第3章 第25話 古い測定器
翌日の昼前。
ルナたちは、再びアステリア中央研究院を訪れていた。
研究室へ入ると、エリスは机の上に何枚もの書類を広げていた。
「許可、出ました」
「本当ですか?」
「思ったより早かったですね。旧研究区そのものは封鎖されているわけではありませんから」
エリスは一枚の紙を持ち上げる。
「ただ、現在使っていない設備が多いので、研究院だけでは入れません。安全確認のために、防衛局から一人同行します」
「昨日言ってた人ですね」
「ええ。もう来るはずです」
その直後、研究室の扉が二度叩かれた。
「来たよ」
聞き覚えのある声だった。
扉が開き、ネイが顔を覗かせた。
「あ」
「また会ったね」
「ネイだったんだ」
「私も名前を見て少し驚いた」
ネイがルナの隣へ視線を移す。
ユニの頭上には、にゃん吉君が浮いていた。
「ワン」
「あなたも来るんだ」
「ワン」
「……まあ、来るよね」
ルナが笑うと、エリスが書類をまとめた。
「では行きましょう。歩いて十分ほどです」
「研究院の中じゃないんですか?」
「敷地の端です。今の研究棟が建つ前に使われていた建物が、いくつか残っています」
旧研究区。
名前だけ聞くと、何か特別な研究をしていた場所のようにも思える。
けれど、歩き始めたエリスはあっさり言った。
「普通の古い研究棟ですよ」
「……そうなんですか?」
「何を想像しました?」
「ちょっとだけ、すごい場所なのかなって」
「昔はすごい場所だったと思います。今は、古い測定器と使わなくなった机が多いですが」
「机も残ってるんだ」
「重いので」
理由はずいぶん現実的だった。
ネイが小さく笑う。
「私も最初に呼ばれた時は、何か危険な物でもあるのかと思った」
「違ったの?」
「古い設備に、まだ魔力が残ってないか確認する仕事だった」
「それはそれで大事だね」
「大事だけど、魔獣と戦う方が分かりやすい」
防衛局の仕事にも、いろいろあるらしい。
やがて一行は、その一棟の前に着いた。
*
旧研究区の建物は、新しい研究棟よりずっと低かった。
大きな窓も、空中に浮かぶ案内表示もない。
灰色の壁にはところどころ補修の跡があり、入口の横には小さな金属板が残っている。
『第三測定研究棟』
「ここです」
エリスが足を止めた。
ネイが先に中を覗く。
「奥の二部屋だけ入らないで。天井の一部が弱くなってるから」
「分かりました」
「にゃん吉君も」
「ワン」
「……分かってる?」
「たぶん」
ルナが答えると、ネイは少し考えた。
「一番信用できない返事かも」
建物の中は、思っていたより明るかった。
細長い窓から昼の光が入り、埃の積もった机や棚を照らしている。
今の研究院とは、置かれている物もずいぶん違う。
大きな機械。
太い線で繋がれた測定盤。
壁一面に並ぶ小さな目盛り。
「昔は、こんなのを使ってたんですね」
「ええ」
エリスが一台の装置へ近づいた。
人が一人入れそうな円形の台を、半円状の金属枠が囲んでいる。
「これが目的の測定器です」
「動くんですか?」
「動かしません」
「即答ですね」
「今これを動かす研究許可は取っていませんから」
エリスは装置の横にある棚を開けた。
「欲しいのは機械そのものではなく、この装置が身体のどこを、どう区切って記録していたのかが分かる資料です」
中には、薄い冊子や束ねられた紙が詰まっていた。
「……全部見るんですか?」
「全部は見ません」
「よかった」
「必要なところだけ探します」
「分かるんですか?」
「たぶん」
今度はエリスが言った。
ネイがルナを見る。
「一番信用できない返事だったね」
「言いましたね?」
「言った」
ルナも棚の前へ座った。
*
探していたのは、古い測定方式の記号表だった。
今の測定器では、身体の位置や反応が図として表示される。
けれど、昔の装置は違った。
身体をいくつもの区画に分け、それぞれを数字と記号で記録していたらしい。
『C-4』
『D-2』
『E-1』
「これだけ見ても、全然分からないですね」
「当時の研究者には分かったんでしょう」
「エリスさんは?」
「今から分かるようになります」
「強い」
エリスが別の冊子を引き抜く。
しばらくページをめくっていた手が止まった。
「ありました」
「何ですか?」
「対応表です」
古びた紙には、人の身体を前と横から見た簡単な図が描かれていた。
その周囲に、先ほどの記号が書き込まれている。
「頭部。胸部。腹部……測定位置をこう分けていたんですね」
「これが分かると、何か変わるんですか?」
「史料院で見た記録を覚えていますか?」
