第3章 第18話 残された記録
中央史料院の大きな扉が背後で閉じると、アステリアの街の音が急に遠くなった。
ついさっきまで聞こえていた人々の声も、通りを動く魔道具の音も、分厚い石壁の向こうへ押しやられたように小さくなる。
代わりに聞こえるのは、紙をめくる音や、床を歩く控えめな足音だった。
ルナは入口で立ち止まり、中を見渡した。
「……広い」
高い天井まで伸びた書棚が、建物の奥へ何列も続いている。
棚に収められているのは、本だけではなかった。
古びた木箱。
紐で束ねられた紙の束。
筒状の容器に収められた地図らしいもの。
棚には、年代や地域、分類名を書いた小さな札が並んでいる。
札の一枚に、『五界域』とあった。
中央には長い閲覧机が並び、学生らしい若者から年老いた研究者まで、それぞれが資料へ目を落としていた。
「全部見るのは無理そうだね」
「全部見るつもりだったんですか?」
「ちょっとだけ思った」
「かなり時間がかかりますよ」
「だよね」
ユニの頭上では、にゃん吉君も書棚を見回すように身体の向きを変えている。
「ワン」
「にゃん吉君も探してくれる?」
「ワン」
「本は食べないでね」
にゃん吉君がルナを見た。
少しだけ間がある。
「ワン」
「なんで今考えたの?」
声を抑えて笑いながら、ルナたちは受付へ向かった。
大きな机の向こうには、眼鏡をかけた女性が座っていた。
「初めてのご利用ですか?」
「はい」
「一般の閲覧資料でしたら自由にご覧いただけます。古い原本や保管庫の資料については、職員がお出しします。何かお探しでしょうか」
ルナは少し考えた。
「人の魔力について調べたいんです」
「魔力ですか?」
「はい。魔力を測る水晶に、何も反応しないような例が、昔になかったかなって」
女性の表情がわずかに変わる。
「反応が弱い、ではなく?」
「何も出ませんでした。何度やっても同じでした」
「なるほど……」
女性は机の下から厚い目録を取り出し、ページをめくった。
「現在の魔力研究でしたら、中央研究院の方が詳しいでしょう。ただ、こちらには昔の測定記録や研究報告も保管されています」
「見られますか?」
「該当するものがあれば。ただし、古い時代は測定方法も精度も現在とは違います。似た結果が残っていたとしても、今の基準で同じ状態だったとは限りません」
「分かりました。それでも見てみたいです」
女性は頷いた。
「少しお待ちください」
目録を持ち、奥の書棚へ向かっていった。
ルナたちは近くの閲覧机へ移動した。
窓から差し込む午後の光が、机の上へ細長く伸びている。
今朝、海の上で初めて名前を聞いた場所。
その中で、これから自分についての記録を探す。
しばらくすると、先ほどの女性が戻ってきた。
腕には数冊の冊子と、一つの古い記録箱を抱えている。
「お待たせしました。魔力測定の異常例や、古い測定法についてまとめられた資料です」
机の上へ、一冊ずつ置かれていく。
「先ほどもお伝えしましたが、年代によって測り方がかなり違います。結果だけを見て、現在の事例と同じだとは判断しないようにしてください」
ルナは一冊目を開いた。
*
昔使われていた魔力測定器についての記録だった。
今の水晶とは違い、器具そのものが大きく、測定にも時間がかかっていたらしい。
読み進める。
魔力量が極端に少なかった人。
病気の間だけ反応が弱くなった人。
測定器そのものが故障していた例。
一つずつ目を通すが、自分の知りたいものとは違った。
二冊目にも、それらしいものはない。
三冊目にもなかった。
机の上の影が、少しずつ長くなっていく。
「……ないね」
思わず声が漏れた。
それでも、最後に残っていた古い記録箱へ手を伸ばす。
蓋を開けると、一枚ずつ綴じられた紙が何十枚も収められていた。
紙は黄ばみ、端もところどころ傷んでいる。
地域。
年齢。
測定に使われた器具。
測定値。
同じ形式で書かれた記録が続いていた。
ルナは一枚ずつ慎重にめくる。
