した。


 止まっていた砂が一斉に落ち、小さな石が地面を叩く。消えかけていた光がほどけ、戻った風がユニの髪を揺らした。


 音まで一度に戻ってきたようだった。


 けれど、ネイだけはすぐには動かなかった。


 自分の右手を見たまま、ゆっくり指を開き、閉じる。もう一度。


「……そっか。ちゃんと使えたんだ」


 誰かに聞かせるための声ではなかった。


 膝が少し沈む。


「ネイ!」


 治療班が動いた。


「大丈夫。魔力を使いすぎただけ」


 立会人も訓練場へ入ってくる。


「だから言っただろ。一度使ったら終わりだって」


「分かってる」


「分かってるやつは、そんな顔しない」


「どんな顔?」


「鏡見ろ」


「今ない」


「そういう話じゃない」


 ネイはゆっくり立ち上がり、汗を袖で拭った。呼吸はまだ深い。


 それでも、視線はユニへ戻る。


「終わりでいい」


「はい」


「……もっと何かないの?」


「何がですか?」


「私、結構頑張ったんだけど」


「はい。とても強かったです」


 ネイが止まる。


「……本当に?」


「はい」


「今それ言われると、複雑」


「なぜですか?」


「最後に普通に歩かれたから」


 ルナは笑ってしまった。


「ルナも笑う?」


「ごめん」


「絶対思ってない」


 そこまで言って、ネイも笑った。


 疲れきった顔だったが、昨日より少しだけすっきりして見えた。


 立会人が二人の間へ立つ。


「これで終了だ」



     *



 訓練場の外から、ようやく音が戻った。


 最初に聞こえたのは、いくつもの息を吐く音だった。


 それから記者たちが一斉に動き始める。止まっていたペンが紙の上を走り、端末へ何かを打ち込む者もいる。


「最後、見たか?」


「見た」


「領域は?」


「残っていたように見えた」


「ように、で書け。断定するな」


 治療班の一人がネイの腕を取った。


「座って」


「はい」


 ネイが素直に座る。


 ルナは、隣にいた老人を見る。


「今の、何だったんですか?」


「さてな」


「《零刻領域》のことなら知ってるんですよね?」


「お前さんが聞きたいのは、そちらではなかろう」


 老人の視線がユニへ向く。


「……はい」


「なら、わしにも分からん」


 それ以上、老人は言わなかった。


「……変なの」


「誰がですか?」


 いつの間にか、ユニが隣にいた。


「ユニちゃん」


「そうですか?」


「そうだよ」


「ワン」


 にゃん吉君が戻り、ユニの頭上へ浮かんだ。


 ネイは治療班に手首を取られたまま、二人を見ている。



     *



 治療が終わるのを待っていた記者たちが、ネイへ集まった。


「最後の《零刻領域》ですが、ユニさんが動いた時点でも維持されていた、という認識で間違いありませんか?」


 ネイは少し考える。


「私の感覚では、維持してた」


「感覚では?」


「絶対って書かないで。私は中にいたから」


「分かりました」


「ただ、少なくとも私が解除したのは、あの子が歩いたあと」


 記者たちのペンが動く。


「では、何が?」


「それを聞きたいのは私。だから戦ったんだけど」


 記者たちが一瞬黙る。


 一人の記者がユニへ向いた。


「では、ネイさんの実力については?」


 ユニはネイを見る。


「とても強いです」


 ネイが顔をしかめる。


「またそれ」


「本当です」


「でも最後」


「最後と、それまでの強さは別です」


 ネイが黙る。


「ネイは、たくさん考えていました」


「……戦いながら?」


「はい」


「分かるの?」


「見ていましたので」


 ネイはしばらくユニを見ていた。


「そっか」


 少しだけ嬉しそうに笑った。



     *



 質問が一段落した頃には、もう昼が近かった。


 補助員たちが訓練場へ入り、石柱の跡や凍った地面、削れた砂を確認している。


 ネイはそれを一度見てから、ルナを呼び止めた。


「昨日の話」


「自分で確かめたいって言ったやつ?」


「うん」


 少し先では、にゃん吉君がユニの頭上で浮いたまま、二人を待っている。


「確かめたら、分かると思ってた」


「うん」


「全然分からなかった」


 ルナは少し笑う。


「そっか」


「笑うところ?」


「ちょっとだけ」


 ネイも小さく笑った。


 少し黙ってから、訓練場を見る。


「でも、自分で見てよかった」


 その言葉だけは、まっすぐだった。


「新聞を何枚読んでも、今日見たことにはならなかったから」


 ルナは頷く。


「私もそう思う」


「ルナも?」


「うん」


「分からなくても、見た方がいいことってあるよね」


 ネイは少しだけ考えた。


「あるね」


 頷いた。


 その向こうから、ユニが呼ぶ。


「ルナ。行きますか?」


「うん。今行く」


 ルナが歩き出す。


 背後では、まだ記者たちが話していた。


 紙をめくる音。


 誰かが記事の見出しについて相談する声。


 その中で、一人の記者が別の記者へ尋ねた。


「最後の一歩、どう書く?」


 少し間があった。


「見たままでいいだろ」


 返事が聞こえた。


 ルナは振り返らなかった。

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