第3章 第26話 止まった世界で
翌朝。
防衛局の訓練場へ着いたルナは、入口の前で足を止めた。
「……人、多くない?」
昨日、ネイから聞いていたのは、ここでユニと手合わせをするということだけだった。
けれど、低い石壁の向こうには、すでに十人を超える人が集まっている。防衛局の制服を着た者。白い上着を着て鞄や杖を確認している者。紙束や記録端末を手にした人たちまでいた。
「昨日、こんな話してたっけ?」
「してない」
先に来ていたネイが答えた。灰色の外套はもう脱ぎ、淡い金色の髪を後ろで束ねている。
「私も朝来て知った」
「ネイも?」
「訓練場を使いたいって申請しただけなんだけどね」
「少し話が大きくなっただけじゃよ」
横から、知らない声がした。
振り向くと、白い髪を短く整えた老人が立っていた。かなり年上に見えるが、背筋は真っすぐだった。
「今日の立会いで、都市側の代表を務める者の一人じゃ」
「代表……?」
「何人か来ておる。防衛局、研究関係、それから訓練場の安全を預かる者たちじゃな」
ネイが少し離れたところから言った。
「私は呼んでないからね」
「分かっておる」
老人は苦笑し、訓練場へ視線を向けた。
「防衛局の若手の中でも抜けておるネイ・オルディスと、十三人目のSランク、ユニ・N・スターチスが手合わせをする。見届けたい者が出るのも不思議ではなかろう」
ルナは、紙や記録端末を持っている人たちを見る。
「じゃあ、あの人たちは?」
「記者じゃよ」
「新聞の?」
「そうじゃ」
ネイが少し嫌そうな顔をした。
「それも朝知った」
ほかにも治療班や、防護設備を確認する者たちがいる。
白い上着の者たちは鞄の中を確かめ、訓練場の周囲では細長い柱を一つずつ見て回る者がいる。手合わせというより、何か大きな試験でも始まるような準備だった。
「……思ったより大ごとになってない?」
「なってる」
ネイは即答した。
「帰る?」
「帰らない」
「ですよね」
「私が言ったんだから」
そう答えてから、ネイはルナの横に浮かぶにゃん吉君を見る。
「本当に入ってこないよね?」
「ワン」
ネイは少しだけ眉を寄せた。
*
開始が近づくと、訓練場の周囲も静かになった。
都市側の代表たちは石壁の外へ下がり、記者たちは少し離れた場所で紙や端末を構えた。治療班はすぐに動ける位置へ残り、老人はルナの近くに立っている。
中央にはネイとユニ。
ルナがネイの手元を見て尋ねた。
「やっぱり杖、使わないんだ」
「持ってないから」
「なくても大丈夫なの?」
「今のところは」
二人の間に、防衛局の立会人が入った。制服の袖を肘までまくった男性だった。
にゃん吉君はルナの反対側でふわふわと浮き、訓練場へ入る様子はない。
「確認するぞ。訓練だ。相手を殺すような攻撃は禁止。本人が続行不能と判断した場合、もしくは俺が危険だと判断した場合は終了。外へ出ても終わりだ」
「分かった」
「はい」
「あと、設備を壊すなよ」
男性の視線がネイへ向く。
「何で私だけ見るの?」
「心当たりがあるだろ」
「直した」
「整備班がな」
ルナが吹き出した。
けれど、ネイが中央へ戻った瞬間、空気が変わった。
結んだ金色の髪が風に揺れる。
ネイの顔から、さっきまでの余計なものが消えていた。笑っても、怒ってもいない。ただユニだけを見ている。
「準備は?」
「できています」
立会人が片手を上げる。
「始め!」
その声とほとんど同時に、ネイが地面を離れた。
一直線に上がり、ユニの斜め上へ回り込む。片手を振ると、三つの光が別々の角度から落ちてきた。
ユニが右へ一歩。身体を傾け、最後の一本には半歩だけ下がって避ける。
だが、三本の光は地面へ届く前に、空中で止まった。
「……?」
光は消えていない。
その間にも、ネイは急降下していた。地面すれすれを横へ走り、ユニの進む先へ石柱を次々と生み出す。
一本目。
二本目。
さらに三本目。
ユニが四本目を避けた瞬間、さっき止めていた光の一つが背後から動いた。
ユニが振り返らないまま身体をずらす。
前から石柱。右から光。左にはネイ。
ユニが後ろへ下がる。
けれど、そこにも止めていた光が一本残っていた。
「……いつ置いたの?」
ルナにはもう分からなかった。ユニを追っていると、どの魔法がいつ止まったのかまで見失う。
ルナは視線をネイへ移した。
ユニが身体を沈める。頭上を光が抜け、その向こうから火が来た。
ユニは地面を蹴り、その間を前へ抜ける。
