第3章 第14話 初めての海
王都の駅が見えなくなってしばらくして、ルナは収納バッグを開いた。
昨日セシルにもらった包みを取り出し、布をほどく。
小さな丸いパンが三つ、きちんと並んでいた。
「日持ちするものを選んである、って言ってたけど」
ルナは一つかじって、少し笑う。
「ちゃんとおいしいね」
「おいしいです」
にゃん吉君は、ユニの頭上で黙々と食べていた。
窓の外では、建物が少なくなり、葉を落とした木々と、収穫を終えた畑が続き始めた。
パンを食べ終えても、にゃん吉君は窓の外を見ている。
「にゃん吉君、ずっと外を見てるね」
「見ています」
「海が楽しみなのかな」
「ワン」
ルナは笑って、ユニへ顔を向けた。
「ユニちゃんは海を見たことがあるんだよね。どんな感じ?」
「大きいです」
「湖より?」
「ずっと大きいです」
「向こう岸も見えない?」
「海岸からでも、島大陸は見えません」
ルナは窓の外へ目を戻した。
畑の向こうには林があり、その先には山が見える。
そのどれもない、水ばかりの景色を想像してみる。
まだ、うまく思い浮かばなかった。
*
昼を過ぎても、列車は北東へ走り続けた。
王都を出た頃には平らだった土地に、少しずつ坂が増えていく。
遠くの山には白いものが見えた。
雲なのか、雪なのか、ここからでは分からない。
夕方、列車は乗り継ぎの町へ到着した。
冷たい風の中、ルナたちは駅の近くに宿を取った。
夕食を済ませ、部屋へ戻る。
明日は、港へ着く。
寝床に入ってからも、ルナは昼間の話を思い出していた。
「眠れませんか?」
隣からユニの声がした。
「少しだけ。海って、どんな音がするのかなって」
「波の音がします」
「それも、聞いたことないんだよね」
「明日、聞けます」
「……そうだね」
ユニが毛布を引き上げる。
にゃん吉君は枕元へ移り、静かに丸くなった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「ワン」
ルナも目を閉じた。
窓の外で風が鳴っていた。
しばらくそれを聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。
*
翌朝、もう一度列車へ乗った。
空は薄い雲に覆われていた。
窓から差し込む光は白く、外の景色もどこか色を失ったように見える。
列車が進むにつれ、森が少なくなった。
代わりに、風に傾いた低い草と、黒い岩の混じる土地が増えていく。
昼前。
にゃん吉君の耳が動いた。
「ワン」
ユニの頭上で、白い身体が窓の方へ傾く。
「どうしたの?」
ルナも外を見た。
低い丘の向こうに、青いものが見える。
最初は空だと思った。
けれど、それは丘が途切れた先にも続いていた。
列車が坂を上る。
視界が開いた。
「……あれ?」
青いものが、どこまでも広がっている。
空とは違う。
表面が光を反射し、幾筋もの白い線が浮かんでは消えていた。
「海……?」
「海です」
ルナは窓の外を見つめた。
大きいとは聞いていた。
地図にも描かれていた。
それでも、目の前にある広さは、想像していたものとは違った。
端が見えない。
遠くで空と重なり、その先に何があるのかも分からない。
「本当に、大きい……」
列車が進み、海が建物の向こうへ隠れる。
ルナは、もう一度見える場所を探すように窓の外を追った。
*
港町の駅へ着くと、王都とは違う匂いがした。
冷たい風に、湿った独特の匂いが混じっている。
頭上では白い鳥が鳴き、駅前の道には大きな荷車が何台も並んでいた。
積まれているのは木箱や樽、太い縄だった。
「港は、どっちかな」
ルナはマグナスからもらった地図を広げた。
海から吹く風が、紙の端を持ち上げる。
