第3章 第15話 岸を離れて
出港の朝、ルナは自分で目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。通りでは車輪の音がして、遠くから人を呼ぶ声が聞こえていた。
向かいの寝床では、ユニがコートを羽織っている。
「おはよう」
「おはようございます」
にゃん吉君も、枕の横から顔を上げた。
「ワン」
「ちゃんと起きたよ」
「起きましたね」
ルナは毛布を畳み、窓へ近づいた。
建物の間から、白く明るくなり始めた空が見える。
今日は、海へ出る。
*
宿で朝食を済ませ、ルナたちは港へ向かった。
釣りをした日より風が弱い。
それでも、通りを抜けて海が見えると、襟元へ冷たい空気が入り込んできた。
ルナは外套を引き寄せる。
埠頭には、もう人が集まっていた。
大きな鞄を抱えた人。
子どもの手を引く人。
荷車のそばで書類を確かめている商人。
その向こうに、昨日見上げた船があった。
岸から船へ、手すりのついた渡り板が架かっている。
上から船員の声が降ってきた。
「乗船証をお手元に。足元に気をつけてお進みください」
ルナは収納バッグから乗船証を取り出した。
列に並ぶと、すぐ前の女性の肩で何かが動く。
細い尾だった。
淡い灰色の、小さな獣が乗っている。
リスに似ていたが、耳の先から細い毛が伸び、長い尾は女性の肩をひと巻きしていた。
その獣が、にゃん吉君を見る。
にゃん吉君も見る。
灰色の獣が首を傾けた。
「ワン」
細い尾が、ぴんと立つ。
「あら。びっくりした?」
女性が肩へ手を添え、それからルナたちを振り返った。
「ごめんなさい。初めて聞く声だったみたい」
「こちらこそ……」
「ワン」
にゃん吉君がもう一度鳴く。
灰色の獣は女性の首の後ろへ回り、反対側の肩から顔だけを出した。
「隠れちゃった」
ルナが小さく言う。
「見ていますよ」
ユニの言う通り、丸い目はこちらを向いたままだった。
王都や西の魔法都市でも、使い魔を連れた人は見かけた。
けれど、この子を見るのは初めてだった。
海の向こうには、ほかにも知らない生き物がいるのだろうか。
列が進む。
女性が前へ向き直ると、長い尾もその肩へ戻った。
*
船員に乗船証を見せ、渡り板へ足を乗せた。
板の隙間から、暗い水面が見える。
船と岸の間で、水がゆっくり押し合っていた。
ルナは手すりを握る。
一歩進むと、板がわずかに動いた。
「……揺れる」
「ゆっくりで構いませんよ」
上にいた船員が声をかけてくれた。
ルナは頷き、前を見る。
長杖の先を引っかけないように持ち上げ、最後の一歩を踏み出した。
靴の下が、広い板張りの床に変わる。
船に乗った。
そう思った途端、身体がふわりと傾いた。
「あれ」
足を開いて踏み直す。
隣へ上がってきたユニは、そのまま立っていた。
「まだ動いてないよね?」
「浮いていますから」
「あ……そっか」
岸につながれていても、海は動いている。
ルナは足元を見た。
床はしっかりしているのに、自分ごとゆっくり持ち上がり、また下がる。
列車とは違う揺れだった。
にゃん吉君はユニの頭上で、いつもと変わらず浮いている。
「にゃん吉君は平気?」
「ワン」
「平気そうだね」
にゃん吉君はもう、甲板の向こうを見ていた。
*
船室は、階段を下りた先にあった。
細い通路の両側に扉が並んでいる。
教えられた番号を見つけて開くと、壁に沿って二つの寝台があった。
小さな丸窓。
床に固定された机。
壁には、荷物を留めるための紐がついている。
「ここで寝るんだ」
ルナは寝台へ腰を下ろした。
丸窓の外を、岸壁がゆっくり上下している。
見ているうちに、どちらが動いているのか分からなくなった。
ルナは視線を戻す。
長杖を壁際の紐で留め、収納バッグも寝台の脇へ置いた。
腰鞄は、身につけたままにした。
ユニの頭上から、にゃん吉君がふわりと下りた。