ネイは真上へ跳ねるように上昇し、空中で身体を反転させながら三本の氷を落とした。
ユニが一歩、もう一歩と位置を変える。
三本目の氷だけが、地面へ届く直前で止まった。
ネイがそれを蹴る。
「え?」
空中に固定された氷を足場にして身体の向きを変え、そのままユニの死角へ入った。
空中に残った氷は、消えていなかった。放たれて、止まって、それでもまだそこにある。
風が鳴る。
ユニが頭を下げた時には、ネイはもう別の位置にいる。
魔法が飛んでくる場所と、ネイ本人のいる場所が一致しない。避けたはずのものが空中に残り、忘れた頃にまた動く。
それでもユニは大きく跳ばない。必要な分だけ身体をずらし、ネイの作った隙間を抜けていく。
記者たちの筆の音が、少しずつ途切れていった。
*
薄い水が地面を走り、ユニの足元を横切った先で白く凍った。
ユニが進路を変える。
そこへ風が走り、砂が舞った。
一瞬だけ姿が隠れる。
砂煙から青いコートが出たと同時に、横から石の壁。正面から光。上から氷。
ユニは石壁へ片手をつき、身体を浮かせて横を抜ける。
その瞬間。
コートの裾だけが、不自然に後ろへ引かれた。
「え?」
青いコートの端が、空中の一点へ縫い付けられたように動いていない。
ネイが止めた。
その間にも、ネイはもう次の魔法を作っている。
すぐ横から光が迫る。
ユニは無理に引っ張らなかった。固定された裾を中心に身体を回し、半歩だけ位置を変える。
光が目の前を通過した。
次の瞬間、コートが再び風に揺れる。
ネイの眉がわずかに動いた。
それでも止まらない。
今度は、ユニが踏み込んだ場所の砂だけを固定した。
靴の周囲で、蹴り上げられるはずだった砂粒が浮いたまま止まる。
ユニの足が一瞬遅れた。
そこへネイ自身が降りてくる。
今までで一番近い。
空中から片手を伸ばす。
ユニが上体を反らす。
ネイの手は胸元の少し前を通り過ぎた。
届かない。
着地するより早く、ネイは反対方向へ飛ぶ。
そのまま右手を返し、すぐ次の風を放った。
風はユニへ真っすぐ向かわない。手前の砂を巻き上げ、視界を削るためだけに使われた。
その向こうで、ネイがまた高さを変える。
高く上がったと思えば、一気に地面近くまで落ちる。途中で方向を変え、止めた光と自分の位置を入れ替えるように攻め続ける。
ユニが何かを避けるたび、そこには次の選択が用意されていた。
*
そこからネイの戦い方が変わった。
今まで以上に速くなったわけでも、魔法が大きくなったわけでもない。
それでも、一度放った魔法を残しながら、ユニが立てる場所を少しずつ削っていく。
「……逃げるところがなくなってく」
ユニの左に石壁。右に止まった氷。後ろには火。上にはネイ。
正面だけが空いている。
ユニがそこへ出た瞬間、ネイもほとんど同時に動いた。
今までのように、ユニが動いたあとを追ったのではない。
出る場所を読んで、先にそこへ重ねた。
ユニの手が伸びる。
ネイが薄い光の壁を挟む。
触れた瞬間、壁が砕けた。
けれど、その一瞬で十分だった。
ネイは横へ抜け、ユニの背後から右手を伸ばす。
空気が揺れた。
ユニの片足が止まった。
今までとは違う。
服でも、砂でもない。踏み出そうとしていた足の周囲だけが、途中の状態で固定されている。
ネイの顔が変わった。
止めていた二つの光が左右から動き、正面から風が迫る。
ユニは固定された足を軸にして、上半身を低く落とした。もう片方の足で地面を蹴り、身体を円を描くように回して固定の外へ重心を逃がす。
光が頭上で交差する。
次の瞬間、固定が解けた。
ネイが着地する。
「……っ、は……」
肩が一度、大きく上下した。額から落ちた汗が頬を伝う。
それでも視線はユニから外さず、次の魔法を作る。
火。
風。
石。
三つが同時に浮かんだ。
火は正面。風は少し遅れて横から。石は地面すれすれを走る。
ユニが火を避ければ風が進路を変え、石がその足元を狙う。
ネイは一つの魔法で決めようとはしていない。
次の動きを作るために、一つずつ置いている。
それからも攻防は続いた。
ネイは固定したものを解除し、別のものを止めながら攻め続ける。
ルナには、もう一つずつ追うことはできなかった。
ただ、最初よりユニの立てる場所が狭くなっていることだけは分かる。
それでも、届かない。
やがてネイは地面へ降りた。
「……は……」
膝には手をつかない。背筋も伸びたまま。ただ、胸が少し速く上下している。