その途中で、指が止まった。
『魔力反応、確認できず』
「……え?」
もう一度読む。
見間違いではなかった。
「ユニちゃん」
ユニが隣へ移動し、記録へ目を落とした。
「これ……」
最初の測定では、反応が確認されなかった。
測定器具を変更し、別の日に再検査。
結果は変わらない。
さらに測定場所を変え、周囲の魔力濃度が異なる環境でも調査されている。
それでも、明確な数値は得られなかった。
魔石を近くに置いても、測定値に変化はない。
一方で、周囲で使用された魔法や魔道具には、特別な異常は確認されていなかった。
「これ……私と似てるのかな」
「分かりません」
ユニはそれ以上言わなかった。
その人物が魔法を使えなかったとは、どこにも書かれていない。
魔力の測定で、説明のつかない結果が残った。
ルナは先を読んだ。
記録を書いた研究者は、結果について二つの可能性を残していた。
外から魔力を取り込む過程に、何らかの問題があった可能性。
あるいは、取り込んだ魔力を体内へ留めておけなかった可能性。
その下には、短い説明が続いていた。
当時の測定方法では、体内へ入る前の魔力と、取り込まれた後に保持される魔力を分けて測ることができない。
そのため、どちらの段階で数値が失われているのかを特定できなかった。
最後には、こう記されている。
『現行の測定法では判別できず』
ルナは、その一文をしばらく見つめた。
原因不明。
ただ、調べた。
条件を変え、器具も変えた。
「取り込めない……」
ルナは、記録に書かれた言葉を小さく読んだ。
そのすぐ下にある、もう一つの可能性へ視線を移す。
「それとも、持っていられない……」
今まで考えたことのない分け方だった。
魔力がない。
自分については、ずっとそういう言葉でしか考えてこなかった。
けれど、もし本当に何もないのではなく、どこかの段階で魔力を自分の中に残せていないのだとしたら。
ルナはもう一度、最初から記録を読み返した。
答えではない。
この人物が自分と同じだった証拠すらない。
それでも、自分を調べるための言葉が初めて見つかった。
取り込む。
保持する。
その二つを、ルナはもう一度目で追った。
「他に似たものがないか、見てもいい?」
「はい」
*
ルナは残っている記録を調べた。
似ているように見えるものはいくつかあった。
けれど、読み進めれば測定器の故障だったり、一時的な病気だったりと理由が記されている。
箱の最後まで目を通したが、最初に見つけた一件のように、理由が特定されないまま残っている記録は見つからなかった。
窓の外では、午後の光が橙色へ変わり始めていた。
「これだけか……」
ルナは記録を閉じる。
最初に見つけた一枚を持ち、受付へ戻った。
「あの、この記録について聞いてもいいですか?」
女性は紙を受け取り、整理番号と年代を確認した。
「かなり古い記録ですね」
「この調査って、その後も続いていないんですか?」
女性は目録を開き、番号を追っていく。
しばらく調べたあと、首を横へ振った。
「少なくとも、史料院に続きの記録は残っていないようです」
「そうですか……」
「ただ」
女性は、記録に書かれた二つの仮説へ目を向けた。
「魔力を取り込む過程と、体内で保持する過程を別々に調べる研究そのものは、後の時代にも行われています」
ルナが顔を上げる。
「今なら、違いが分かるんですか?」
「私は史料が専門なので、現在どこまで調べられるかは分かりません」
女性は少し考えて続けた。
「現在の魔力研究を扱っているのは中央研究院です。この記録の整理番号を伝えれば、関連する研究を探す手掛かりにはなると思います」
「中央研究院……」
街の案内板に書かれていた名前だった。
ルナは手元の記録を見る。
「取り込めないか、保持できないか……」
「中央研究院に行こう。今なら、どこまで分かるのか聞いてみたい」
「はい」
「ワン」
ルナは古い記録を女性へ返した。