空いている寝台へ着地すると、真ん中に丸くなる。
「そこ、ユニちゃんの寝るところじゃない?」
「一緒に寝ます」
「ワン」
「もう決まってるんだ……」
その時、通路から船員の声がした。
「間もなく出港します。甲板へ出る方は、作業中の場所へ入らないようお願いします」
ルナは立ち上がった。
「上で見たい」
「行きましょう」
にゃん吉君も顔を上げる。
「寝ないの?」
「ワン」
白い身体が浮かび、ユニの頭上へ戻った。
寝台には、小さなくぼみだけが残っていた。
*
甲板へ出ると、朝の光が目に入った。
港の屋根が明るく照らされている。
船員たちが声を交わしながら、太い綱のそばを行き来していた。
ルナたちは通路を空け、作業場所から離れた船縁へ向かう。
手すりに触れると、冷たかった。
下には、さっきまで歩いていた埠頭がある。
見送る人たちが、こちらへ顔を上げていた。
「手紙、忘れるんじゃないよ!」
「分かってる!」
少し離れたところで、若い男が手を振っている。
ルナはセシルを思い出した。
島大陸に着いたら、手紙を出す。
今度は、船に乗ったことも書こう。
出港を知らせる低い鐘の音が響いた。
胸の奥まで響く音に、ルナは肩を揺らす。
にゃん吉君の耳も動いた。
岸へ渡していた綱が外され、船へ引き上げられていく。
足の裏へ、細かな振動が伝わった。
「動く?」
ルナが尋ねる。
ユニは岸を見ていた。
「動いています」
埠頭が、少しずつ遠ざかっていく。
列車のように、はっきりと身体を引かれる感覚はない。
それでも、船と岸の間には、もう渡れない幅の水があった。
ルナは手すりを握ったまま、そこを見つめた。
見送りの声が遠くなる。
港に並ぶ人の顔も、分からなくなっていく。
「あそこ」
ルナは港の端を指差した。
「釣りしたところだよ」
小さな岸壁が見えていた。
何本か、海へ竿が伸びている。
あの老人もいるだろうか。
目を凝らしてみたけれど、誰が誰なのかまでは見えなかった。
「こっちから見ると、小さいね」
二日前、あそこに座っていた。
浮きが沈むのを待ちながら、海を覗き込んでいた。
今は、その海の上にいる。
*
船は港の外へ進んだ。
建物に遮られていた風が、まともに頬へ当たる。
ルナは髪を押さえた。
水の色が変わっている。
岸の近くで見た緑がかった色よりも、ずっと深い青だった。
船の横で波が崩れ、白い泡になって後ろへ流れていく。
やがて、足元が大きく持ち上がった。
「わっ」
ルナは手すりをつかみ直す。
船がゆっくり下がった。
お腹の辺りに、妙な感じが残る。
「……これ、ずっと?」
「波があれば揺れます」
「慣れるかな」
「少しずつです」
ルナは腰鞄へ手をやった。
「……酔い止め、飲むの忘れてた」
「乗る少し前、と言われていました」
「今からでも飲む!」
腰鞄から出して、水と一緒に飲んだ。
すぐに取り出せる場所に入れておいて、よかった。
近くを通った船員が、二人を見て足を緩めた。
「初めてかい?」
「はい」
「気分が悪くなったら、我慢せず声をかけて。今日は風も穏やかだよ」
「これで、穏やかなんですね……」
船員が笑った。
ルナも少し笑い、手すりを握る力を緩めた。
振り返ると、港町はもう一つのまとまりになっていた。
宿の窓も、市場の店先も見えない。
その向こうに、低い山が重なっている。
ルナはしばらく眺めてから、船の進む方へ顔を向けた。
海の先に、島大陸がある。
マグナスの紹介状は、船室の収納バッグに入っている。
まだ分からないことを、向こうでも調べてみるつもりだった。
「ユニちゃん、前の方へ行ってみようか」
「歩けそうですか?」
「……ゆっくりなら」
手すりから片手を離す。
船が傾くのを待って、足を出した。
隣にユニが並ぶ。
にゃん吉君はユニの頭上から、船の進む先を見ていた。
ルナも、もう一歩進んだ。