ユニは数歩離れた場所に立っていた。
「一つ聞いていい?」
「はい」
「まだ、本気じゃない?」
ルナは息を止めた。
ユニは少し考えた。
「本気、というのがよく分かりません」
「……そう来ると思った」
「そうですか?」
「うん」
ネイが笑う。
「じゃあ、聞き方を変える。私に勝つために、まだ何もしてないよね」
「勝つ必要がありますか?」
「……ないの?」
「ネイは確かめたいと言いました」
「言った」
「ですから、確かめています」
ネイが一度、目を閉じた。
短く息を吐く。
「そっか」
目を開ける。
「じゃあ、もう一つだけ確かめる」
その声を聞いた瞬間、立会人が一歩前へ出た。
「ネイ。そこまででいいだろ」
ネイはユニを見たまま答える。
「範囲は絞る」
老人が、初めて僅かに眉を寄せた。
「……あれまで使うか」
「何ですか?」
ルナが老人を見る。
けれど、老人は答えない。視線は訓練場へ向いたままだった。
防護設備の担当者と治療班が動く。柱の数値を見直す者、鞄を開く者。都市側の代表たちも話をやめた。
記者たちまで、誰も声を出さない。
「訓練で使うものじゃない」
「知ってる」
「一度使ったら、今日はもう終わりだぞ」
「それも知ってる」
ネイは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。肩から余計な力が抜ける。
「ここまでやって、まだ一度も届いてない」
それからユニを見る。
「使っていい?」
「私に聞いていますか?」
「あなた以外に誰がいるの」
「構いません」
「怖くない?」
「何がですか?」
ネイが一瞬だけ黙る。
それから、ほんの少し笑った。
「……もういい」
立会人を見る。
「一回だけ」
男は訓練場と周囲の設備を確認した。
「……一度だけだ。範囲を越えるな。解除の指示には従え」
「分かってる」
ネイが中央へ戻った。
ルナの横で、にゃん吉君がふわりと位置を変える。
「ワン」
参加する気はないらしい。けれど、さっきまでより少しだけ訓練場の中央を見ているように見えた。
*
ネイが両手を下ろした。
何も構えない。
詠唱もしない。
しばらく、本当に何も起こらなかった。
風が吹く。
砂が地面を転がる。
ユニの髪が揺れる。
ネイが息を吸う。
一度。
止める。
「《零刻領域》」
光が走った。
大きくない。
ネイの足元から淡い線が円を描くように広がり、ユニのところまで届く。さらに少し向こうへ進んだところで止まった。
「……?」
ルナは最初、何が起きたのか分からなかった。
音はある。
ルナも動ける。立会人も動いている。にゃん吉君も、いつも通り浮いている。
円の外は何も変わっていない。
なのに。
内側だけが違う。
風に揺れていたユニの髪が、毛先を曲げた形のまま止まっていた。
地面から舞い上がった砂も、一粒ずつ空中に浮かんでいる。さっきの戦いで欠けた小さな石も、消えかけていた光の粒も、その場所から動かない。
「……え」
一昨日、三番の胸で見たもの。
あれよりずっと広い。
でも、同じだ。
時間が止まったように見える。
外では風が吹いている。ルナの髪も揺れている。
その円の境目だけを挟んで、世界が二つに分かれたようだった。
けれど。
ネイは動いた。
一歩。
止まった砂の横を通る。
二歩。
ユニへ近づく。
「……は……」
呼吸は、さっきまでより明らかに重い。
それでも領域は崩れない。
ネイが歩いている間も、息をしている間も、円の内側は止まったままだった。
砂も。
風も。
光も。
ユニも。
何一つ動かない。
ルナは横を見ることができなかった。
老人も。代表たちも。記者も。治療班も。
誰も声を出さなかった。
訓練場にいる全員が、円の中だけを見ている。
ネイが数歩手前で止まる。
ユニを見る。
待つ。
一秒。
もう一秒。
白銀の髪は動かない。
青いコートも揺れない。
瞬きすら、ルナには見えなかった。
ネイの口元が、わずかに動く。
「……入った」
その声には、初めて安堵に近いものが混じっていた。
捕まえた。
ルナにも、そう思えた。
今度こそ。
これは避けられない。
速いとか。
見えているとか。
そういう話ではない。
だって。
そこではもう、何も動いていない。
そのはずだった。
風も。
砂も。
光も。
落ちかけた石さえ止まっている世界で。
ユニが。
何でもないように。
一歩だけ、前へ歩いた。