「覚えてます」
「昨日、史料院に確認して、該当箇所の写しを借りました」
エリスが鞄から一枚の紙を取り出した。
古い記録を転写したものだった。
専門的な数字の横に、測定位置の欄があった。
そこに、『D-3』と記されている。
「これ」
「はい」
エリスは対応表を見る。
それから、現在の測定方式で描かれた人体図を端末へ表示した。
「位置をそのまま合わせることはできません。測定方式が違いますから」
「はい」
「でも、おおよその範囲なら分かります」
指が止まる。
身体の内側に対応する範囲の、ごく一部。
ルナは画面を見る。
自分の測定で、短い表示が出た場所。
「……近い?」
「近く見えます」
「同じじゃなくて?」
「同じとは言えません」
エリスは対応表へ目を戻した。
「昔の測定器は今より範囲が粗いです。この一つの記号だけで、現在のどこに対応するかを正確には決められません」
「そっか」
ルナは古い記号と、自分の記録を見比べる。
「じゃあ、意味ないですか?」
「いいえ」
エリスは首を振った。
「昨日までは、古い記録とあなたを位置で比べる方法がありませんでした」
対応表を軽く持ち上げる。
「今日は、その材料が見つかりました」
「……一個進んだ?」
「半歩くらいでしょうか」
「半歩なんだ」
ルナは笑った。
「この人、そのあとも調べたのかな」
エリスがページをめくる。
「それを探してみましょう」
それからしばらく、二人で棚を調べた。
同じ研究者の名前。
同じ測定器。
同じ時期。
いくつかの記録が見つかった。
けれど、原因が分かったという記述はなかった。
最後まで、
『取り込みの段階に差異がある可能性』
『保持過程に問題がある可能性』
その二つが並んでいる。
「やっぱり分からなかったんですね」
「そうみたいですね」
「でも、調べ続けてたんだ」
ルナは古い文字を見つめた。
名前も顔も知らない。
自分と同じだったかどうかも分からない。
それでも、少しだけ近く感じた。
*
旧研究区を出ると、外の光がまぶしかった。
建物の中に長くいたせいか、もう午後になっている。
「ありがとうございました」
ルナがネイへ頭を下げる。
「私は付いてきただけだよ」
「でも、入るのに必要だったんでしょう?」
「仕事だから」
「それでも」
ネイは少し困ったような顔をした。
「じゃあ、どういたしまして」
「うん」
エリスは持ち帰る資料の確認があるらしく、そのまま研究棟へ戻っていった。
ルナたちは、旧研究区から続く道を歩く。
少しして、ネイが呼んだ。
「ルナ」
「ん?」
「調べたいことは見つかった?」
ルナは少し考えた。
「D-3が、今の測定だとどの辺りになるのかは分かった」
「そっか」
「まだ粗いみたいだけどね」
ネイはそれ以上聞かなかった。
代わりに、隣を歩くユニへ目を向ける。
「じゃあ、一つ頼んでもいい?」
「何ですか?」
「昨日から考えてた。あなたのこと」
ネイは歩きながら言った。
「新聞にはいろいろ書いてあった。黒龍のことも、Sランク特別認定試験も、アメリアのことも」
「蒸し風呂もです」
「それは今はいい」
「そうですか」
「うん。今はいい」
ネイは一度息を吐き、ユニを見る。
「でも、実際に会ったら、余計に分からなくなった。三番の時、あなたはほとんど動かなかった」
「はい」
「にゃん吉君がいたから動かなかったのか。それとも、あなた自身が、動く必要がないくらいだったのか」
ユニは何も言わない。
「新聞じゃ分からない。だから、自分で確かめたい」
ネイが足を止めた。
「明日の朝、私と戦ってほしい」
ユニはネイを見た。
それから、ルナへ視線を向ける。
「ルナ」
「私?」
「明日の朝は、何か予定がありますか?」
「ううん。調べたいものも、見られたし」
「そうですか」
ユニはネイへ向き直った。
「ネイが確かめたいのでしたら、構いません」
ネイの目が少しだけ開く。
「いいの?」
「はい」
「もっと断られると思ってた」
「ルナの予定が空いていますので」
「やっぱりそこは確認するんだ」
「はい」
ネイは少し黙ったあと、口元を上げた。
「じゃあ、場所を取る」
「どこで?」
「防衛局の訓練場。市街地でやったら怒られるから」
「それはそうだね」
「……緊張とかしないの?」
「しません」
「そう。なら、私だけしておく」
「そうしてください」
ルナは、ネイとユニを交互に見る。
昨日、三番の変化を三十秒だけ止めてみせたネイ。
そのネイが、明日の朝、ユニと戦う。
どんな勝負になるのか、ルナにはまるで想像できなかった。