慌てて押さえると、ユニが通りの先を指した。
「向こうです」
屋根の向こうに、高い帆柱が何本も見えていた。
ルナたちは荷車の行き来に気をつけながら、海運商会へ向かった。
扉を開けると、壁一面に航路図が掛けられている。
受付の男性へ、マグナスから預かった木札を見せた。
「マグナスさんから、こちらを教えていただきました。北東の島大陸へ行きたいんです」
男性は木札の印を確かめ、帳簿を開く。
「次の船は三日後です。今朝、向こうから戻ってきたばかりでしてね。荷を積み替えてから、島大陸へ向かいます」
「三日後……」
「急ぎでしたか?」
「いいえ。その船でお願いします」
男性の視線が、ユニの頭上へ移る。
「では、お二人と、その子も一緒ですね」
「はい。にゃん吉君も一緒です」
「ワン」
男性は帳簿へ書き込んだ。
乗る船と集合場所を教わり、代金を払う。
差し出された乗船証には、三日後の日付が記されていた。
「天候によっては延期になりますので、前日にもこちらでご確認ください」
「分かりました」
乗船証を収納バッグへしまい、商会を出る。
通りの向こうでは、大きな帆がゆっくり下ろされていた。
「三日あるね」
「あります」
「それまでは、この町を見ようか」
「行きたいところはありますか?」
ルナは帆柱の間に見える青へ目を向けた。
「まず、海の近くまで行きたい」
*
駅の近くで宿を取ったあと、ルナたちは海へ向かった。
港へ近づくほど、潮の匂いが濃くなる。
船員たちの声。
風にはためく帆の音。
ざあ、と水が岸壁へぶつかる音。
ルナは歩く速度を緩めた。
「これが、波の音?」
「はい」
白く砕けた水が引いていく。
その後ろから、また次の波が押し寄せた。
大きな船が何隻も並び、その間を小さな舟が行き交っている。
船の側面には、見上げるほど大きな錨が掛かっていた。
「あれに乗るのかな」
「私たちの船は、もう少し向こうです」
ユニが指す先にも、帆柱が並んでいる。
全部見て回りたい気もしたが、ルナはまず、水に近づける場所を探した。
荷揚げ場から離れた先に、砂と小石の浜があった。
ルナは波打ち際へ歩いていく。
一歩進むたび、湿った砂へ靴が沈んだ。
波が足元まで来て、触れる前に引いていく。
ルナはしゃがみ、次の波へ手を伸ばした。
「冷たっ」
指先が水へ入る。
思っていた以上に冷たく、すぐに引き上げた。
透明な雫が、指から砂へ落ちる。
「遠くから見ると青いのに、手につくと普通の水みたい」
「海の水です」
「うん。そうなんだけど」
ルナは濡れた指を、ほんの少しだけ舐めた。
「……しょっぱい」
「しょっぱいです」
「本当に塩の味がするんだね」
にゃん吉君はユニの頭上から海を見ている。
「にゃん吉君も触る?」
「ワン」
返事はしたものの、動かなかった。
「見るだけ?」
「ワン」
足元で、小さなものが動いた。
砂と同じような色をした蟹だった。
「あ、蟹だ」
にゃん吉君が頭上から覗き込む。
蟹は横へ走り、小さな穴へ潜ってしまった。
「ワン」
「入っちゃったね」
にゃん吉君は、しばらく穴を見ていた。
また波が来る。
さっきより遠くまで伸びた白い泡に、ルナは慌てて立ち上がった。
「あ、待って」
一歩下がった靴の先へ、ぎりぎり水が届く。
ユニは少し後ろに立っていた。
「そこまでは来ないんだ」
「今の波は来ません」
「次は?」
「もう少し下がりますか?」
「うん」
ルナは笑って、ユニの隣へ並んだ。
外套の裾が風に引かれる。
濡れた手を布で拭いてから、もう一度海を見る。
この向こうに、北東の島大陸がある。
三日後には、船に乗ってここを渡る。
目を凝らしても、見えるのは水平線だけだった。
ルナは外套の襟を寄せて、しばらく、その線を見ていた。




